二十四節気は1年を24の節に分け、節気ごとに命名して気候の変化、推移を知り、社会や生活の中で季節感を役立てるものです。

国民の祝日、旧祝日

■5月5日「端午」です。■
端午(たんご)五節句の一つで旧暦5月5日のことで、男子の節句とされています。
190430_21.jpg旧暦では「午(うま)の月は5月」にあたります。この「午の月」の「最初の午の日」のことを「端午:たんご」といいました。  

また、端午は「午:ご」は「五:ご」と同じ音です。これは、毎月上旬の5日の意も含まれていて「午月の初めの5の日」のことを指します。

これを「節句」として祝っていたものが、のちに「5が重なる5日」が端午の節句の日になりました。
同じように、奇数の「月と日」が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっています。  

◆端午の始まり◆

120417_54.jpg端午の習慣は、3世紀の中国で始まったとされています。中国ではこの日「邪気を祓い健康を祈願する日」とされ、野に出て薬草を摘んだり、蓬(よもぎ)で作った人形を家の戸口に飾ったり、菖蒲酒を飲んだりして邪気を祓う行事が行われます。
蓬や菖蒲は邪気を払う作用があると考えられていて、現代の日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るしたり菖蒲湯に入る風習が残っています。  

◆端午の伝来◆

日本には平安時代に伝わり貴族の間から次第に民間へと普及していきました。菖蒲や蓬を軒に吊るしたり、ちまきや柏餅を食べてお祝いをします。
男子のいる家では、鯉のぼりを立て、甲冑・刀・武者人形を飾り、子供の成長を祝うようになったのは、江戸時代以降のことです。
端午の日に「粽・ちまき」や「柏餅・かしわもち」を食べる風習は、中国戦国時代の楚の愛国詩人「屈原」の命日(5月5日)に屈原を慕う人々が、汨羅江(べきらこう)に粽を投げ入れて供養したことが始まり。
また、屈原の亡骸を魚が食らわないようにしたものが「ちまき」の由来とされます。
 「柏餅」を食べる風習は日本独自のもの。柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」という縁起物として広まりました。
中国では現在も屈原を助ける為に船を出したことに因んで「龍船節」の祝いとして、手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕が行われます。

◆さつき忌み◆

120419_57.jpg日本では古くから5月を「悪月:あしげつ」と称して物忌み月でした。
田植えの頃に、早乙女が家に籠って身を清め、田の神を迎え祀るといった神事があり、これを「さつき忌み」と呼んでいました。  
田植えをする早乙女とは、若い女性のことです。若い女性が穢れを祓い身を清めたのですから、「端午」はもともと女性の節句だったものです。
宮中では、菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い、天皇から「薬玉」(くすだま=薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜りました。  
5月の節句は、日本古来の「さつき忌み」と、中国から伝来した「端午の節句」が一緒になったものです。  
やがて武家社会に入り「菖蒲」と「尚武」が同音であることなどから、雛節句と対照的に男子の節句となっていきました。
立身出世を願い、鯉のぼりや武者人形など、武勇を表すものを飾るようになりました。

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■5月5日「こどもの日」■ 
平成の現在5月5日は「こどもの日」として国民の祝日になっています。
「こどもの日」は、祝日法ではこどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを制定の趣旨としています。
 「こどもの日」は、男子の健やかな成長を祝い、祈る日本の風習で、五節句の一つとして「端午の節句」とも呼ばれます。
そもそも旧暦5月5日に祝われたものが、今日の日本では新暦5月5日に行われています。旧暦や月遅れの6月5日に行われる地域もあります。 

鎌倉時代頃から「菖蒲:しょうぶ」が「尚武:しょうぶ」と同じ読みであることや、菖蒲の葉が「剣」の形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされました。 鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した「五月人形」などを飾り、庭前には「鯉幟:こいのぼり」を立てるのが典型的な祝い方です。
鎧兜には男子の身体を守るの意が込められています。こいのぼりを立てるのは、男子の立身出世を祈願しています。
こいのぼりは「5色の吹き流し」「3匹(あるいはそれ以上の)鯉」から。吹き流しの5色は「五行説」に由来します。  

◆「鯉幟・こいのぼり」◆
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鯉幟とは、端午の節句(旧暦5月5日)
までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世を願って庭先に飾られたものが始まりです。
風になびかせる吹流しを、鯉の形に模して作ったもので、始めは紙や布に鯉の絵を描いて幟(のぼり)にしていましたので「皐幟:さつきのぼり」とも呼ばれます。

菖蒲と尚武を掛けてこの日を大切にする風習は、江戸時代には幕府の重要な式日となりました。
城には、たくさんの幟、刀、兜などを飾り、盛大に祝いました。
中国の古くからの伝説で、中国の大河「黄河」の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうとしましたが、鯉だけが登りきり、鯉は姿を変え「竜」になることが出来たと伝えられています。
鯉の滝登りに因んで、我が子の立身出世を願い、また男子の生まれたことを天に伝え、加護を願うという意味が込められています。

本来は真鯉(黒い鯉)のみを飾りますが、明治の頃から緋鯉(ひごい)と対で飾るようになりました。
昭和時代からは子鯉(青い鯉)を添えた家族を表すものが主流となっています。
竿の先端には、籠玉や回転球を。その下に矢車を付け吹流し、真鯉、緋鯉、子鯉の順番に並べます。

吹流しには「五色吹流し」と「雲竜吹流し」があります。
雲竜吹流しは、鯉が滝を登りきって竜になった姿で、家紋を入れた吹流しもあります。 五色吹流しの「五色」は、五行思想の五色からきています。
東=緑、南=赤、中央=黄、西=白、北=黒。因みに、七夕の時の「五色の短冊」も同じ意味合いです。

■5月4日「みどりの日」です。■ 120419_60.jpg
「みどりの日」国民の祝日のひとつです。
昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日「天皇誕生日」でしたが、昭和64年天皇崩御により、天皇誕生日は平成天皇の誕生日である12月23日に改められました。
令和に改元されてから平成天皇誕生日の12月23日の扱いは今後、さまざまな議論がされる事でしょう。  

しかし、ゴールデンウィークを構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響が懸念されたことから、4月29日を「天皇誕生日」から「みどりの日」と改めた上でそのまま祝日になりました。
その後、平成19年からみどりの日は日付を5月4日に移動、4月29日は「昭和の日」と改めて祝日として存続させることになりました。 

「みどりの日」の名前の由来は、昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから「緑」にちなんだ名がふさわしいということから。
祝日法では、「自然にしたしむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを法定の趣旨としています。 130423_23.jpg
この日、国公立公園の無料開放を行うほか、地方公共団体や一般の協力を得て、国民が自然に親しむ為の各種行事等が行われます。 

