二十四節気は1年を24の節に分け、節気ごとに命名して気候の変化、推移を知り、社会や生活の中で季節感を役立てるものです。

8月のお便り

■8月18日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■
110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

■8月31日「二百十日」です。■
110829_11.jpg二百十日:にひゃくとおか」は、の一つで、立春から数えて210日目のこと。新暦で8月末から9月初旬にあたります。
 
この時期は稲の開花の時期にあたり、台風の襲来を警戒すべき日として、暦に記載されました。昔から「八朔:はっさく」や「二百二十日:にひゃくはつか」とともに「三大厄日」として恐れられてきました。
 
厄日とは、俗にいう「荒れ日」のことで、天候の悪い日の意です。台風が襲来すれば、稲は倒れて水に浸かったり、花が吹き飛ばされてしまい米が実らなくなります。農家にとっては凶作に見舞われる厄日とされます。
 
120811_31.jpg二百十日は徳川幕府の暦編纂係であった渋川春海が、品川の漁師から教わって作ったものだとか。渋川春海は釣り好きで、二百十日の日にも品川の沖に舟を出そうとしました。
 
その時、老漁師が海上の一点を指して「今日は立春から数えて210日目に当たるが、私の50年来の経験によれば、このような日は午後から海は大荒れになるから、釣りに出るのはよした方がいい」と言ったという。果たしてその日は大暴風雨になったそうです。
 
春海はこの気象現象を長らく研究し、貞享暦(1684)を編纂したときから記載したと伝わります。
 
120811_32.jpgこの日、奈良の大和神社(おおやまとじんじゃ)で行なわれる「風鎮祭」、富山県八尾市で行なわれる「おわら風の盆」など、各地で「風鎮めの祭り」が行われます。


◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
つい10日ほど前までは、厳しい残暑でした。9月になると、風の被害を警告する暦が続きます。この頃、例年は台風が多く発生しています。残暑が続いて実感できませんが、一雨ごとに秋の気配が近づいてきます。そろそろ長袖の秋服を用意する時期です。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月30日~「十方暮れ入り」です。
110324_12.jpg十方暮れ:じっぽうぐれ・じゅっぽうぐれ」とは、干支を五行に配当したときに「上下互いに尅(こく)する」干支「甲申~癸巳」までの10日間のことをいいます。
但し、丙戌と己丑の日は間日(まび)になります。 

今回の十方暮れは8月30日~9月8日までです。

8月30日 甲申=金尅木 
8月31日 乙酉=金尅木
9月01日 丙戌=火生土(間日)
9月02日 丁亥=水尅火 
9月03日 戊子=土尅水 
9月04日 己丑=土和土(間日)
9月05日 庚寅=金尅木 
9月06日 辛卯=金尅木 
9月07日 壬辰=土尅水 
9月08日 癸巳=水尅火


120712_64.jpg十方暮れの「十方」とは、「天地八方」を指します。四正(しせい)方位「東西南北」と、四隅(しぐう)方位「南東・南西・北西・北東」の八方位に「天地」を合わせた十方位のことです。または「十方世界」ともいい私たちが右往左往する現実の世界、すべての方角に無限に存在する世界の全部のことを示します。
 
この十方が「四方八方閉ざされた状態」を「十方暮れ」といい、旧暦の解説書には「途方に暮れるの語呂合わせ」と書かれています。または「十方暗」「十方闇」ともいいます。
 
それにしても、やはり「とほうくれ」と読みたくなるほど、うまくいかなく「途方に暮れる」期間なのでしょう。十方が暗い(暮)ので、天気が良くない日が続きます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「十方ぐれ」は発祥は定かではありませんが、五行説では干支の組み合わせから「相性の合わない日」とされています。この時期、雨が降っても大したことなく、降りそうで降らない曇りがちの(すっきりしない)天気
が続きます。転じて暗雲(問題)が立ち込めているが雨(解決)が降らないという中途半端な状態です。
これは、十方(方位八方向に上と下を合わせて十方)の気が塞がっていて、何の相談ごとも解決出来ない期間とされています。

せっかちさから、業を煮やして事を起こしても逆効果です。解決どころか反対に、こじらせて損失を招く恐れがあります。このような時期には、慌てずに「過ぎるを待つ」のが最大の解決方法です。
筆者敬白

■8月27日「愛知、一色大提灯」です。■
130813_25.jpg一色大提灯まつり:いっしきおおちょうちんまつり」は、一色町にある「諏訪神社」の例祭で、例年8月26、27日に行なわれます。
 
諏訪神社の主祭神は「建御名方命:たけみなかたのみこと」で、開拓の神、耕作・雨乞い・狩猟の神といわれています。

第106代・正親天皇の世、永録年間当時、鎮守の神を持たなかった一色の地に守り神を招こうと村人達が考えていたところ、日本六十六ヵ所の霊場に「法華経」を納め歩いていた行者がやってきて、信濃の「諏訪大明神」の御分霊を請け、祠を建てて祀ったのが始まりと伝わります。

110823_17.jpg発祥は100年ほど神事として篝火(かがりび)を焚くことが続き、寛文年間(1661~1672)に提灯を献灯する祭りに発展したようです。江戸中期には、経済的な余裕も生まれ、提灯の上部に覆いが付けられたりと華美なものになっていき、次々に大きさを競うようになり現在の姿へと変わっていきました 。 


大きくなる過程で、柱が2本から3本になり、提灯の骨の材質が竹から桧に変わりました。しかし、現在も諏訪組の提灯だけは伝統を守り竹の骨でできています。

120813_26.jpg大提灯は長い間に張替えなど、幾度となく手を入れられて現在に伝わっています。近年では平成6年から平成13年にかけて約130年ぶりに全ての提灯を修復し、平成13年の例祭から鮮やかな提灯の献灯がみられます。

古式豊かな絵模様が浮かぶ、最長約10m、直径約5mの大提灯12張が境内を照らします。県の有形民俗資料文化財指定。また、26日早朝の勇壮な献燈準備も見ものです。

諏訪神社
◇愛知県幡豆郡一色町大字一色字宮添129
◇名鉄西尾線「西尾駅」名鉄東部交通バス 「三河一色行き」20分、終点下車徒歩10分
◇公式HP
http://www.katch.ne.jp/~suwa-jinja/

■8月27日「神奈川、大山阿夫利神社 秋季大祭」です。■
120813_27.jpg大山阿夫利神社:おおやまあふりじんじゃ」の創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代と伝わります。

大山」は、別名「雨降山:あふりやま」とも。式内社で、旧社格は県社(現、神社本庁の別表神社)。「阿武利」とも表記し「あぶり」とも読みます。

天平勝宝4年(752)「良辯(りょうべん)大僧正」が入山し、神宮寺として「雨降山大山寺」が建立され、本尊に「不動明王」が祀られました。中世以降は、大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んとなり、源頼朝を始め北条氏、徳川氏などの武家の崇敬篤く、江戸時代には、参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣しました。

110823_16.jpg明治の神仏分離の際には、大山寺の勢力が強かった為、激しい廃仏毀釈が行なわれました。石尊大権現・大山寺の称を廃し、旧来の「阿夫利神社」に改称。明治6年に県社に列格。

大山の山嶺に三社を構える大山阿夫利神社は、本社に「大山祗大神:おおやまつみのかみ」を祀り、摂社奥社に「大雷神:おおいかつちのかみ」を、前社に「高オカミノ神:たかおかみのかみ」を祀ります。

120813_25.jpg大山は、古来よりたびたび神意が現れ「天狗の来住する神山」であるともいわれています。摂社の両社は、「大天狗」「小天狗」といわれていました。底津磐根(そこいわね=地の底)に鎮座し、高天原(たまがはら=天上の神々の国)に千木高知り座して「天下の神蹟」と言われているのが「大山石尊大権現:おおやませきそんだいごんげん」と称せられた、本社の御霊体(祭神)です。

御神徳は、生活の資源は勿論のこと、海運・漁獲・農産・商工業などに霊験あらたか。またの名を「酒解神:さけわけのかみ」といい、酒造の祖神としても崇敬されます。また、大山は古来より雨乞いの聖地とされ、深く信仰されてきました。

大山阿夫利神社
◇神奈川県伊勢原市大山355
◇小田急線「伊勢原駅」大山ケーブル駅行バス30分
◇東名「厚木IC」「中井IC」約30分
◇小田急厚木道路「伊勢原IC」約20分
◇公式Web
http://www.afuri.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年8月の第1土曜日を中心に行なわれる「秋季例大祭」では、大山中腹阿夫利神社の大神輿が大山の急坂を人々に担がれて登り、降りするのが見ものです。
一度お出かけ下さい。
筆者敬白

■8月26日「富士、吉田の火祭、すすき祭り」です。■
130813_24.jpg吉田の火祭り」は、富士山の山仕舞いを告げる祭りです。「北口本宮富士浅間神社」と、境内の「諏訪神社」に於いて毎年8月26、27日に行われる火伏せ祭り「火大祭」のことで、富士山の噴火が止んだことを祝ったのが始まりです。

火を焚いて火を鎮める祭りは、浅間神社の御祭神「木花開耶姫:このはなさくやひめ」が猛火の中で御安産なされたという故事に由来します。

静岡県島田の「帯祭り」、愛知県国府宮の「裸祭り」と並んで「日本三奇祭」の一つに数えられています。

26日午後、浅間大神と諏訪明神の大神輿二基と御影(富士山の形をした神輿)は、参拝者で賑わう氏子中に神幸し御旅所に移されます。御旅所には三基の松明が用意され、近所の家々にも一つずつ松明が設けられます。

120813_22.jpg夜になって御旅所の松明に火が入ると、これを合図に、沿道約2kmに渡って高さ3mの筍形に結い上げられた大松明約70本、その他各家ごとに井桁に積まれた松明に一斉に点火され、富士吉田一帯は一面炎の海と化すのです。(これまで火災になったことは無いそうなのでご安心を)