参考Web「昭和の日」旧天長節です:http://www.kisetsunootayori.com/04/23-04-29-1.html   

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
昭和天皇の崩御から、4月29日は(昭和)天皇誕生日⇒みどりの日⇒昭和の日と名称が変わり、それまでの「みどりの日」を5月4日に移動して「昭和天皇を偲ぶ日」と謂れを取って設定した祝日が5月4日「みどりの日」です。 
この日は令和初のGWの中日です。しっかり休んで鋭気を養いましょう。
GWが明けると暦の上では「二十四節気立夏」夏の始まりです。 
時節柄、お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■5月3日「憲法記念日」です。■
120419_61.jpg憲法記念日」は、国民の祝日のひとつ。祝日法では「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」のを法定の趣旨としています。

「日本国憲法」は、第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦後に「大日本帝国憲法」の改正手続を経て、昭和21年(1946))11月3日に公布され、昭和22年(1947)5月3日に施行されました。これを記念し、昭和23年(1948)に制定。

日本国憲法は、施行されてから現在まで一度も改正されたことはありません。そ

の為、日本国憲法の原本の漢字表記は当用漢字以前の旧漢字体です。4段からなる前文と、11章103箇条の本文で構成され、その骨子は主権在民・戦争放棄・基本的人権などで、他に類を見ない平和憲法となっています。

110429_12.jpg※度々議論される第9条※
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。※前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
憲法記念日の今日5月3日、大東亜戦争に敗戦して進駐軍占領下で制定された昭和に制定された日本国憲法施行のいきさつを少しだけ振り返ってみましょう。
現政権は時代に合った憲法制定に向け、改憲に動いているようです。
改憲するとすれば、神武天皇以来の歴史が盛り込まれた、令和の時代に合っている「争い」や「拝金主義」から脱した「仁」や「徳」が盛り込まれた日本人らしい憲法にして欲しいものです。

読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■4月29日「昭和の日」「旧天長節」です。■
120410_49.jpg昭和の日」は、国民の祝日のひとつ。昭和天皇の誕生日です。定義・趣旨には「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とあります。

昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇崩御により祝日法の「天皇誕生日」に係る項目の改正が行われ「みどりの日」という名称の祝日に改められました。後、国会での審議を経て平成19年(2007)から「昭和の日」と改まりました。「みどりの日」は5月4日に移動。

昭和天皇は、明治34年4月29日、大正天皇の第1男子として東宮御所にてご誕生されました。名は「裕仁(ひろひと)」。印は「若竹」。称号は「迪宮(みちみや)」。明治45年7月30日、

明治天皇の崩御により皇太子となられました。

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13年、久邇宮邦彦(くにのみやくによし)王の第1女子「良子(ながこ)女王」とご結婚。大正15年12月25日、大正天皇の崩御により、第124代天皇に即位。昭和3年、京都にて即位の礼と大嘗祭の大礼が執り行われました。


昭和64年1月7日、吹上御所において崩御。御歳87歳。歴代の天皇の中で在位期間が最も長く、また最も長寿でした。平成元年2月24日、新宿御苑にて大喪の礼が行われ、武蔵野陵墓地にて葬場殿の儀などが執り行われました。御陵名は、武蔵野陵(むさしののみささぎ)です。

120410_50.jpg国民の祝日制定以前は「天長節」と呼ばれる四大節の一つでした。天長節は奈良時代、光仁天皇の宝亀6年(775)9月の詔勅によって初めて行われ、その後中断していましたが明治元年に再興されました。

明治天皇の誕生日は9月22日(旧暦)でしたが、太陽暦採用後の明治6年以降は11月3日に変更されました。大正天皇の誕生日は8月31日、昭和天皇の誕生日は4月29日です。「天長節」に対し、皇后の誕生日を地久節」として祝っていましたが、現在は廃止されています。
 
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
もうすぐ「令和」平成の前の「昭和」は遠きなります。昭和の日になると昭和天皇を連想します。印象深いのが、やはり玉音放送で、現在でも語り継がれています。
既に崩御されて30年を経ていますが、激動の時代を生きた功績を一寸振り返ってみましょう。昭和史を振り返るには、九段にある「昭和館」や靖国神社に併設されている「遊就館」などが参考になります。
東京オリンピック、昭和恐慌、大阪万博、満州事変、大東亜戦争、高度経済成長、オイルショック、不動産バブルなどなど思い出すだけで何があったかわかるような近代史が続いています。

読者の皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■3月21日「春分の日」「旧春季皇霊祭」です。■
130302_24.jpg春分の日」は、昭和23年に制定された国民の祝日の一つで「自然をたたえ、生物を慈しむ日」との趣旨です。旧暦2月の中気で、お彼岸の中日です


春分の日は、春の彼岸の中日にあたり、大東亜戦争前は「春季皇霊祭:しゅんきこうれいさい」といっていました。

春季皇霊祭」とは、もと祝祭日の中の大祭日の一つでした。毎年、春分の日に宮中の皇霊殿で行われる皇室の大祭で、天皇自ら歴代の天皇・皇后・皇族などの皇祖の神霊を祀る儀式です。

平安時代の中期以降は、京都御所の清涼殿・御黒戸の間において仏式で執り行われていました。その後、明治の神仏分離政策により、神式による祭儀に変更されました。

古くは「古事記」「日本書紀」などに、皇室による先祖を祀る祭儀が行われていたとあります。
190315_30.jpg春分の日は、お彼岸の中日です。暦の上では「真西」に沈む太陽は、「極楽の東門」に入ると伝えられています。この日の太陽を拝むと、十万億土を隔てた「極楽浄土」の東門を拝むことになります。この極楽が最も近くなる日が「彼岸の中日」と考えられているのです。

この日に故人の霊を供養すると、迷わず極楽浄土に成仏できるといわれていて、死者の冥福を祈り、仏供養、おはぎ(ぼたもち)、草餅、五目ずし、稲荷ずしなどを作ってお墓参りをします。

190315_31.jpg「暑さ寒さも彼岸まで」という言うように寒さも峠を越して温和な気候になります。彼岸の中日にも増して「弘法大師」に関連した行事が多いのは、空海の入定が3月21日とされているためでしょう。また能登一宮の気多大神にて「おいで祭」が一週間にわたって開催されます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
皆様、春分の日はお彼岸の中日です。
これを機会に墓参りをしましょう。「墓に布団は掛けられない」「親孝行したい時には親は無し」といいます。先祖に感謝して、生きている喜びを噛みしめましょう。必ず忘れていた何かに出会いますよ。
暖かくなってきましたが、朝夕は冷え込みます。お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■2月11日「建国記念の日」「旧紀元節」です。■