27日夕刻、神輿は浅間神社に還御します。この時氏子崇敬者がすすきの玉串を持って神輿の後に続き高天原と呼ばれるところを7廻りします。これを「すすき祭り」ともいいます。

110823_15.jpg北口本宮富士浅間神社」は、景行天皇40年(110)日本武尊が東方遠征の折りに、大塚丘より富士山を拝し「富士には北側より登拝するのが良い」として祠と鳥居を建てたのが始まりと伝わります。垂仁天皇の時、富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるため、火山鎮護の神「木花開耶姫」を奉ったのが始まり。

本殿には、他に「彦火之瓊瓊杵命」「大山祗命」も祀られ、西宮本殿には「天照大神」が祀られています。東宮本殿は、北条義時が創建した永禄4年(1561)、武田信玄が川中島の勝利を祈願して再建されたと伝えられるものです。「彦火火出見命:ひこほほでみのみこと」は、富士権現と呼ばれます。

本殿、西宮本殿、東宮本殿ともに国の重要文化財に指定。拝殿の前には「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ見事な御神木があります。

平成24年文化庁より重要無形民俗文化財に指定されました。

北口本宮富士浅間神社
◇山梨県富士吉田市上吉田5558
◇富士急行「富士吉田駅」徒歩20分
◇富士急バス「山中湖方面行き」5分
◇中央道「河口湖IC」国道138号5分
◇参考Web
http://www.sengenjinja.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
私たちが生活している日本は、地震と火山から切り離せません。吉田の火祭りは火臥せ祭りで、富士山噴火が止んだことにちなんだ祭礼です。首都圏の直下型地震対策、東南海地震、富士山噴火説など、東日本大震災以後、天災の予知については話題が絶えません。
記録によると、『天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占(ぼくせん:占うこと)し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。』とあります。
天応元年に、富士山噴火があったことがわかります。これから再噴火があるのかもしれません。天災は予知できません。常に備えておきましょう。

筆者敬白

■8月24日~8月30日「小犯土(こづち)」です。
120502_60.jpg明日から小犯土です。小犯土は大犯土の7日間に8日目の間日を経たあと9~15日目の7日間を指します。この期間を犯土として前半を大犯土、後半を小犯土としました。

◇期間中慎む作業◇
「犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。
特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

110311_15.jpg◇木々の低調な時期◇
野山の木々にも活発な時期と低調な時期があります。大犯土・小犯土期間中は、木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。 除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。科学的な根拠の有無は別にして、経験的に林業の方や大工の方は犯土を尊重するそうです。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
暦には科学的な根拠の薄い経験的なものも数多く残っています。根拠が薄くても暦に従って、トラブルや不慮の事故を防ぎましょう。大自然の法則には、まだまだ解明されていない自然現象も数多くあるのです。
読者の皆様、もうすぐ9月、「白露」の頃です。残暑からを崩す方の多い時期です。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月25日「東京、亀戸天神祭・献灯明」です。■
110822_12.jpg亀戸天神社:かめいどてんじんしゃ」は、菅原道真公を祀る「下町の天神さま」として知られ、多くの人々に親しまれています。

正保3年(1646)菅原道真の末裔・菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるために諸国を巡り、寛文元年(1661)江戸の本所・亀戸村に辿り着きました。村に元々あった天神の小さな祠に、道真公ゆかりの飛び梅の枝で彫った天神像を祀ったのが始まりです。

120811_24.jpg古くは、本社=大宰府天満宮に対して、東の宰府=「東宰府天満宮」と称しました。「亀戸宰府天満宮」とも。明治6年(1873)東京府社となって「亀戸神社」と号し、昭和11年(1936)現在の「亀戸天神社」となりました。

「天神祭」では、氏子や町内はもとより、国家安泰と繁栄を祈願し、囃子・神輿・曳太鼓が町内を練り歩きます。
毎年の例祭のほか、4年に一度の大祭には菅原道真公の御霊(おみたま)を乗せた御鳳輦(ごほうれん)が氏子社中を巡行します。

120811_25.jpg「献灯明:けんとうみょう」
夜の境内には、神前から分けられた千個以上の灯明が灯り、静寂の闇につつまれます。境内の「心字池」に映る灯明は、昼とは違う幻想的な趣をみせます。灯明は、道真公をお守りしていることを表しています。

亀戸天神社
◇東京都江東区亀戸3-6-1
◇総武線「亀戸駅」徒歩15分
◇総武線・地下鉄半蔵門線「錦糸町駅」徒歩15分
◇公式Web:
http://www.kameidotenjin.or.jp/

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
亀戸天神といえば、うそ替え神事、梅まつり、藤まつり、献灯明など江戸の下町らしい祭礼のほか、伝統に則り、黒毛和牛が曳く鳳輦渡御例祭など、神事には事欠きません。
季節ごとの花祭りの中でも、藤祭りは見事な藤棚にたわわに咲く藤が見事です。
献灯明は、付近の小学生らの書道を行燈に貼り付けてあります。日が沈んでからの暑気払いにお出かけください。
筆者敬白

■8月24日旧「地蔵ぼん」です。
120709_44.jpg地蔵盆」は、地蔵菩薩の縁日(24日)のことで、もともと「地蔵会:じぞうえ」「地蔵祭:じぞうさい」と呼ばれていましたが、24日は裏盆にあたることから、盂蘭盆に因んで地蔵盆と呼ばれるようになりました。旧暦で盂蘭盆行事をする地方では旧暦24日が地蔵盆になります。

地蔵盆は、寺の中に祀られている地蔵菩薩を対象とはしていません。道祖神信仰と結び付いた路傍や街角(辻)のお地蔵様が対象となっています。

地蔵菩薩は中近世以降、子供の守り神として信仰されるようになりました。地蔵のある町内ではこの日、地蔵の像を洗い清め、新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付け、地蔵の前に集って灯籠を立てたり、お供え物をして祀ります。

120709_45.jpg子供たちは供養の菓子や手料理などを振舞われます。お地蔵さん巡りをして、お接待を受けることも。僧による読経が行われるところもあります。数珠繰り(じゅずくり)は、直径2~3mの大きな数珠を囲んで座り、僧侶の読経にあわせて順に回す儀式です。

◇ ◇ ◇ 編集後記 ◇ ◇ ◇
関東地方のほか、北陸や東北では、旧暦8月13~16日にお盆を行事を行っています。地蔵盆も旧暦で8月24日です。新興住宅地と旧家の重なっている地域では、7月盆と旧盆の8月盆が連続していて、僧侶の忙しい時期です。
お盆の時期に往生される方も多く、葬儀が連続することがあるそうです。「坊主丸儲け」などと悪口をたたいていたら、僧侶からこの時期「此岸」からのお迎えが多く、不安定な方は、そのまま引かれてしまうそうです。この時期しっかりとした気持ちで過ごしましょう。

暑い時期ですから体調を崩さないように気をつけてお過ごしください。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月24日「秩父 四萬部寺 大施食会」です。■
110822_10.jpg秩父三十四観音札所1番「誦経山四萬部寺:ずきょうさん、しまぶでら」は、聖観世音菩薩を祀る曹洞宗のお寺です。四萬部寺の名前の由来は、法華経四万部の仏典を書写して経塚を築いたことからと伝わります。

元禄10年(1697)に建立された朱塗りの千鳥破風付観音堂は、秩父札所霊場唯一の県の重要文化財指定です。

施食会:せじきえ」とは、仏教行事のひとつで、「施餓鬼会:さがきえ」、「おせがき」ともいわれ、「救抜焔口餓鬼陀羅尼経:くばつえんくがきだらにきょう」というお経に由来した行事です。毎年8月24日に行われる「大施食会:だいせじきえ」は、「関東三大施餓鬼会」の一つとして知られます。
 
120811_22.jpg釈尊の十大弟子の一人「阿難尊者:あなんそんじゃ」が瞑想していると、口から火を吐く一人の恐ろしい餓鬼が現れて「お前は3日後に死に、餓鬼道に落ちる」と言いました。それを免れることができるかを問うと「三宝(仏・法・僧)に供養せよ。また無数の餓鬼に食物を施して供養せば、餓鬼が救われ、功徳によってお前も救われるであろう」と答えたといいます。阿難尊者は釈尊に教えを請い、延命したといいます。
 
餓鬼:がき」とは、生前の罪の報いで餓鬼道に堕ちた亡者のこと。仏教で説かれる六道のひとつで、不浄で、常に飢えと渇きに苦しみ、食物を手に取ると炎と化してしまう。痩せ細って腹ばかり膨れ上がり、咽喉は針のように細く、それは悲惨極まる姿です。
 
130813_23.jpg施餓鬼棚に「三界万霊牌」や初盆の戒名を記した位牌を置き、浄水や食物を供え、五如来の「施餓鬼幡」を立てて法要を営みます。餓鬼だけでなく、先祖代々の霊や無縁の諸精霊をも供養します。また、自身の餓鬼の心を反省し、生かされていることを受け止め、福徳延寿を祈願します。
 
四萬部寺
◇秩父市栃谷418
◇西武鉄道「西武秩父駅」バス25分
◇関越道「花園IC」国道140号30分
◇参考ブログ:
http://azusamaya.web.fc2.com/titibu/01.html

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
秩父の大施食です。背景には六道輪廻の考え方が浸透していると言えます。施すことで、持ちすぎを戒め、不足に対して不自由を口にしない生活は理想だったのでしょう。
まだまだ厳しい残暑ですが9月になれば少しは暑さも落ち着きます。寝ていても熱中症になるそうです。水分補給など対策を施しましょう。
皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

◆二十四節季◆平成28年8月23日「処暑(しょしょ)」です。◆
130813_21.jpg8月23日01時38分「処暑」です。旧暦7月、申(さる)の月の中気で、新暦8月23日頃。天文学的には、太陽が黄経150度の点を通過するときをいいます。

暑さがとどまる、止むの意から処暑といいます。涼風が吹きわたる初秋の頃で、暑さは峠を越えてようやく過ごしやすくなります。綿の花が開き、穀物が実り始め、収穫も目前といった時期です。