平成31年は2679回目の紀元節で皇紀2679年です。

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「建国記念の日」は、国民の祝日のひとつで、「建国をしのび、国を愛する心を養う」のを法定の趣旨とし、昭和41年に制定されました。


かつて、戦前この日は
「紀元節:きげんせつ」という祝日でした。日本書紀で神武天皇即位の日とする皇紀元年「辛酉年春正月庚辰朔」(紀元前660年正月1日)が、新暦(太陽暦)の2月11日にあたるとして、明治5年12月に制定されました。


190204_23.jpg戦後「紀元節」はなくなります。日本国憲法の精神にそぐわないといった理由からでした。しかし、昭和26年頃から復活の動きが起こり、昭和41年に敬老の日と体育の日とともに、国民の祝日に追加されました。
 
「建国記念日」ではなく「建国記念の日」なのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事象そのものを記念する日という考えによるものです。
 
150206_22.jpg2月11日という日取りには、根拠が曖昧であるため、様々な主張があります。
しかし、この日は「大日本帝国憲法の発布」「金鵄勲章」の制定などが行われており、大正十五年からは「在郷軍人」などの建国祭の祝賀行事が行われるなど、日本における軍国主義の高揚に大きな役割を果たした日でもあり、重要視されていたようです。
 
世界最古にして最長の王家「天皇家」。神武天皇は初代天皇で、名前は「神日本磐余彦尊:かんやまといわれびこのみこと」。「九州日向国(現在の宮崎県)から東征し、瀬戸内海を通って難波(現在の大阪市)に上陸、熊野から吉野を経て大和を平定し、大和の橿原宮に於いて即位された」と日本書紀などに説明されています。

◇紀元二千六百年頌歌 紀元二千六百年奉祝の歌
紀元二千六百年奉祝会 制定 東京音楽学校 作曲

一、遠すめろぎの かしこくも はじめたまひし おほ大和

  天つ日嗣の つぎつぎに 御代しろしめす たふとさよ

  仰げば 遠し 皇国の 紀元は 二千 六百年

二、あを人民に い照る日の 光あまねき おほ八州 

  春のさかりを さく花の 薫ふがごとき ゆたかさよ

  仰げば 遠し 皇国の 紀元は 二千 六百年

三、大わだつみの 八潮路の めぐり行きあふ八紘

  ひじりのみ業 うけもちて 宇とおほはん かしこさよ

  仰げば 遠し 皇国の 紀元は 二千 六百年

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◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

敗戦を経験した日本では、それまでの歴史に問題があるからと、その日の呼び方を変えたりしても、内容や意味が変わるものではありません。

私達日本人は自国の伝統ある歴史を客観視することで、何が正しいか判断する豊かさをもちたいものです。
そうはいっても、仕事が休める休日が増えることが嬉しい!と思うのが庶民でしょう。歴史の事実より休める休日、意味はその後といったところでしょう。
世の中が平和な証拠です。

筆者敬白 

■1月14日「成人の日」です。■
「成人の日」は、国民の祝日のひとつ。「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを法定の趣旨としています。昭和23年に制定されました。

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本来は小正月にあたる1月15日でしたが、ハッピーマンデー制度により1月の第2月曜日に改正されています。

成人を祝うしきたりは古くからありました。
加冠(戴冠)の儀として男子の元服を表したものが代表的です。
男子は
元服・褌(ふんどし)祝い、女子は裳着・結髪などの祝いがそれです。社会の一構成員になったことを承認する通過礼儀であるといえます。満20歳になった人は選挙権を持つことになります。

満20歳に達する人々を招待して成人式を催し、講演会を開いたり記念品を贈ったりする市町村もあります

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
今年は暖冬で数年前の成人式のような豪雪にはならなようです。以前は成人式典での馬鹿騒ぎや式典妨害などが、これも風物詩になっています。
被災地など整然と厳粛に式典が挙行され、地域の復興を誓っている成人も数多くいました。成人式は日本の旧来からの伝統文化です。成り立ちを紐解き、今後も絶やさないで継続してもらいたいものです。

筆者敬白

■1月1日「元日」です。■

「元日:がんじつ」は、国民の祝日の一つで「年のはじめを祝う」のを法定の趣旨として昭和23年に制定されました。
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正月三が日を「元三日:がんさんにち」と呼びますが、元日はその初日をさします。この日の朝を、特に「元旦:がんたん」・「歳朝:さいちょう」・「歳旦:さいたん」などと呼んで1年の始まりを寿ぎます。元日は、宮中の年中行事「元日節会:がんにちのせちえ」に由来します。元正天皇の霊亀2年(716)以来、文武百官を招いて年始を祝ったとされます。

一般の人達にとっては「年神:としがみ=歳神」が来臨するのを祝う「神迎え:かみむかえ」としての大切な行事でした。それぞれの家々には様々な祝い方があり、神社仏閣に初詣に行ったり、晴れ着をつけ屠蘇をいただき、御節料理や雑煮で祝ったりしてきました。

「旦」は「朝」の意。元日の朝の時間帯を「元旦」と呼ぶのが正しい。
190104_12.jpg「正月」は「1年の初めの月」をいいますが、新年の祝いや行事をも指します。1月を正月と呼ぶのは、「正」が年の初め、年の改まるの意に由来します。そもそも「正月」は「盂蘭盆」と対応するもので、半年ごとに先祖の魂を迎えて祀る性質の行事でした。現在でも年頭墓参の行事が残っている地域もあります。

仏教の110101_2.jpg影響が大きくなるにつれ、盂蘭盆は先祖の供養など仏教的行事の意味合いが濃くなっていきました。正月は神祭りとしての意味合いが強くなり、年神様を迎え新年の豊作を祈る月として、年神の祭りとして性格づけられるようになっていきました。

◆正月とは◆
正月1・2・3日を「三が日」、これは現代でも一般的です。
元日~7日までを「大正月」または「松の内」といいます。
1月7日は「七日正月=七草の節句」、七草粥を食します。
15日は「小正月:しょうしょうがつ=二番正月」、
20日は「二十日正月:はつかしょうがつ=骨正月」と呼ばれ、それぞれを祝う風があります。
一般に正月の終わりは20日とされています。

「新年」とは新しい年・1年のはじめをいいます。暦法によって様々ですが、太陽暦では冬至を過ぎた頃に設定され、旧暦(太陰太陽歴)では立春の頃としています。

「元日節会:がんにちのせちえ」は、朝廷の年中行事の一つ。正月1日、朝賀のあと天皇が文武百官を大極殿・豊楽院(紫宸殿)・豊明殿などに招いて、行った年始の宴会のことです。奈良時代の初めには行われ、明治維新までの1200年間も続いた行事です。天皇が豊明殿に出御されます。