また、この頃は「二百十日」「二百二十日」と並び台風襲来の多い時期とされ、暴風雨に見舞われることが少なくありません。

日に日に北から秋の気配がしてきます。路端ではススキが目立ち初め、秋をところどころに感じるようになります。どうやら秋はすぐそこまで来ていて、残暑厳しい中でも秋の気は感じられます。台風でさえも秋の気は感じられるものです。

130813_22.jpg秋は感じ方で長くもあり、またあっと過ぎてしまうような短さの中に「もの悲しさ」をも含んでいるのでしょう。

」の字は、人がよりかかる台(机)に足を乗せている様を表わす漢字で、「安心している」「落ち着く」さまを表わしています。処暑は暑さがひと段落して、暑さが落ち着くということからの語源です。

■「七十二候」■
初候「綿柎開:めんぷひらく」
 ◇綿を包む咢(がく)が開く。綿を包むガクが開き始める時節。
 ◇柎(うてな)=「はなしべ」は古訓で、花のガクをいいます。また、はなぶさ。
次候「天地始粛」(てんちはじめてしじむ・しゅくす)
 ◇ようやく暑さが鎮まる。ようやく暑さが鎮まる時節。
末候「禾乃登」(かすなわちみのる):稲が実る。
 ◇穀物が実る時節。

120810_46.jpg■■8月処暑の頃の花■■
綿(わた)(Cotton plant)

葵(あおい)科 学名  Gossypium : わた属  
Gossypium(ゴシピウム)は、ラテン語の「gossum(腫(は)れ物)」が語源
ボールのように膨らんだ実の形から。 
紀元前2500年頃から、古代インダス地方(インド)で繊維作物として栽培されていた。

開花後5週間くらいすると実が熟して、
はじけて綿毛に包まれた種子を外に吹き出す。綿毛は、布地やふとん綿の原料となる。 "綿100%" 綿は、世界の繊維材料の約7割を占める。   

その昔「腸」を"わた"と読み、衣類の中に綿毛を詰めることから、体の腸に見立てて「わた」呼ぶようになった。「綿」の字は漢名の「葉綿」から。         

・「棉」とも書く 英語では「コットン」。                   
・「しらぬひ  筑紫の綿は 身につけて  いまだは着ねど 暖かに見ゆ」 万葉集  沙弥満誓(さみまんぜい)

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
ブラジルで開催されrているリオオリンピックの最中です。今年はメダルラッシュで平成32年(2020)東京オリンピックでの良い兆候です。
8月後半になると、朝晩の涼しさを感じます。7月後半から8月は夏の花火大会のピークでした。花火大会に出かける浴衣姿も、処暑の頃になると想いのほか減ったように感じます。処暑が過ぎると、これからは台風到来の季節です。

残暑の疲れが出て、食欲不振や精力減退の方に、お勧めは規則正しい生活です。
皆さん、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月23日「一遍聖人忌」です。■
120823_60.jpg鎌倉時代中期の僧「一遍:いっぺん」は、時宗の開祖。幼名・松寿丸。俗名・河野時氏(通秀、通尚)。一遍は房号で、法諱は「智真:ちしん」。「一遍上人:いっぺんしょうにん」、「遊行上人:ゆぎょうしょうにん」、「捨聖:すてひじり」と尊称されます。私諡号は「円照大師」、昭和15年(1940)国家より「証誠大師」号を贈られました。
 
延応元年(1239)伊予国の豪族・別府通広の第二子として、愛媛県松山市道後温泉の辺りで生まれました。当時は、平治の乱、源平の合戦、承久の乱と戦が続き、また、天変地異や飢饉なども重なっていた時代でした。有力氏族であった本家の河野氏は、承久3年(1221)「承久の乱」で京方につき、祖父の河野通信は陸奥国に配流されるなどして没落。一遍が生まれた頃には、かつての勢いを失っていました。
 
10歳の時に母と死別、父の勧めで「天台宗継教寺」で出家。法名は随縁。13歳の時に大宰府に移り、法然の孫弟子・聖達に、10年にわたり浄土宗西山義を学びます。この時の法名は智真。
 
110816_4.jpg信濃の善光寺、伊予国の窪寺、岩屋、摂津国の四天王寺、紀伊国の高野山などを転々としながら修行に励み、「南無阿弥陀仏」と書いた「念仏札」を配っていました。この札を手にすれば、誰でも阿弥陀仏のはからいで極楽浄土に往生できるといいます。
 
ある時、ある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを断られます。大いに悩んだ末「熊野権現澄誠殿」に参籠し、熊野権現から「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」との夢想の口伝を感得。この頃から「一遍」と名乗り、念仏札に「決定(けちじょう)往生・六十万人」と追記するようになりました。これを後に「時宗」開宗の時としています。
 
一遍は弘安2年(1279)善光寺で最初の「踊り念仏」を始めました。踊り念仏とは「どんな人間でもありのままで救われるという喜び」を踊りに表現したもの。これが、盆踊りの起源です。
 
120810_43.jpg:ひじり」とは、日本において諸国を回遊した仏教僧のことをいいます。「日知り」の意。太陽の司祭者・呪術者を指した呼び方で、仏教伝来後は「聖」の字をあてて学徳の高い僧を呼ぶようになりました。
 
平安時代中期末法思想が広まると、それに伴い浄土教を普及する僧(念仏僧)たちが現れ、寺院に定住せず深山の草案に住んだり遍歴しながら修行する半僧半俗の存在でした。
 
聖は学僧で、寺院の経済を支える禅徒の立場にありました。寺院から離れた別所と呼ばれるところに集住し活動の拠点としました。高野山にある高野別所に住む念仏聖は、高野聖と呼ばれました。
 
平安後期の「源空」は、延暦寺黒谷別所の念仏聖で、その弟子の「親鸞」と併せて「聖人:しょうにん」と呼ばれました。鎌倉時代中期の「一遍」は、諸国を遊行しながら念仏を広め「捨聖:すてひじり」と呼ばれました。
 
国宝「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)は、一遍の生涯を伝えます。正応2年(1289)9月9日(新暦8月22日)没。於:摂津観音堂。51歳。
 
時宗総本山
◇藤沢山無量光院「清浄光寺」(しょうじょうこうじ)
◇通称「遊行寺」
◇神奈川県藤沢市西富1-8-1
◇JR「藤沢駅」徒歩15分
◇清浄光寺HP
http://www.jishu.or.jp/

■8月22日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
今日は「土用」の期間です。二十四節気では「処暑」、暑い日が続きますが暦の上では秋です。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程

筆者敬白

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■8月21日「三隣亡」(さんりんぼう)■

もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。

江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」とかいわれますので、迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。
また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■8月21日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■
110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

■8月20日「鎌倉市、鎌倉宮祭」です。■
120810_40.jpg鎌倉宮:かまくらぐう」は、大塔宮(おうとうぐう)護良親王(もりながしんのう:写真右)を祀る神社で、建武中興十五社の一社。旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には入らない単立神社で、別名「大塔宮:おおとうのみや」。
 
護良親王」は、延慶元年(1308)後醍醐天皇の皇子として誕生。6歳で京都の三千院に入り、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれました。また、大塔宮(おおとうのみや)とも。20歳にして天台座主となりました。
 
父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ、ともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現しましたが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉されてしまいます。
 
120810_41.jpg建武2年(1335)中先代の乱の混乱の中、尊氏の弟・直義の命で家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって暗殺されました。御年わずか28歳。
 
明治2年(1869)2月、明治天皇は建武中興に尽力し

た親王の功を賛え、神社の造営を命じ、護良親王を祀りました。6月に「鎌倉宮」の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営されました。
 
110816_3.jpg拝殿前には、鎌倉宮の伝統とも言える獅子頭守が参拝者を迎えます。護良親王が戦の時に兜の中に獅子頭の小さなお守りを忍ばせて自らの無事を祈った事が由縁です。
 
鎌倉宮
◇神奈川県鎌倉市二階堂154
◇JR横須賀線・江ノ島電鉄「鎌倉駅」バス「鎌倉宮(大塔宮)」行き終点すぐ
◇HP
http://www.kamakuraguu.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
何時の時代も、権力欲による争いはなくならないものです。どのような状況下でも正しく判断し、新年から心願を成就するいわゆる大願成就が苦境を超える心の支柱でしょう。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月18~19日「秋田、花輪ばやし」です。■
120810_35.jpg花輪ばやし」は、花輪地区の総鎮守「幸稲荷神社:さいわいいなりじんじゃ」の祭典にあたり奉納される祭礼囃子です。
 
鹿角市の代表的な民俗芸能で、秋田県無形民俗文化財に指定されています。また、「日本三大ばやし」の一つに数えられています。
 
「幸稲荷神社」は、元久元年(1204)に伊勢両宮の分霊巡視の際に御神霊を分け、祭祀創設されたと伝わります。祭神に、
豊受姫命・猿田彦命・天宇都女命を祀ります。
 
明治より「
花輪通り四十八社の総鎮守」として、祭礼はもとより元朝詣りや厄払いの儀式が盛大に行われ、「産土さん:うぶずなさん」と呼ばれ親しまれています。
 
祭典はお盆明け8月16日、本殿から神官、氏子総代に守られた御輿が、大太鼓を従えて町内を一巡し、「
御旅所」に安置されることから始まり、20日に本殿へ還幸されるまでの5日間に渡って行われます。五穀豊穣・地域発展・家業隆盛を祈願します。
 
140809_22.jpg祭典は夕方それぞれの町内を出発して次の日にまで、もしくは明け方まで町を行進する夜のお祭りです。花輪ばやしは19、20日の両日、幸稲荷神社・産土の神に奉納されます。現在は、
本ばやし、二本滝、宇現響、羯鼓、霧ばやし、矢車、吉原格子、拳ばやし、不二田、祇園、追込、シャギリの12曲が伝承されています。
 
特に代表曲の「
本ばやし」は行進曲のようで、一番の見どころは駅前行事、町内揃い踏み円陣を組んでの囃子の共演です。
 
神宮外苑の「
日本の祭り」参加をはじめ、日本各地からの出演依頼があるそうです。花輪ばやしの名声は、海外でも高まっていて、ニースのカーニバル、サンフランシスコの桜まつり、上海の国際交流フェスティバル、ミネソタ州のジャパンウイークなどにも出演しています。
 
幸稲荷神社
◇秋田県鹿角市花輪字稲荷川原56
◇参考HP
http://hanawabayashi.com/spot/sakiwaiinari.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「日本三大お囃」には諸説あります。ここではどれが正しいかではなく、皆を紹介しておきます。

・祇園囃子(京都府、祇園祭)
・葛西囃子(東京都、葛西神社)
・神田囃子(東京都、神田神社)
・花輪囃子(秋田県、鹿角市)
・佐原囃子(千葉県、佐原市)

唯一「祇園ばやし」には異論がないようです。どれが正しくても歴史と伝統があるのは確かです。
8月に入ってもまだまだ暑い日が続きます。日が沈んだ頃に吹く海風はとても気持ちがいいものです。東北の夕涼みに是非お出かけ下さい。
筆者敬白

■8月16~22日「千葉だらだら祭り(妙見大祭)」です。■
120810_37.jpg千葉神社:ちばじんじゃ」は、千葉氏(ちば=下総国の豪族)の守護神である「妙見菩薩」を本尊とする寺院「千葉妙見宮」として建立されました。千葉氏の祖・平忠常の子覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝わります。
 
以降、千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われました。また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていました。
 
天正19年(1591)徳川家康が関東に入部。この寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進し、同時に朱印地二百石と十万石の格式が与えられました。
 
120810_38.jpg江戸時代までは「北斗山金剛授寺尊光院」と称する真言宗の寺院でしたが、明治の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められました。しかし「妙見菩薩」と「天之御中主大神」は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、「妙見信仰」の中心とされていることには変わりありません。
 
主祭神の「北辰妙見尊星王」(天之御中主大神)は、天の中央を定位とする「北辰」すなわち「北極星と北斗七星」の神霊で、諸星諸神・方位方角を支配する星王と讃称されます。その絶大なる霊力を人間界に投射することにより、人間の星(運命)や全方位を守護・掌握する神霊であるとの特徴的信仰が生まれました。
 
道教・陰陽道や易学・九星気学・風水学の根幹となる特殊神として、あらゆる守護能力を発揮する神様として広く尊崇されています。
 
120810_39.jpg妙見尊の善星皆来・悪星退散の御神力の発現による自己の星への好影響を願う。運気好転、向上、維持や、方位・家相・建築に関する災禍の消除、悪神の八方からの侵入による貧・病・争の消除などを願う。厄年祓・星厄消除・開運招福・八方除・方位除などの祈祷を受ける人が後を絶ちません。
 
また、プロの易占家たちが自身の開運と隆盛を願って昇殿されるばかりでなく、易占家の鑑定を受けた多くの人々が祈祷を受けているようです。
 
毎年8月16~22日に行なわれる「例祭」では、大治2年(1127)より続く古式に則った勇壮な神輿渡御が行なわます。御輿の先導を務める大太鼓が「二段打ち」という特殊な叩き方をするのですが、その音が「だらん、だらん」と聞こえることから「だらだら祭り」と呼ばれます。
 
この祭礼は「何か一言願をかければ、その願いは必ずや達成される」と伝わり「一言妙見の祭礼」ともいわれ、願を掛ける人々で賑わいます。参拝の後、縁起物の「ねがい鳥・かない鳥」を求めます。
 
千葉神社
◇千葉県千葉市中央区院内1-16-1
◇JR「千葉駅」徒歩10分
◇京葉道路「穴川IC」10分
公式HP:
http://www.chibajinja.com/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
妙見菩薩の妙見宮としての発祥です。近年パワースポットブームで、一部の方々からは、千葉神社もパワースポットだと紹介されています。
幕末の明治維新を成し遂げた幕末の志士の中に、妙見信仰が根ざしていたという研究がありました。妙見信仰は庶民に根ざした信仰だったようです。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月16日~8月22日「大犯土(おおつち)」です。■
◇犯土の期間◇
120502_60.jpg大犯土:おおつち」は選日の一つで庚午(かのえ うま)の日~丙子(ひのえ ね)の日までの7日間(8月16日~8月22日)をいいます。
8日目の丁丑(ひのと うし:8月23日)の日を差し障り無い「犯土間日:つちまび」を置きます。
9日目の戊寅(つちのえ とら)の日から甲申(きのえ さる)の7日間(8月24日~8月30日)を「小犯土:こづち」としています。

◇犯土期間中慎む作業◇
犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

木々の活動低調期◇

110311_12.jpg野山の木々にも活発な時期と低調な時期があります。大犯土・小犯土期間中は、樹木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。 除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。
科学的な根拠の有無は別にして、林業や大工の方は暦の犯土を経験的に重要視しています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
現代社会では暦の「大犯土」「小犯土」は、科学的な根拠のない迷信だと、軽んじられています。近年は暦に従って生業を営むことが難しい時代になってきました。経験的に積み上げられた大自然の法則を、経験や感覚的に生かしてきた暦を一寸振り返ってみましょう。
家屋など木や土の関わりを生業にしている方や、工務店、建築業・林業の方は、工事など日程を調整して不慮の事故を未然に防ぎましょう。
読者の皆様、残暑厳しい中、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月18日「伝教大師誕生会」です。■
120810_33.jpg平安時代の僧「最澄:さいちょう」は、神護景雲(じんごけいうん)元年(767)8月18日、近江国滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生まれました。
 
日本の天台宗を開いた人物で、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。三津首(みつのおびと)氏は、古代中国の後漢皇帝の末裔と称する渡来系氏族です。
 
12歳で近江国分寺に入り、出家して行表(ぎょうひょう)の弟子となり、14歳で得度。名を「最澄」と改めました。厳しい修行と勉強に打ち込み、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。
 
延暦4年(785)奈良東大寺で具足戒を受戒の後、故郷に戻って比叡山に籠って一人修行を続けます。すべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられるよう願って灯明を供えました。
 
天台宗は大乗仏教の宗派のひとつで、法華経を根本経典としています。伝教大師最澄は延暦24年(805)唐に渡り天台山に登ってその教えを受けました。帰国後、比叡山延暦寺に戻り、この教えを伝えました。弘仁13年(822)比叡山中道院にて没。貞観8年(866)伝教大師の諡号が贈られました。
 
120810_34.jpg比叡山「延暦寺:えんりゃくじ」は、天台宗の総本山で、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。平安から鎌倉時代にかけて、融通念仏の開祖「良忍」、浄土宗の開祖「法然」、浄土真宗の開祖「親鸞」、臨済宗の開祖「栄西」、曹洞宗の開祖「道元」、日蓮宗の開祖「日蓮」などの名僧が修行していることから「日本仏教の母山」とも称されています。
 
最澄の誕生地とされる「生源寺」では、毎年8月18日に盛大な誕生会が行われます。生源寺は、最澄の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の邸宅跡に建てられています。本尊は慈覚大師作と伝わる観音菩薩。境内には大師の産湯と伝わる井戸があります。
 
生源寺
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_around_433.html (ガイド)
◇大津市坂本6‐1871
◇京阪電鉄「坂本駅」すぐ
◇JR比叡山「坂本駅」10分

延暦寺
http://www.hieizan.or.jp/
◇滋賀県大津市坂本本町4220
◇京阪電鉄「坂本駅」ケーブル「延暦寺駅」徒歩10分
◇JR「京都駅」バス1時間10分


71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。genbakudomu.jpg

閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

obama.png物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。

国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。120730_47.jpg

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。

言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

hiroshimasyusyou.jpg私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。

執筆者:吉川慧氏の全文を引用
投稿日:2016年05月27日 19時45分 JST 更新: 2016年05月29日 19時44分 JST

[2016.08.15]

■8月17日「滋賀、建部夏祭」です。■
120810_30.jpg近江国一宮「建部大社:たけべたいしゃ」は、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。社格は、式内社(名神大)、旧官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。


古くから歴代朝廷の尊信篤く、また武将たちの崇敬も深く集めました。特に平安時代末、源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をし、後に大願成就したことから、出世開運の神として、武運来運の神として信仰を集めました。 


主祭神「日本武尊:やまとたけるのみこと(写真右)」を正殿に祀り、権殿に大神神社より勧請の「大己貴命:おおなむちのみこと」を祀ります。


120810_31.jpg景行天皇46年(116)神崎郡建部郷に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりと伝わります。


毎年8月17日に行われる夏祭り「船幸祭:せんこうさい」では、重さ1.5tもある「大神輿」を御座船に乗せて瀬田川を下ります。これは、日本武尊の東征故事に拠るもので、日吉大社の「山王祭」(春祭)、天孫神社の「大津祭」(秋祭)と共に、大津三大祭の一つとなっています。 

120810_32.jpg船幸祭は、瀬田川を海路に見立て船渡御が再現されます。大神輿を載せた御座船を先頭に、船団は約4キロ下流の御旅所がある、黒津浜(供御の瀬)へと向かいます。
到着後、古式の則って別宮の毛知比神社・新宮の新茂智神社から神饌が献じられます。ライトアップされた光が川面に映り、幻想的な夕暮れのなか御旅所祭が厳粛に執り行われます。

午後7時再び船団は帰路瀬田浜へと向かい、唐橋に近付くころ夜空に花火が打ち上げられます。大神輿の動きに合わせ打ち上げられる花火がみどころです。

建部大社
◇滋賀県大津市神領1-16-1
◇京阪電鉄「唐橋前駅」徒歩15分
◇JR琵琶湖線「石山駅」バス「建部大社前」徒歩3分
◇名神高速「瀬田西IC」から5分
◇公式web
http://takebetaisha.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
ヤマトタケルで有名な「建部神社」の夏祭り「船幸祭」です。船団をしたてて、東征に向かう姿を再現しています。数少ない船上祭です。観光にお出かけの方は、熱中症対策に飲料水に帽子を、忘れずにお持ち下さい。