はじめに諸司奏と称する諸国の豊作の吉兆を天皇に申し上げる儀式が行われ、中務省が七曜暦を奉ります。

※七曜暦:「七曜具注暦」のことで七曜(日月火水木金土)が記入された暦。

次に、宮内省が「氷様:ひのためし」と「腹赤贄:はらあかにえ」を奉ります。氷様は、氷室に納めた氷を取り出してその厚さを天皇に申し上げる儀式で、氷が厚いほど目出度いとされました。腹赤とは鱒(ます)のことで、食いかけの鱒を順に取り伝え食べる儀式です。
後に、皇族・各将・各省大臣・各国大使などが饗座につき、三献の義、奏楽などが行われます。

■1月1日「年賀」です。■
「年賀:ねんが」とは、1月1日から3日の間に新年の挨拶を述べるために親戚や知人、上司や近所の人々を訪れる儀礼のことです。

古く村落社会では、家族親戚など血縁関係にある者などが本家に集まってともに大晦日を明かし、新年を迎えるというしきたりがありました。祖先の霊を祀り、五穀の豊作を祈って年神を祭り、一族郎党の団結を誓い合いました。血縁関係だけでは生活していけなくなると、地縁関係へとこの風習が広がっていき、年頭の挨拶に出向くという形になっていきました。

110101_3.jpg江戸時代には、商家の主人が、供の者に扇子などのお年玉を持たせて年始回りに出歩くのが、新年のしきたりになっていました。明治時代になると、人力車の普及とともに回る件数も多くなり、その多さを競い合う風潮もあったほどです。年始客は扇子や葉書などを持ち、日頃お世話に

なってる家々を回り、年賀を受ける側も正式な接客でもてなしました。普通、年賀の訪問は3日までの間ですが、遅くとも7日までには済ませるのが常です。

■1月1日「初詣」です。■
「初詣:はつもうで」とは、年が明け、初めて社寺に参拝することをいいます。氏神またはその年の恵方にあたる方角の神社仏閣にお参りをして、今年一年の無事と平安を祈る行事のことです。

「歳徳神」は「恵方神:えほうじん」とも呼ばれ、年によって異なった方位に宿るといわれています。その方位を「恵方:えほう」といいますが、その方位にある神社仏閣を参拝することを恵方参りといいます。古くは「年篭り:としごもり」といって、祈願の為に大晦日の夜から朝にかけて、氏神の社に篭るのが習わしでした。「御篭り:おこもり」とも。

やがて、年篭りは除夜詣と、元日詣の二つに分かれ、初詣の原形となっていきました。現在でも、除夜に社寺に参拝したのち、一度家に帰ってから元旦になってまた参拝するというところもあります。

東京・明治神宮、鎌倉・鶴岡八幡宮、川崎・川崎大師、三重・伊勢神宮、京都・平安神宮など、全国の有名な社寺では、前日から出掛け除夜の鐘を聞き、その地で元旦を迎えるという光景が見られます。除夜詣と元日詣を一緒に済ませてしまおうというものでしょう。

■正月飾り、催事「四方拝」「元始祭」など■
110101_4.jpg◆「門松:かどまつ」とは、新年を祝って家の門口などに立てられる松竹の飾りのこと。松飾り・門の松とも。

室町時代の僧・一休の歌に「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とあります。古くは木の梢には神が宿ると考えられていて、門松に年神をお迎えして祭るという意味を持っていました。しっかりと年神をお迎えしないと、その年は不幸になると信じられ、非常に重大な儀式でした。

◆「依代:よりしろ」とは、神霊が出現するときの媒体となるもののこと。門松の他、花・樹木・岩石、形代、よりましなど。榊(さかき)・栗・楢・椿などの木が使われます。門松の飾り方は様々ですが、本飾りは孟宗竹を斜めに切って松の木を添え、注連をかけた豪華な飾り。一般家庭では、松の小枝を門口の両側につけ、輪飾りをかけた簡単なものが使われます。

孟宗竹(もうそうちく)の原産は中国。淅江省より琉球を経由して渡来したもので「毛竹」と呼ばれます。国内では鹿児島に「江南竹林」の銘で渡来原株の末裔が残っているようです。孟宗とは「親孝行な息子」の意。真冬に竹の子が食べたいという母親の為に山に入って採ってきたものだから孟宗竹と呼ばれるそう。
190104_13.jpg新年を迎える飾り物は、年末のうちに飾りつけを済ませます。29日は「苦日飾り」、31日は「一夜飾り」といって嫌います。門松は正月6日の夕方に取り払います。そのため6日までを「松の内」と呼ぶようになりました。

◆「注連飾り:しめかざり」とは、正月などに門松や玄関・床の間・神棚などを、注連縄を張って飾ることをいいます。人間に災いをもたらすという「禍神」が家内に入らないよう、呪いとして飾られます。注連縄は左捻り(ひだりひねり)を定式としていますが、これは左を神聖視する旧来のしきたりです。輪飾りや大根じめ、牛蒡じめなどの種類や、縄に餅・昆布・松葉・魚などを飾るものもあります。

◆「鏡餅:かがみもち」は、まるく平たい鏡のように作った餅のことで、正月やお祝いのとき、大小2個の餅を重ねて、神仏に供えます。

古くから神仏の祭りには餅を供えるのが習わしです。昔の鏡は青銅のものが多く使われていて、装飾用というより神事などに使われ、宗教的な意味合いが濃かったのです。鏡餅は歴代天皇が継承する三種の神器のひとつ「八咫鏡」(やたのかがみ)を形どっているものといわれています。
 
鏡餅が一般にも普及し、現代のような形になったのは室町時代以降のこと。住居の建築様式が変わり、家に「床の間」が出来るようになって、床飾りとして普及しました。武士の家では、床の間に鎧・兜などの具足を飾り、鏡餅を供え、繁栄を願いました。鏡餅には、譲葉(ゆずりは)・熨斗鮑(のしあわび)・蝦・昆布・橙などを載せて飾るのが通例で、武家餅といわれるものです。
 
◆「幸い木:さいわいぎ」とは、正月に魚などを掛けるために、庭に渡す横木のこと。庭に六尺ほどの棒を横渡しして、平年には12本、閏年には13本を結んで飾り縄を吊るします。その縄に鯛の干し物・鰯・鰹節・するめ・昆布・大根・譲葉・橙など正月用の食品を吊り下げ、これを土間などに取り付け、正月に食べていくというもの。
 