■8月16日~22日「大犯土(おおつち)」です。■
◇犯土の期間◇
120502_60.jpg大犯土:おおつち」は選日の一つで庚午(かのえ うま)の日~丙子(ひのえ ね)の日までの7日間(8月16日~22日)をいいます。
8日目の丁丑(ひのと うし:8月29日)の日を差し障り無い「犯土間日:つちまび」を置きます。
9日目の戊寅(つちのえ とら)の日から甲申(きのえ さる)の7日間(8月24日~8月30日)を「小犯土:こづち」としています。

◇犯土期間中慎む作業◇
犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

木々の活動低調期◇

120817_29.jpg

野山の木々にも、活発な時期と低調な時期があります。大犯土・小犯土期間中は、樹木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。 除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。
科学的な根拠の有無は別にして、林業や大工の方は暦の犯土を経験的に重要視しています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
現代社会では暦の「大犯土」「小犯土」は、科学的な根拠のない迷信だと、軽んじられています。近年は暦に従って、生業を営むことが難しい時代になってきました。経験的に積み上げられた大自然の法則を、統計的に生かしてきた暦をほんの少し振り返ってみましょう。
家屋など木や土の関わりを生業にしている方や、工務店、建築業・林業の方は、工事など日程を調整して不慮の事故を未然に防ぎましょう。
読者の皆様、暑さもひと段落で朝夕は冷える日もあります。この時期、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月16日「月遅れ盆送り火」です。■
120810_20.jpg「盆送り火」「精霊送り」お盆の最後の日。先祖の霊が無事にあの世へ戻れるよう、海や川に供え物や舟を流したり、送り火を焚いて送り出します。
 
京都の「五山送り火」も精霊送りのひとつ。盆の期間に集団で行われる「盆踊り」は精霊を迎える、死者を供養する、霊を送り出すなどのための仏教行事です。
 
■8月16日「京都、五山送り火(大文字)」です。■
京のお盆に終わりを告げる「五山送り火」は、この世に戻っていた先祖や故人の精霊を、再び冥府へと導くという宗教行事です。
 
京都盆地の周囲の山に「大文字」「左大文字」「鳥居形」「妙法」「船形」の合わせて五つの火が点じられ、中でも東山如意ケ嶽の支峰「大文字山」の中腹で焚かれる「大」の文字は良く知られます。山麓には、銀閣寺、法然院等の名刹が連なります。
 
「大文字と左大文字」は「大乗仏教と小乗仏教」を、「妙と法」は「法華経信仰」を、「船形」は「七福神」を、「鳥居」は「神道」をかたどったと考えられています。
 
「大」の文字は、75ヶ所の火床に600束の赤松の割木を積み上げ、午後8時頃いっせいに点火され燃え上がらせます。文字の横の一画は73m、左の一画が146m、右の一画が124mという壮大なもの。


120810_21.jpg点火とともに、大文字中心部にある「弘法大師堂」の中では経が読み上げらます。大文字の強力な火勢は、人々の篤い宗教心を映しているようです。
 
平安時代初期、大文字山麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際、本尊「阿弥陀佛」が山上に飛翔して光明を放ったのを真似た儀式を、弘法大師が始めたという説。室町時代中期、足利義政が近江の合戦で死亡した実子の義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたとする説では、大の字形に山の斜面に白布を添え付け、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶が眺め定めたと伝わります。
 
送り火の起源は謎ですが、慶長8年(1603)にはすでに山々に点火される送り火の行事が、当時の公家の日記に残されていることから、16世紀後半には京都の年中行事として始まっていたことがわかります。
 
「大」の文字は「地・水・火・風」の四元素に加え、「空」を加えて大自然を表した「五大」の意。自然への敬意と先祖を敬う気持ちを象徴しているものです。自然という目に見えない大きな存在を後世に知らせる為の、先祖の計らいでありましょうか。
 
度重なる戦乱で生まれた「怨霊の祟り」と言われた地震や洪水、火災などの続発を鎮めるために、「万燈が巨大化」したものとも考えられています。
 
京都五山送り火は、祇園祭に次いで、夏の京都を飾る風物詩となっています。
 
大文字送り火=京都市左京区浄土寺七廻り町
松ヶ崎妙法送り火=京都市左京区松ヶ崎西山(妙)、同東山(法)
船形万燈籠送り火=京都市北区西賀茂船山
大文字送り火=京都市北区大北山鏡石町
鳥居形松明送り火=京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町
※送り火当日、各山では関係者以外の立ち入りは禁じられておりますのでご注意下さい。
◇参考HPhttp://www.kbs-kyoto.co.jp/okuribi/  

100709_3.jpg■8月16日「箱根大文字焼」です。■
箱根大文字焼:はこねだいもんじやき」とは、箱根外輪山のひとつ「明星岳」(通称大文字山)で毎年8月16日に行われる送り火のことです。
 
大正10年(1921)から続く伝統行事で、強羅で夏を過ごす避暑客を慰め、同時に地元の旧盆の送り火を兼ねて盛大に行われます。
 
120810_22.jpg大文字焼きは準備に2ヶ月余りを要し、炎天下の山腹において刈取乾燥の作業が繰り返し行われ、乾燥した篠竹(箱根産女竹で長さ3m程)直径30cm程の束を350束作ります。
「大」の字の輪郭に沿って二重に約1.5m間隔に立て、花火を合図に点火されます。点が線となり字となり「大」の字が浮かび上がります。
 
先祖の供養と、一年間の無事御礼を「回向袋」に込め、大雄山最乗寺の導師による諸祈願大法要の後、明星ヶ岳に運ばれ、午後7時半の点火と同時に火の中で供養されます。回向袋には、米や豆、お札などを入れて納めます。
 
大文字焼き(だいもんじやき)は「大」の字のみを松明の炎で描く行事のことです。五つの形を描く京都「五山送り火」を「大文字焼き」と呼ぶのは本来は誤りです。
この時期、大文字焼きは他に、静岡三島市、山梨笛吹市、高知四万十市、京都福知山市などで盛大に行われます。
 
開催地
◇神奈川県箱根町
◇箱根湯本から箱根登山鉄道「強羅駅」すぐ
◇東名「厚木IC」より「小田原厚木道路」 国道1号経由約1時間
◇参考HP
http://hanabi.walkerplus.com/detail/fw0489.html

120810_27.jpg

■8月16日「三嶋大社祭」です。■
伊豆国一之宮・総社「三嶋大社:みしまたいしゃ」の創建の時は定かではありませんが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。

御祭神に「大山祇命:おおやまつみのみこと」「積羽八重事代主神:つみはやえことしろぬしのかみ」

の二柱の神を総じて「三嶋大明神」と称して祀ります。大山祇命は山森農産の守護神、事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者に厚く崇敬されています。

120810_26.jpg三嶋神」は東海随一の神格と考

えられ、平安時代中期の「延喜の制」では、名神大に列格されました。社名・神名の「三嶋」は地名ともなっています。

中世以降は武士の崇敬を受け、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇

敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました。以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。

「例祭」は、16日午前10時から斎行されます。この祭を中心とした15日~17日の3日間は「三島の夏祭り」として市内が祭一色に染まります。期間中は30万人の人出が予想され、市内でも様々なイベントが催されます。

120810_25.jpgまた「手筒花火神事」が午後7時から行われ、17日には「流鏑馬神事」が執り行われます。平安時代からの伝統ある神事で、天下泰平・五穀豊穣が祈願されます。

三嶋神社
◇静岡県三島市大宮町2-1-5
◇JR東海道新幹線・東海道線「三島駅」約10分
◇伊豆箱根鉄道「田町駅」約5分
◇東名高速道路「沼津IC」約10分
◇公式Web:
http://www.mishimataisha.or.jp/

■8月16日「松島灯籠流し」です。■
120810_47.jpg万葉の昔より歌枕として用いられ、みちのくを代表する名勝「松島」は、「宮島」「天橋立」と並び日本三景の一つと言われます。正徳4年(1714)頃、江戸幕府の儒学者・林羅山の三男である林春斎が、その著書「日本国事跡考」において、「日本三処奇観」と記したのに始まります。
 
俳聖・芭蕉が奥州行脚する目的の一つとした松島は、奥の細道の中で「松嶋の月まず心にかかりて」とあるようによほど気にかかっていたようで、「扶桑第一の好風なり」とそのあまりの美しさに驚嘆し、絶句したそう。芭蕉が詠んだ句と言われる「松島やああ松島や松島や」は、後にできた逸説だそうです。
 
120810_24.jpg松島湾内には、260余の島があります。朱塗りの渡月橋が架けられ雄島は僧侶の修行の地で、108の岩窟があったと伝わります。その昔、死者の浄土往生を祈念した板碑(石の塔婆)があり、岩窟の中には五輪塔や法名が彫られたものが多くあります。中世の松島は「奥州の高野」と称される死者供養の霊場でした。
 
毎年8月17日に行なわれる「松島灯籠流し:まつしまとうろうながし」は、松島の最大の伝統行事として行なわれます。
 
海上には、全国から寄せられた先祖の霊を供養するために心を込めた「灯籠」の灯火が無数に漂います。夜空には、約7000発もの壮大な花火が打ち上がり、華麗な輝きを放ちます。花火と灯籠の光に浮かび上がる「松島湾」はまた格別です。
 
8月16日は、瑞巌寺「大施餓鬼会」が行われます。


120810_48.jpg開催地
◇宮城県松島町
◇松島海岸及び松島湾一帯
◇JR仙石線「松島海岸駅」徒歩5分
◇JR東北本線「松島駅」徒歩10分
◇松島流灯会Web
http://uminobon.jp/
 
◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
東日本大震災の時には、中止となりましたが、今年は例年通り催されす。また、松島を背景にした名物の「花火大会」も見ものです。
月遅れお盆の「送り火の日」にあたります。松島は津波被害の大きかった地域で、観光産業復興、被害がまじかに見られるツアーなど、震災の悲惨さをいち早く伝えました。
この時期、東北巡りをなさっている方、是非、幻想的な空間に引き込まる松島灯篭流しに出向きましょう。
筆者敬白

■8月16日「末伏(まっぷく)」です。■
110813_15.jpg三伏の最終回です。「初伏:しょふく」・「中伏:ちゅうふく」・「末伏:まっぷく」の3つを総称して「三伏:さんぷく」といいます。陰陽五行説に基づく選日で、日本最古の「具注歴」にも記載された暦注です。

夏至以降、第3回目の「庚の日」を「初伏」、4回目の庚の日を「中伏」、立秋以降の第1回目の庚の日を「末伏」とする方法が一般的です。
 
また、夏至以降の第3.4.5の庚の日をそれぞれとする方法、さらに6月節小暑後の第1.2.3をそれぞれとする方法があります。いずれも、起算日が庚の日ならばその日を第1日目とします。

120801_32.jpg五行説で「:かのえ」は「金の兄」で「金性」です。夏は「火性」が盛んですから、金は火に伏せられて(火尅金)この日を「凶」すなわち善くない日とするのです。
この日は、種蒔き・療養・遠行・婚姻・男女の和合などは慎むべき日とされています。

新暦では、7月中旬から8月上旬にかけて三伏が入ります。この頃は酷暑期にあたるため「三伏の候」「三伏の猛暑」などと手紙の前文に書かれるなど、酷暑の候を表す言葉として現在も用いられています。

韓国では、この時期を「三伏暑:さんぼつ」と呼んでいます。韓国では日本での「土用の鰻」同様、犬肉や参鶏湯を食す風習があります。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
暦の上では秋ですが、酷暑のなかです。日本に「土用の丑の日」には鰻を食して滋養を保とうとします。中国をはじめ東洋では、「三伏」の日は滋養を付けて、夏を乗り切ろうといた暦の上の叡智といえます。肉が貴重だった時代から「三伏の日」には、動物の肉を食する習慣があります。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月15日「終戦記念日」です。■
120801_38.jpg昭和20年(1945)8月15日正午、「昭和天皇の玉音放送」による「太平洋戦争(大東亜戦争/第二次世界大戦)の敗北宣言」を国民に伝える「終戦詔書」がラジオに流れ、「ポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定」が伝えられました。
 
天皇の肉声を「玉音」と言います。この日、天皇の肉声が初めてラジオで放送されました。敗戦と降伏が発表され、この日をもってアメリカとの戦争が事実上終了しました。戦線で苦闘していた将兵たち、内地で空襲に焼かれ、衣類も食料もなく、それでも敵上陸に備えて竹槍を持たせられていた国民も、すべてがこれに聞き伏したのです。
 
しかし、ラジオもなく新聞も配られないところでは、終戦を知るのは後のこととなります。空襲警報発令のサイレンの音、防空壕の暗く重苦しい空気、焼夷弾の降る恐怖から開放された「無条件降伏」による戦後の国民の生活は、終戦の勅語『惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス』の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び以て萬世の為に...」のとおり、耐乏と空腹の毎日を強いられたのでした。
 
110813_16.jpgこの日を「終戦日」と呼び、昭和38年(1963)閣議決定により「全国戦没者追悼式」が行われるようになり、昭和57年(1982)には「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とする事が決定され、再び過ちを繰り返さないよう戦没者に誓っています。
 
終戦記念日は盆にあたることから、死者の霊を供養すべき日として日本人に意識されていますが、今一度、終戦記念日の意味を考えてみてはいかがでしょう。
 
アジア諸国では「日本からの開放記念日」、アメリカ・イギリスなどの連合国では「対日戦戦勝記念日」となっています。

140809_21.jpg■8月15日「全国戦没者追悼式」■
全国戦没者追悼式(ぜんこくせんぼつしゃついとうしき)は、大東亜戦争における全戦没者に対し、国を挙げて追悼の誠をささげるのを趣旨とした、無宗教の形で行なわれる政府主催の追悼式です。
 
戦没者を追悼し平和を祈念する日」として、昭和27年(1952)4月の閣議決定により、同年5月2日に新宿御苑にて第1回追悼式が行なわれました。
 
昭和38年(1963)以降は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日に行なわれています。

追悼の対象は、第二次世界大戦で戦死した旧大日本帝国軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人。式場の正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれます。
 
式典は、政府主催。
東京都千代田区の「日本武道館」で開かれます。式典開始は午前11時51分、所要時間は約1時間。正午より1分間の黙祷を行います。
 
典には、天皇・皇后、三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官及び各政党代表、地方公共団体代表)が参列。また、日本遺族会等関係団体の代表者、経済団体、労働団体、報道機関の代表者、日本学術会議会長、日本宗教連盟理事長などを招き、各都道府県遺族代表、一般戦災死没者遺族代表、原爆死没者遺族代表らを国費で参列させています。
 
式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨しています。
 
◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
平成28
年で終戦から71年が経ちました。英霊を国民皆が崇敬出来るような社会になってほしいものです。昨年の報道のターゲットは安倍首相のいわゆる「談話」でした。今年は自国は自国で守るといった政府の姿勢です。オバマ大統領の広島訪問もあり、本来の国のあり方に近づいたように感じます。

アジアでの領海争い、尖閣の領土問題など、激変する近隣諸国情勢を分析し手を打たなければ、このまま平和な日本でいられないかもしれません。
また、韓国の従軍慰安婦問題や中国との南京虐殺など、隣国との摩擦は長期化しています。

いつまでも平和ボケせず、自国の領土は自ら守る姿勢を貫きたいものです。
筆者敬白

■月遅れ盆8月13日「ぼん迎え火」■
110806_17.jpg迎え火」とは、麻の茎を乾燥させた麻幹(おがら)を松明(たいまつ)のように立てて火をつけたもの。先祖の霊が迷わずに帰って来られるように、道しるべとなります。

外から内に入るように火をまたぐと、先祖の霊を迎え入れたという意味に。火を焚くかわりに、軒先に電気提灯を下げる場合もあります。

■月遅れ盆8月15日「ぼん」「盂蘭盆」■
盂蘭盆:うらぼん」とは、旧暦7月15日(現在の8月15日)を中心に行われる先祖の霊を祀る仏事のこと。仏教用語。省略して「おぼん」「」ともいいます。

7月13日の夕方の「迎え火」に始まり、16日の「送り火」に終わります。先祖の霊を自宅に迎え、父母の恩を謝し、種々の供物を死者の霊にお供えして、お経をあげ、冥福を祈ります。

盂蘭盆とは、梵語で「倒懸(とうけん=さかさづり)の苦を救う」の意。あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し、救うという。サンスクリット語で「ウラバンナ」の音写語です。

一般的に「盆」は、供物を載せる容器の「おぼん」を意味し、「ぼん」ということから、盆になったという説もあります。いずれにせよ盆の行事は、正月の行事と同様に祖霊祭の意味を持ち、大変重要なものです。

釈迦の弟子に目連という人がいました。その母の死後、餓鬼道に堕ちて痩せ衰えているのを、心眼によって見透し、助けようとしたが出来ません。釈迦の教えを乞うと「目連の一人の力ではいかんともしがたい。7月15日に衆僧に供養し、その功徳によって母を餓鬼道から救いなさい。」と命じられたと、盂蘭盆経にあります。

盂蘭盆経は、父母恩重経や善悪因果経などと共に中国で成立した偽経と考えられています。本来は安居の終わった日に、人々が衆僧に飲食などの供養をした行事でした。これが転じ、様々な伝説が付加されたのでしょう。

インドから中国を経て、日本には飛鳥時代に伝わりました。推古天皇14年(606)に飛鳥の法隆寺で行われたのが初めで、聖武天皇の天平5年(733)から宮中の仏事となりました。奈良平安時代には、毎年7月15日に行われ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」をあわせて行うようになりました。

「施餓鬼会:せがきえ」とは、死後に餓鬼道(がきどう)に堕ちた衆生の為に飲食を布施し、その霊を供養すること。同時に、無縁仏となって成仏できずに俗世を彷徨う餓鬼にも施します。

110806_18.jpg古来、日本では初春と初秋の満月の日に魂祭が行われていました。魂祭とは、祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事です。初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて「正月」の祭事となり、初秋のものが「盂蘭盆」と習合して、仏教の行事として行われるようになったといわれています。

盆の13日は、先祖代々の墓に参ります。夕方には門口で「迎え火」といって苧殻(おがら)をたき、精霊を迎え入れます。14日や15日は僧侶を招いてお経をあげてもらいます。このことを棚経(たなぎょう)といいます。供物を供える棚「精霊棚」の前で経を読むことから、そういわれます。16日の夜は「送り火」をたき、精霊を送ります。
※苧殻とは、皮を剥いだ麻の茎の部分。麻殻。

盆には「素麺、瓜、茄子、西瓜、ほうずき、梨、葡萄」などが供えられます。瓜や茄子で作った牛馬の飾りは、あの世とこの世を行き来するための乗り物。精霊馬(しょうろうま)と呼ばれ、これに精霊を載せて迎え、送るという意味です。


盆の一般的行事には、盆踊りがあります。本来精霊を迎えて慰め、送り出す目的のものです。念仏踊りに小町踊りや伊勢踊りの要素が加わったもので、阿波踊りも盆踊りのひとつです。また、灯篭流し精霊流しも盆の行事のひとつです。お盆の行事は、地方や宗派によって形態が異なります。全国的には月遅れの盆・旧盆の8月15日に行う地方がもっぱらですが、東京では新暦7月15日に行われるところが多いです。また、旧暦7月15日にあたる日に行うところもあります。


亡くなった人が49日法要が終わってから最初に迎えるお盆を「初盆:はつぼん」または「新盆:にいぼん」と呼びます。亡くなっても、まだ世俗のものを多く身に付けていたり、供養してもらえない人の霊も一緒に連れて帰ることがあるので、特に手厚く供養します。