九州や四国地方に多く見られました。現在でも長崎県五島列島一帯に見られます。関東でも竹に魚・野菜・昆布・炭などを吊るして、恵方棚の前に供える風習があります。幸い木には神が宿ると信じられています。また、門松の根もとに短い木を寄せて立てて飾る、割り木(薪)のことも「幸い木」といいます。
 
◆「破魔弓:はまゆみ」「破魔矢:はまや」「破魔」とは、仏教用語で悪魔を破滅すること。煩悩を消滅させるの意。正月に神社などへ参拝に行き、お土産に破魔矢・破魔弓を買うしきたりがあります。

生まれて初めて正月を迎える男の子には破魔弓を贈り、もらった家ではこれを新年に飾って祝う習慣もあります。のちに細長い板に弓矢を飾り付け、その下に戦人形などの押絵をはり、男の子の初節句の贈り物になりました。
昔は正月に行われる「破魔打ち」という「年占競技」(としうらきょうぎ)に使われていました。その年の運勢を占うもので、わらで作った的を投げて射落としたり、木の枝を投げて遮ったりして、境界線を超えたら勝ちという遊びです。しかし、危ない遊びであるからか現在はすたれてしまいました。また、破魔弓・矢は、家を建てる際の棟上式に、屋根の上に飾られます。

◆「お年玉」とは、もともと親類や内輪の目上の人から目下の人へ贈られる性格のもの。昔は餅を贈りました。
 
年の初めに贈り物をする習慣は、すでに室町時代には盛んに行われていました。金子・筆・硯・紙・酒・餅などの品物が用いられ、これをお年玉と呼んでいました。現在は年始先に子供がいれば、お年玉を贈ることが多い。子供に限らず、社員やお年寄りに贈っても、失礼にはなりません。商店では、年賀のしるしとしてタオルやカレンダーを配る風習があります。
 
110101_5.jpg◆「正月遊び」凧揚げ・独楽回し・双六・羽根突き・福笑いなど。
 
歌加留多取りは、小倉百人一首の和歌を一首ごとに書いた読み札と、下の句のみを書いた取り札を使ってする遊び。「歌骨牌」(うたがるた)とも。
 
「三十人に余んぬる若き男女は二分に輪を作りて、今を盛りと加留多遊をするなりけり。込み合える人々の面は皆赤うなりて、白紛の薄剥げたるあり、髪の解れたるあり、衣の乱次く着崩れたるあり。皆狂して知らざる如く、寧ろ喜びて罵り喚く声...」とは、尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の加留多会のくだり。
 
明治三十年代頃は、正月の加留多会が若い男女が一緒に楽しみ合える数少ない機会だったことは間違いありません。当時の歌加留多は「百人一首」で、草書など色々な書体で書かれていましたが、やがて「東京カルタ会」によって「標準加留多」が制定され、全国に流行していきました。
 
130104_20.jpg◆「御節:おせち」とは、正月や節句に作るご馳走やお供えのこと。「おせち」の語の由来は、年に5回、宮中で季節の節目に神前に食べ物を供えた節供(せちく)からきています。
 
◇「据わり鯛:すわりたい」=尾頭付きの焼いた鯛。二匹の鯛を腹合わせにして、頭と尾を高くかかげたもの。座鯛・坐鯛ともいいます。また、石持・鰯・鯖なども用います。真鯛(関西では本鯛ともいう)は、古くから日本で珍重されてきた「魚の王者」で、鯛は「めでたい」に通じることから縁起が良いとされています。
 
◇「開き豆:ひらきまめ」=水煮して大きくした大豆。また、皮を剥いて左右の実を離したもの。わざわざ開くという語句をつけるのは「開運」を意味し、縁起が良いとされています。
 
◇「開き牛蒡:ひらきごぼう」=生のまま細かく算木のように切った牛蒡。すりこ木で叩いた叩き牛蒡を用いることも。開き豆と同じように、開くは「開運」に通じ、縁起が良いとされています。
 
◇「数の子:かずのこ」=鰊の腹子。干し数の子と塩数の子があります。アイヌ語で「鰊の子」(カドのコ)が変化したもの。また、語呂で二親から多くの子供が生まれるからと縁起を担いだものです。多産・子孫繁栄の意。
 
◇「ごまめ」「田作り」=片口鰯の稚魚を真水で洗って干したもの。炒って飴煮にして食べます。健全を意味する「まめ」との連想からその縁起を担いだもの。また、片口鰯は田畑の肥料にされ、豊作になったことから「田作り」ともいいます。豊作祈念の意も。
 
◇「芋頭:いもがしら」=里芋の親芋のこと。魁とも書き、家の芋ともいいます。子芋をよくつけるため、子宝につながって縁起が良いとされています。頭(かしら)は、人の上に立つ「かしら」に通じ、縁起が良いとされました。
 
◇「黒豆:くろまめ」=「まめ」は丈夫の意。まめに暮らすとの願いが込められています。
 
※この他、昆布巻き・蒲鉾・なます・金団(きんとん)・蜜柑(みかん)など。
 
130104_21.jpg◆「若水:わかみず」とは、1月1日の早朝に井戸の水を汲んで神に供えること、またはその水のこと。元日の早朝、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に出合っても口をきいてはならないことになっています。
 
若水は邪気を除くと信じられ、福水・若井・初井・生華水などとも呼ばれます。年神への供え物や家族の食事を調えるのに使われます。若水を汲むのは年男の役目とされていました。汲む時は「黄金の水を汲みます」などど目出度い言葉を添えて縁起を担ぎます。
 
◆「若潮:わかしお」とは、1月1日の早朝に海水を汲んで神に供えること、またはその海水のこと。潮水のかわりに海藻を用いたり、塩で清めを行ったりすることもあります。
 
◆「四方拝:しほうはい」とは、もと祝祭日の中の四大節の一つ。元旦における宮廷行事の一つで、天皇が元日の早朝に「天地・四方」を拝する儀式です。元日の寅の刻(午前4時)、綾綺殿(りょうきでん)※で「黄櫨染※の袍:こうろぜんのほう」を着し、清涼殿の東庭に出御し、属星※、天地四方、父母の山陵を拝されます。
 
綾綺殿(りょうきでん)=更衣所。
黄櫨染(こうろぜん)=赤みがかった黄色に染めるもので、天皇の第一の正装のこと。
属星(しょくじょう)=その人の運命を左右するといわれる星。その年の天災を祓い、五穀豊穣と宝祚長久・天下泰平を祈願する朝儀でした。
 
四方拝の起源は中国。日本では平安時代に宮中で取り入れられました。宮中にならって貴族や一般庶民にも広まり、元日の朝に四方を拝して五穀豊穣と無病息災を祈りました。明治以降は、皇居内の神嘉殿の南庭で「伊勢皇大神宮(内宮)」「豊受大神宮(外宮)」の二宮に向かって拝礼されたあと、東西南北に向かって四方の諸神を拝されるように改められました。
 