110806_19.jpg■月遅れ盆8月16日「ぼん送り火」■

盆送り火」「精霊送り」お盆の最後の日。先祖の霊が無事にあの世へ戻れるよう、海や川に供え物や舟を流したり、送り火を焚いて送り出します。

京都の「五山送り火」も精霊送りのひとつ。盆の期間に集団で行われる「盆踊り」は精霊を迎える、死者を供養する、霊を送り出すなどのための仏教行事です。
  
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◇◇月遅れお盆の過し方◇◇
◆7日「七日盆」◆
お盆を迎えるに当たり、お墓を磨いたり、掃除をしたりします。
◆12日「草の市」◆
期間中の花やロウソクなどを買って、迎え盆の準備をします。
◆13日「迎え盆」「迎え火」◆
お迎えした先祖の霊は、仏壇ではなく「盆棚」(精霊棚)に祀ります。仏壇の前や縁側などに盆棚を作り、墓参りに行き、玄関に迎え火を焚いて、霊を迎えます。
◆15日「盆」「藪入り」◆
奉公先に休みをもらって、お盆や正月に帰省することを藪入り(やぶいり)といいます。家族揃ってゆったり過ごしたり、親戚の盆棚へお参りに行ったりします。
◆16日「盆送り火」「精霊送り」◆
お盆の最後の日。先祖の霊が無事にあの世へ戻れるよう、海や川に供え物や舟を流したり、送り火を焚いてお迎えした霊を送り出します

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
旧暦のお盆、すなわち8月のお盆を習慣にしている地域では、8月13日の迎え火から15日がお盆、16日日に送り火といった日程が一般的です。ここでは月遅れ盆と表示してあります。

この時期、お盆休暇で帰省して、同窓生らと学生のころ思い出し、懐かしさから、暴飲暴食に走る方をお見受けします。夏バテが体に出る時期ですから、体調管理にくれぐれも注意しましょう。
それでは読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月15日「己巳(つちのとみ)」です。■
120417_62.jpg「己巳:つちのと・み、き・し」は、干支十干と十二支)の組み合わせ60のうちの6番目で弁財天を祭る日とされています。「巳待:みまち」ともいいます。

五行説で、十干「:つちのと、き」は「陰の土」、十二支「:み、し」は「陰の火」で、相生(火生土)でとなり相性のいい日です。

「巳」は「」をあてています。蛇は弁財天の使いであると考えられていたことから、福徳賦与の神である弁財天を祀るようになりました。


「弁財天」
は、宝冠を被り青衣をつけた美しい女神で、左手に弓・刀・斧・絹索を、右手に箭・三鈷戟・独鈷杵・輪を持つものもあり、ヴィーナ(琵琶に似た楽器)を弾じます。


121225_27.jpg安芸の宮島
大和の天川近江の竹生島相模の江ノ島陸前の金華山五弁天と称します。
鎌倉の「銭洗弁天」(正式には宇賀福神社)では、境内奥の洞窟内の湧き水で銭を洗うと、数倍になって返ってくるとされています。

日本各地に存在する「弁天島」は、弁才天信仰に由来する島名です。海難避けや豊漁を祈願する漁師たちの守り神として、日本各地の沿岸の小島に祀られてきました。

七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして信仰されている七柱の神です。
◆≪恵比寿:えびすさま≫商売繁盛、除災招福、五穀豊穣、大魚守護の神様
「大漁追福」の漁業の神。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となりました。七福神の中で日本が由来の神様。
◆≪大黒天:だいこくてん、だいこくさま≫五穀豊穣、子孫愛育、出世開運、商売繁盛の神様
ヒンドゥー教のシヴァ神と、日本古来の大国主命の習合です。その後「大黒柱」と現されるように、食物や財福を司る神となりました。
◆≪毘沙門天:びしゃもんてん≫武道成就、降魔厄除、家内安全、夫婦和合の神様
ヒンドゥー教のクベーラ神。仏教の神のヴァイシュラヴァナ(多聞天)になり、日本では毘沙門天と呼ばれます。
◆≪弁才天:べんざいてん、べさいてん、べんてんさま≫恋愛成就、学徳成就、諸芸上達、福徳施与の神様
七福神の中の紅一点。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されます。
◆≪福禄寿:ふくろくじゅさま≫財運招福、延命長寿、立身出世、招徳人望の神様
道教の宋の道士、または、道教の神で南極星の化身の老子である「寿老人」の別名または同一神とされます。
◆≪寿老人:じゅろうじん≫幸福長寿、家庭円満、延命長寿、福徳智慧の神様
道教の神で南極星の化身の老子。
◆≪布袋:ほていさま、ほていそん≫千客万来、家運隆盛、家庭円満、商売繁盛の神様
唐の末期、明州に実在したと伝わる仏教の僧です。

130218_20.jpg
暦注や暦に起因する様々な行事は、中国から渡ってきたものが主ですが、「
庚申待」「甲子待」と同類でも、「己巳」は日本独自のものです。

◇◇◇ 編集後記 ◇◇◇
8月も半分を残すだけになりました。社会では己巳や庚申などは迷信扱いです。暦の謂れを振り返ってみることも、せちがない現代での心の余裕といえます。 

皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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■8月15日「東京富岡八幡宮祭」です。■
東京都最大の八幡神社「富岡八幡宮:とみおかはちまんぐう」は、寛永4年(1627)当時「永代島」と呼ばれた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たとあります。

世間では「深川の八幡様」と親しまれ、今昔、変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
120801_42.jpg
江戸時代には、源氏の氏神である「八幡大神」を、殊の外(ことのほか)尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けました。明治維新には朝廷から、准勅祭社として定められました。

御祭神は「品陀和気命:ほんだわけのみこと=応神天皇の諡号」他八柱。その他、境内には各地から勧請された末社・摂社が計17社に及びます。

毎年8月15日を中心に祭礼が行われます。「深川八幡祭」「深川祭」とも呼ばれ、赤坂の「日枝神社山王祭」神田の「神田明神の神田祭」と並ぶ「江戸三大祭」の一つに数えられています。

120801_41.jpg富岡八幡宮
◇東京都江東区富岡1-20-3
◇営団地下鉄東西線「門前仲町駅」徒歩3分
◇都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」徒歩6分
◇JR京葉線「越中島駅駅」徒歩15分◇JR「東京駅}車15分
◇公式Web
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
富岡八幡宮は発祥から六万五百八坪からなる広大な社有地からなり、それが為に氏子社中も広範囲に点在しています。
下記は神幸祭御順路です。広さがわかります。
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html

季節の変わり目です。お祭りをご覧になる方は熱射病にならないよう水分補給に帽子をお忘れなく。
筆者敬白

■8月14、15日「奈良、春日大社 万灯籠」です。■
110809_16.jpg全国にある春日神社の総本社「春日大社:かすがたいしゃ」は、神護景雲2年(768)平城京の守護と国民の繁栄を祈る為に創建されました。
 
奈良の伝統行事のひとつ「中元万燈籠:ちゅうげんまんとうろう」は、約800年の歴史がある行事です。境内約3000基の燈籠は、広く一般国民から奉納されたもの。明治以降に油料が途絶え、点燈は2月の節分と、8月14・15両日の年2回になりました。
 
120801_40.jpgこの日、所願成就を祈って全燈籠に火が入れられます。本殿周辺の回廊にも燈籠が釣られ、火の灯りが朱色の回廊を照らし、幽玄な雰囲気を醸し出しています。
 
14日は舞楽、15日は神楽が神前で奉納されます。
 
春日大社
◇奈良県奈良市春日野町160
◇JR・近鉄「奈良駅」バス「春日大社本殿」10分
◇春日大社公式Web
http://www.kasugataisha.or.jp/

◇◇◇◇萬燈籠解説◇◇◇◇
万灯籠祭は、古くは室町時代や江戸時代に、奈良町の住人が春日参道で、雨乞い祈祷として「万燈籠」を行っていました。
記録には、興福寺大乗院の尋尊僧正の日記で、今から500年余り前の文明7年7月28日、「祈雨のため、南都の郷民、春日社頭から興福寺南円堂まで、燈籠を懸く」とあり、当時は木の柱に横木をつけ、それに行燈か提灯の様な手作りの仮設の燈籠を懸け行っていたと考えられます。
故に浄火を献じて神様に様々な祈願をすることが万燈籠です。

■8月14、15日「鶴岡、荘内大祭」です。■

140804_20.jpg荘内神社:しょうないじんじゃ」は、庄内藩(正式には鶴岡藩)藩主の居城「鶴ケ岡城」の本丸址に所在します。庄内藩主「酒井家」初代忠次公、二代家次公、三代忠勝公、九代忠徳公の四人の先祖を祭神として祀ります。

 元和8年(1623)酒井家三代・忠勝公が、幕命により信州松代から荘内に移封されました。戦国時代、草刈場となって疲弊していた土地を、歴代藩主が250年にわたって善政を施いたことで、領民も心から主君を敬い慕っていました。
 
110813_20.jpg長く平和が続いた幕藩体制が終焉した後でも、旧藩主を敬い慕う民衆の気持ちは
強く、庄内一円の人々の総意によって、明治10年(1877)藩主縁りの中心地である鶴ヶ岡城本丸址に「出羽之国庄内の産土神」として荘内神社が創建されました。

 
その後、大正13年(1924)荘内藩中興の祖、9代忠徳公が従三位を贈位されたことを記念して、新たに祀られました。それ以来、出羽荘内の産土神「神社はん」と慕われています。
 
120810_29.jpg荘内神社の祭り「荘内大祭」は、創建の明治10年、旧藩主を慕う市民の手でかつての大名行列が再現されたのが起源です。江戸時代の装束に見を包み、天下人・秀吉より賜った「金びょうたん槍」を先頭に、奴振り、鎧武者の甲冑列など、約400名からなる「荘内藩伝承大名行列」が、城下町・鶴岡に歴史絵巻を繰り広げます。
 