◆「元始祭:げんしさい」とは、もと祝祭日の中の大祭日の一つ。毎年正月3日、天皇が宮中の賢所・皇霊殿・神殿の三殿において親祭し、皇位の元始を寿ぐ儀式のこと。明治時代に皇室の祭祀に定められました。
 
明治3年1月3日、神祇官八神殿に八神、天神地祇、歴代の皇霊を鎮祭したことに始まります。皇室祭祀の中でも重儀と位置づけられ、明治41年制定の「皇室祭祀令」において大祭に加えられ、昭和2年の公布で祭日および祝日に定められました。戦後、国民の祝日から外されましたが、宮中では従来通り現在でも行われています。
 
■1月1日「歳旦祭」です。■
「歳旦祭:さいたんさい」は、戦前の祝祭日の中の皇室祭祀令に基づく小祭日の一つで、現在は新暦1月1日(元日)に、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われる年始を祝う祭祀です。

元日の「神嘉殿:しんかでん」南庭において天皇が親行する「四方拝」に続き、同日、早朝午前5時30分から宮中三殿において掌典職(しょうてんしょく)が祝詞をあげ、午前5時40分ごろ黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう=重要な儀式の際に着用する束帯装束の袍のこと)姿の天皇が拝礼し、黄丹袍(おうにのほう)姿の皇太子が続いて拝礼します。神宮をはじめ、全国の神社においては、皇統の繁栄と五穀豊穣と国民の加護を祈念する中祭として行われます。
 


■12月23日「天皇誕生日」「旧天長節」です。■
「天皇誕生日」は、国民の祝日のひとつで、今上天皇(きんじょうてんのう=その時点において天皇として在位している天皇のこと)の誕生日を祝う日です。平成30
年12月23日で85歳の誕生日を迎えられました。

181216_10.jpg大東亜戦争終結までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれました。現在は、皇居において一般参賀が行われています。一般参賀とは天皇が皇族と御一緒に国民から祝賀をお受けになる行事です。
現在の元号は「平成」、今上天皇は、昭和天皇の第一皇子「明仁」第125代天皇です。

◆天長節奉祝祭◆
平成最後の天長節です。
天長節奉祝祭Web参照:
http://www.housyuku30.com/

◆一般参賀◆
午前中3回の予定されています。
宮内庁Web参照:http://www.kunaicho.go.jp/event/sanga/sanga02.html
181216_11.jpg◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
今上天皇陛下の「生前退位」によって来年5月には元号が変わります。平成最後の今上天皇陛下の「天皇誕生日」です。
大統領制の隣国では、元大統領の有罪判決が出るなど騒がしく、またアメリカでの大統領に対するバッシング報道や、対外強硬路線を見聞きします。
対照的に君主をいただく日本では、大きな争いもなく平成の時代が終わろうとしています。日本古来からの真実の伝統的な文化歴史を絶やさないようにしたいものです。

筆者敬白

■11月23日「勤労感謝の日」です■
141104_20.jpg勤労感謝の日は、「国民の祝日に関する法律」簡便称呼で「祝日法」(昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としています。昭和23年(1948)に公布・施行された祝日法によって制定されました。

 大東亜戦争前、農業国だった日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習がありました。また、その年の収穫物は国家としても1年を養う大切な蓄えとなることから、農産物・海産物など収穫物に感謝する大事な行事として、飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった「新嘗祭:にいなめさい、しんじょうさい」の日があります。

大東亜戦争後のGHQの占領政策によって皇室の祭祀、国事神道行事から切り離される形で「勤労感謝の日」に改められました。 このような歴史的経緯で「新嘗祭」だった祝日が新たに「勤労感謝の日」として制定されたのです。

 祝日法の趣旨の中の「勤労をたつとび」とは、「収穫をもたらした1年の勤労を尊ぶ」の意なのでしょう。この日を中心に各地で「農業祭」が行われます。農林水産物展示会・資材展・技術研究発表会などが催され、優秀参加出品には天皇杯や農林水産大臣賞が授与されます。

■11月「2回目の卯の日」が旧新嘗祭です。■

181113_12.jpg大東亜戦争前の「新嘗祭」は明治4年(1872)迄、旧暦11月の2回目の「卯の日」に行なわれていました。
天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、自らも新穀を食して、その年の収穫に感謝するという皇室の祭祀でした。
現在でも農業関係者による祭典という色彩が濃いのもこの頃の神事からの影響です。

 新嘗祭は、飛鳥時代、皇極天皇の御代に始められたと伝わります。一時中断されていましたが、元禄時代、東山天皇の御代に復活しました。
新嘗祭自体は、伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて「大御饌:おおみけ=神が召し上がる食事」を供える形式となりました。

141104_23.jpg▼11月23日という日付の由来

戦前の新嘗祭の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改たものです。
新嘗祭は旧暦11月の「2回目の卯の日」に行われていました。
明治3年(1873)に太陽暦が導入され、旧暦のままでは新嘗祭が翌年1月になってしまうので、新暦になっても11月の「2回目の卯の日」に行うこととしました。
 この時の日時が「11月23日」だったことから、以降この日付に固定されたました。

◆◆◆◆ 編集後記 ◆◆◆◆

勤労感謝の日も新嘗祭も収穫のよろこびを現した日です。汗水流して働き、得るものに感謝の気持ちを忘れなければ、必ず大きな喜びがくるものです。
181113_13.jpg11月に入り気温が今年最低だったと報道が目に付きます。通勤にコート姿の方を良く見かけるようになりました。寒さが日に日に厳しくなります。
お風邪などお召しにならないようにお体ご自愛専一の程
筆者敬白
■11月3日「文化の日」、旧明治節です。■ 131026_24.jpg
文化の日は戦前には、明治節(めいじせつ)と呼ばれていました。昭和前期の日本における祝祭日(休日)で、明治天皇の誕生日。四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つです。文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とを趣旨としています。

文化の日は昭和21年に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が公布・施行されたことにちなみ、祝日法で「文化の日」と定められました。日本国憲法は、公布から半年後の昭和22年5月3日に施行されので、
5月3日が憲法記念日として国民の祝日になったのです。 

 明治時代には文化の日は天長節(明治天皇の誕生日)で、明治6年の改暦で新暦に換算した11月3日に定められました。大正時代末期に
明治天皇の誕生日である先帝祭「明治節」の請願運動が起こり、2万人の署名が帝国議会に上げられ、昭和2年「休日ニ関スル件」が改正されて、11月3日が明治節に設定されました。 

敗戦後昭和23年の祝日法によると「文化の日」は、このような背景や経緯と関係なく定められたということになっていますが、当時の国会答弁や、憲法制定スケジュールの変遷から、明治節の日に憲法公布を合わせて記念日にしたとも推察できます。 

131026_25.jpg一方、昭和23年祝日法制定当時、参議院文化委員長の
山本勇造が、政界引退後に著した回顧録「文化の日ができるまで」には、憲法発布は11月1日の予定で、憲法施行日が「メーデー」と重なるという理由で、直前に11月3日に変更されたようです。帝国議会が11月3日を憲法記念日とすることを主張しましたが、当時のGHQが強力に反対し、新憲法施行日の5月3日を憲法記念日とすることに同意したところ、GHQから、「憲法記念日でない記念日とするならいい」と持ち出してきたとあります。

戦後になり議会関係者が明治節の11月3日を残すために腐心したことが窺えます。
この日、皇居で文化勲章の親授式が行なわれます。文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催されます。また、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名です。

■10月20日「皇后誕生日」です。■
121015_22.jpg日本の今上天皇の皇后・美智子陛下(旧名・正田美智子)は、昭和9年(1934)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(富美子と改名)夫妻の長女として、東京府・東京帝国大学医学部附属病院に於いてご誕生されました。お印は白樺。聖心女子大学文学部外国語外国文学科ご卒業。日本赤十字社名誉総裁。国際児童図書評議会名誉総裁。
 
昭和32年(1957)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文
学)を首席で卒業。同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたトーナメント大会にて、当時皇太子だった明仁親王と出会います。「テニスコートの出会い」として知られます。その後もテニスを通して交際を深めたと伝わります。

 
明仁親王は美智子さんの写真を「女ともだち」と題して、宮内庁職員の文化祭に出品しました。皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代に、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようです。資産家の令嬢とはいえ、旧華族出身でない事から、香淳皇后、高松宮妃喜久子、秩父宮妃勢津子、常磐会会長松平信子らをはじめ、猛烈な反発を受けています。
 
昭和33年(1958)ベルギーに於いて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。
 
111016_3.jpg同年11月27日、結婚が皇室会議に於いて満場一致で可決されました。記者会見にて記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派な方で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなりました。また第一印象について「ご清潔な方」とも。清楚で知的な美智子の姿は、絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られ、「美智子さまぬりえ」が発売されるなど、当時はミッチー・ブームが起こりました。
 
昭和34年(1959)4月10日、皇太子明仁親王と結婚。明治以降初めての民間(士族以下)出身の皇太子妃となりました。1989年1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后に。
 
国民に開かれた皇室の想起者といわれていますが、数々の発言や行動に見られるように、伝統を守ることを大切にしています。また、訪問相手や周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は、多くの人々に感銘を与えています。
 
181010_15.jpg平成30年(2018)10月20日の今日84歳の誕生日を迎えます。

戦前は皇后誕生日を「地久節」と呼び、皇后陛下の誕生日を祝う日でした。一部の女子校などでは、休日にして祝われていたようです。昭和23年(1948)に、地久節は皇后誕生日に改称されました。

宮内庁◇東京都千代田区千代田1-1

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
戦前は「地久節」と呼びました。祝日の呼び方ひとつで歴史や社会背景を感じます。
10月も下旬で木枯らしの吹く11月はすぐそばです。秋も深まってきました体調管理の難しい時期です。お風邪などお召しにならないよう、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月8日(月)「体育の日」です。■ 141104_24.jpg
昭和39年(1964)に10月10日に開催された「東京オリンピック開会式」での輝かしい成果と感動を記念し、昭和41年(1966)国民の祝日に関する法律によって「国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日」を趣旨とし、国民の祝日に制定されました。 

昭和39年東京オリンピックの開会日が夏季オリンピック開催日としては異例に遅い10月10日となりました。それは、秋雨前線が去った後の東京地方の「晴れの特異日」だった事による、と言われていますが、昭和34年当時10月10日は特異日ではありません。

171005_10.jpg
昭和34年発効の「気象学ハンドブック」によれば、10月の晴れの特異日は14日とされています。 「特異日」とはその前後の日に比して特定の天気が集中する日のことで日本の観測史上、晴れる確率が最も高い日が「10月10日」で、この特異はいまでも継続中です。 

昭和36年(1961)に制定された「スポーツ振興法」では10月第1土曜日を「スポーツの日」としていましたが、この日は祝日ではありませんでした。その後、昭和39年に日本で初めて五輪大会「東京オリンピック」の開会式が開催されたため、それを記念して昭和41年(1966)から東京オリンピックの開会式のあった10月10日を「体育の日」として祝日に定めました。

平成12年(2000)からは「ハッピーマンデー法」の制定により、10月第2月曜日が「体育の日」となりました。 体育の日はスポーツ施設の使用料を割り引きや無料にしたり、様々な催し物を開催する所もあります。
モータースポーツの最高峰フォーミュラ1の日本グランプリもこの時期に行われることが多いです。
島根県出雲市では三大大学駅伝の開幕戦・出雲全日本大学選抜駅伝が行われます。

141104_26.jpg国民の祝日に関する法律
 
昭和23年法律 178号。国民が祝い、感謝し、記念すべき日を休日として定めた法律です。
元日 (1月1日)、成人の日(1月第2月曜日)、建国記念の日(2月11日<政令で定める日>)、春分の日 (春分日)、昭和の日(4月 29日)、憲法記念日 (5月3日)、みどりの日(5月4日)、こどもの日(5月5日) 、海の日(7月第3月曜日)、山の日(8月11日)、敬老の日(9月第3月曜日)、秋分の日 (秋分日)、体育の日(10月第2月曜日) 、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月 23日)、天皇誕生日(12月 23日) がそれです。 

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

体育の日の前後に運動会を開催する学校・団体は多いようです。
日頃スポーツに親しむことの少ない現代人は、運動会ではりきりすぎて病院にお世話になる事が絶えないと言います。
特に、運動会では「元陸上部」だったというパパが登場し、学生時代の自分の体と、現実の自分の体とのギャップがあることを忘れて走り、次の日に筋肉痛に襲われるなど、どちらにしても大変です。
やはり運動会を楽しむためには、体育の日のみならず日頃からスポーツに親しむという努力が大切です。
季節の変わり目です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白
■9月23日「秋分の日」、旧秋季皇霊祭です。■ 
130909_21.jpg秋分の日」は、国民の祝日の一つ。祝日法では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としています。暦の上の「秋分」と国民の祝日「秋分の日」を区別しています。 

秋分の日は、秋のお彼岸の最中で「彼岸の中日」にあたります。「昼と夜の長さが等しい」といわれますが、実際には昼の方が長いです。 

戦前は「秋季皇霊祭:しゅうきこうれいさい」といいました。毎年、秋分の日に宮中の皇霊殿で行われる皇室の大祭のことで、歴代の天皇・皇后・皇族など、皇祖の神霊を祀る儀式が行われました。 

戦後には、「秋分の日」と改名して、庶民が先祖を祀る日となりました。 

120914_23.jpg秋季皇霊祭◇皇室による先祖を祀る祭儀は、「古事記」「日本書紀」などに皇祖の御霊を祀ったとあります。平安時代中期以降、京都御所の清涼殿・御黒戸の間において仏式で執り行われていました。しかし、明治の神仏分離令により、神式による祭儀に変更されました。 

この日、皇霊殿前庭では宮内庁職員により「東遊:あずまあそび、東舞」の儀が執り行われます。 

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆ 
大東亜戦争前までは秋分は、秋季皇霊祭として大自然のバランスを尊んでいました。私達は当たり前に明日が来る。9月の次は10月。といった至極当然なことを祭りとして感謝を表わしていたのです。近年のゲリラ豪雨や竜巻など気象変動は、自然が何かを訴えているのかもしれません。
人の心と社会のバランスが崩れている現在、今一度大自然のバランスを認識し、陰陽を司りながらバランスの取れた社会にしたいものです。 
季節の変わり目です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■9月17日「敬老の日」です。■
110915_12.jpg敬老の日」は国民の祝日の一つで「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として制定されました。
 
現在の兵庫県多可町八千代区
(多可郡野間谷村)安清市が昭和22年(1947)に提唱した「としよりの日」が始まりであるとされる説が有力です。
野間谷村では、「
老人を大切にし、年寄りの知恵借りて村作りをしよう」と、9月15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていました。

他には「
聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日」といった説や「欽明天皇が養老乃瀧に御幸した日」が発祥したとする説もあります。

もともと
敬老の日は9月15日でしたが、祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、9月の第3月曜日になりました。今では9月15日が老人の日、15~21日老人週間です。

この日、おじいさんやおばあさんの長寿を願い、ありがとうの感謝の気持ちを届けます。各地で敬老にちなんだ行事が催されます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
9月15日だった敬老の日がハッピーマンデー制度によって9月第3月曜日になる際、高齢者団体から反対意見が続出したため、それまで「敬老の日」だった9月15日を「老人の日」としました。
祝日の成り立ちや意味、法律で定められた趣旨など知ることも余裕の一つかもしれません。

まだまだ厳しい残暑が続いています。夏バテなど出やすい時期です。
みな様お体ご専一自愛専一の程
筆者敬白

■8月11日、「山の日」です。■
180805_14.jpg平成22年(2010)山岳関係の団体が「山の日」制定協議会を結成して、「山の日」を制定し祝日にすることを目標に機運を盛り上げていました。
その結果、平成25年(2013)4月、山岳関係者や自然保護団体などからの意見を受け、「山の日制定議員連盟」の発議で、平成平成26年(2014)に制定された、日本の国民の祝日の一つです。
国民の祝日に関する法律では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としていますが、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではありません。
実はこの山の日、主に『日本山岳会』の頑張りと啓蒙活動でできた祝日だということがわかります。

当初は盆休みと連続させやすいことから8月12日を祝日との方向でした。
8月12日は日本航空123便墜落事故の日だったため、「日航機墜落事故が起きた日をお祝いするのは違和感を覚える」との懸念をから、最終的に8月11日を山の日とすることを決定した経緯があります。 平成28年(2016)に施行され第1回「山の日」にあわせたイベントも各地で行われました。
10日には全国で山の日の「記念切手」が発売され、11日には長野県松本市の上高地でトークショーなど、山の日を記念した全国大会も開かれます。
また、8月中には、東京の高尾山や群馬県の谷川岳など各地で登山教室が行われるほか、親子で参加できるキャンプ教室などさまざまなイベントが開催される予定です。
180805_15.jpg◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇ 
写真:左から八ヶ岳、富士山、蔵王
平成32(2020)年の東京オリンピック開催に合わせて祝日が変更になりそうです。次の東京オリンピックでは暦も大幅に変わります。
近年中高年の登山ブームに、「山ガール」と呼ばれる若い女性の登山者も増えています。
ブームの中、山の遭難事故は増加し、毎年3000人の遭難者が出ています。
全国「山の日」協議会では、「自分の体力にあった無理のない登山計画を立て事故のないようにしてほしいと話しています。
山の日が登山に親しむきっかけになり、遭難を少しでも減らすきっかけになって欲しいものです。
筆者敬白
■7月16日「海の日」です。■
77_5.jpg海の日」は以前「海の記念日」と呼ばれていました。海の記念日は、明治3年(1876)明治天皇の東北地方巡幸の際、灯台巡視用の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ、昭和16年(1941)に逓信大臣の提唱により制定されました。

その後、平成7年(1995)7月20日が「海の日」となり、平成15年(2003)年のハッピーマンデー制度により、7月の第3月曜になりました。 国民の祝日に関する法律では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としています。世界の国々の中で「海の日」を祝日としている国はなんと唯一日本だけなのです。

海の日が制定されてから7月20日~7月31日までの12日間を「海の旬間(じゅんかん)」としていましたが、平成15年(2003)以降は、海の日の三連休化に伴い、月間化して「海」に対する理解と認識を高めてもらうために、7月1日から31日までを「海の月間」と定めたました。国土交通省海事局、地方公共団体、海事関係団体らが、「海フェスタ」を始め、全国各地で行われる海に関する各種様々なイベントの紹介、活動をしています。

130709_28.jpg明治丸はその後、東京商船学校(現東京海洋大学)の練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

海の日が祭日に指定されハッピーマンデー制度で、第3月曜になりました。土曜日を含めて3連休の方も多いことでしょう。「小暑を過ぎた」これからの時期、本格的な猛暑の季節になります。
体調管理を怠りなくお体ご自愛専一の程
筆者敬白

八木宏之プロフィール
セントラル総合研究所・八木宏之
株式会社セントラル総合研究所
代表取締役社長

連帯保証人制度見直し協議会発起人。NPO法人自殺対策支援センターLIFE LINK賛同者。
平成8年、経営者への財務アドバイスなどの経験を活かし、事業再生専門コンサルティング会社を設立。以来14年間、中小企業の「事業再生と敗者復活」を掲げ、9000件近い相談に応えてきました。
事業再生に関わる著書も多く出版。平成22年5月『たかが赤字でくよくよするな!』(大和書房)など多く出版。平成14年、『借りたカネは返すな!』(アスコム)はシリーズ55万部を記録しました。
著書の紹介はこちらから。

2019年5月

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