また、酒井公が手厚く保護したという「黒川能」が奉納され、鶴ヶ岡城の外堀であった「内川」では灯籠流しが行なわれます。
開催日◇8月14~15日。
 
荘内神社
◇山形県鶴岡市馬場町4番1号 鶴ヶ岡城址
◇JR羽越本線「鶴岡駅」バス約5分
◇山形道「鶴岡IC」から10分
◇公式Web:http://jinjahan.com/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
疲弊した土地を250年にわたる善政で、肥沃な土地に甦らせた「酒井家」を敬う人々によって、建立された「荘内神社」です。明治維新から140年を経ても旧藩主を慕う市民によって祭礼が行われます。変わって東日本大震災で3年が経過しました。100年後に震災の復興に感謝して、当時の菅首相や野田総理を慕う人が現れるでしょうか。
猛暑酷暑は過ぎ去って、お出かけには良い季節になってきました。
是非一度、鶴岡の荘内祭の荘内藩伝承大名行列をご覧下さい。
時代絵巻は一見の価値があります。
筆者敬白

■8月13日月遅れ「盆迎え火」です。■
日本各地で行われている「お盆の行事」は、各地の風習や宗派による違い等によ100709_1.jpgって様々です。一般的には先祖の霊が帰ってくると考えられ、お盆は先祖の霊と一緒に過ごす期間とされています。

現在では、8月15日を中心に「月遅れ盆」(旧盆)行事をするのが一般的のようです。

これは、明治になって新暦が採用されると、7月15日は農作業の繁忙期と重なり、これでは農家の人達にとって、お盆行事を行うには都合が悪いので、お盆をひと月遅らせて、旧暦の閑散期に先祖の供養をしようということからです。

140809_20.jpg

古く「迎え火」とは、麻の茎を乾燥させた麻幹(おがら)を松明(たいまつ)のように立てて火をつけたもの。先祖の霊が迷わずに帰って来られるように、道しるべとなります。


◇◇お盆の過し方◇◇
7日「七日盆」
お盆を迎えるに当たり、お墓を磨いたり、掃除をしたりします。
12日「草の市」
期間中の花やロウソクなどを買って、迎え盆の準備をします。
13日「迎え盆」「迎え火」
お迎えした先祖の霊は、仏壇ではなく「盆棚」(精霊棚)に祀ります。仏壇の前や縁側などに盆棚を作り、墓参りに行き、玄関に迎え火を焚いて、霊を迎えます。
15日「盆」「藪入り」
奉公先に休みをもらって、お盆や正月に帰省することを藪入り(やぶいり)といいます。家族揃ってゆったり過ごしたり、親戚の盆棚へお参りに行ったりします。
16日「盆送り火」「精霊送り」
お盆の最後の日。先祖の霊が無事にあの世へ戻れるよう、海や川に供え物や舟を流したり、送り火を焚いてお迎えした霊を送り出します。

100709_3.jpg◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
8月の旧盆には帰省、旅行などお盆休みを利用した計画されていることでしょう。
お盆の時期、是非先祖に対し思いを馳せて、墓参などにお出かけ下さい。現代は混沌とした世の中です。「このままでいいのだろうか」と墓前にて、お伺いを立てるのも一つの供養です。
父ならどうするだろうか、母ならどうするだろうか。皆さんの体には、先祖の経験が受け継がれているのですから、必ずタイムリーな回答が脳裏をよぎるはずです。
お盆のこの時期ぜひ墓参にお出かけ下さい。
筆者敬白

■8月13日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■
110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

■8月12~15日「徳島、阿波踊り」です。■
110809_15.jpg阿波踊り:あわおどり」は、400年の伝統を持つ徳島県内各地の市町村で開催される盆踊りです。最も賑わいを見せるのが徳島市の阿波踊りで「四国三大祭り」「日本三大盆踊り」のひとつに数えられます。

▼四国三大祭
・阿波踊り(徳島)・よさこい祭り(高知)・新居浜太鼓祭り(愛媛、新居浜)
▼日本三大盆踊り
・阿波踊り(徳島)・郡上八幡盆踊り(岐阜)・西馬音内盆踊り(秋田)
 

大正年間、徳島藩主:蜂須賀家政が阿波25万7千石の大守として入国し徳島城を築いた際、祝いの酒に酔った城下の人々が、夜の更けるのも忘れて踊り歩いたのが、阿波踊りの起源といわれています。その独特の流し踊りは、疫病神送りにも通じるものがあります。
 
120801_36.jpg阿波踊りのルーツは、京都で流行っていた風流踊り・精霊踊り・念仏踊りを原形として、歌舞伎での舞に藍商人が覚えてきたお座敷芸、三味線流などの芸能が混在して出来上がったといわれています。
 
阿波踊りは「」というグループごとに踊ります。連では男女によって踊り方が異なり、女性は浴衣に網笠を深く被り下駄を履いて優雅に踊ります。男性は半天(法被)を着て踊る半天踊り・浴衣を尻からげに着て踊る浴衣踊りなど、腰を落として豪快に踊ります。男性が女踊りを踊ることはタブーとされています。
 
三味線・笛・太鼓・鉦・横笛などの2拍子の賑やかなリズムに乗って、連が町中を練り歩きます。
 
120801_37.jpg調べてみると奥の深い阿波踊りです。
♪偉い奴ちゃ偉い奴ちゃよいよいよいよい踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん♪...と唄われる「よしこの節」が有名ですが、「ヤットサーヤットサー」という掛け声のほうが多用されています。
 
徳島市の人口は26万人ですが、この4日間で100万人の人出があるほど。リオのカーニバルと並び称されるほど、世界的な踊りの祭典になっています。
 
開催場所
◇徳島県徳島市
◇JR「徳島駅」~市役所前 他
◇HP
http://www.awaodori.net/


◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

阿波踊りをはじめとして、盆踊りや火祭り、七夕などお盆行事から変化した祭礼が多い時期す。7月後半からの火祭りで「迎え火」をして、魂を慰める盆踊りや豪華な山車が有名な祭礼もあります。「送り火」のから発展した「京都大文字焼き」をはじめ、各地で山焼きなどこれから斎行されます。夏祭りと盂蘭盆行事は、ともに先祖の供養する祭礼です。
阿波踊りにお出かけの方、今年は気温が高、く熱中症の被害が報道されています。阿波踊り観光にお出かけの際帽子、水分補給を忘れずにご準備ください。西日本ではゲリラ豪雨頻発しています。雨具のご用意を忘れずに。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月9~12日「高知、よさこい祭り」です。■
110807_13.jpg
よさこい祭り」は、毎年8月9日前夜祭から10・11日の本番と、12日後夜祭・全国大会の計4日間、高知市内で行われる「土佐のカーニバル」のこと。市内9ヶ所の競演場・6ヶ所の演舞場で150団体、約1万6千人の踊り子が市内を乱舞します。
 
昭和29年8月、市民の健康と繁栄を祈願し、併せて商店街振興を促すための不況対策として、高知商工会議所が中心となって始まりました。
 
120801_34.jpgよさこい」は、高知より全国へ、世界へ広がり、関西や関東では小学校の運動会やお祭りで「よさこい鳴子踊り」が踊られています。
 
北海道では「YOSAKOIソーラン祭り」が生まれ、ハワイのホノルルフェスティバルにも参加しています。
 
よさこい」とは、慶長年間に山内一豊公が土佐藩主として高知城を築いた際に作業現場で歌われた「木やり節」が変化したもので、囃言葉「よさこい」は、石材や木材を運ぶときの掛け声で「よいしょこい」が原形と言われます。また「夜さ来い」という表現とも。
 
120801_35.jpg「よさこい節」は高知県の民謡で、幕末高知城下で起きた恋愛事件からとった歌詞は有名です。お座敷歌として広まりました。
♪土佐の高知のはりやま橋で~坊さんかんざし買うを見たよ~よさこい~よさこい~♪
 
開催地
◇高知県高知市本町
◇本部追手筋競演場、中央公園・帯屋町商店街・高知城他
◇問い合わせ:高知商工会議所/よさこい祭振興会
◇参考ブログ
http://www.yosakoi.com/jp/

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

8月に入り四国の「よさこい」、「阿波踊り」が開催されます。8月13日~月遅れお盆に入ります。よさこいも阿波踊りも、いわゆる全国的な盆踊りの一つと言えます。

浴衣を着て団扇を片手にご当地ソングで、地域の方々と年齢に関係なく踊るさまは、日本の夏の風物詩です。
筆者敬白 

■8月11日、「山の日」です。■alps.JPG
平成22年(2010)山岳関係の団体が「山の日」制定協議会を結成して、「山の日」を制定し祝日にすることを目標に機運を盛り上げていました。
その結果、平成25年(2013)4月、山岳関係者や自然保護団体などからの意見を受け、「山の日制定議員連盟」の発議で、平成平成26年(2014)に制定された、日本の国民の祝日の一つです。

国民の祝日に関する法律では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としていますが、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではありません。
実はこの山の日、主に『日本山岳会』の頑張りと啓蒙活動でできた祝日だということがわかります。

当初は盆休みと連続させやすいことから8月12日を祝日との方向でした。
8月12日は日本航空123便墜落事故の日だったため、「日航機墜落事故が起きた日をお祝いするのは違和感を覚える」との懸念をから、最終的に8月11日を山の日とすることを決定した経緯があります。

yamanohikitte.png平成28年(2016)に施行され第1回「山の日」
にあわせたイベントも各地で行われます。
10日には全国で山の日の「記念切手」が発売され、11日には長野県松本市の上高地でトークショーなど、山の日を記念した全国大会も開かれます。
また、8月中には、東京の高尾山や群馬県の谷川岳など各地で登山教室が行われるほか、親子で参加できるキャンプ教室などさまざまなイベントが開催される予定です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
 
近年中高年の登山ブームに、「山ガール」と呼ばれる若い女性の登山者も増えています。
ブームの中、山の遭難事故は増加し、毎年3000人の遭難者が出ています。
全国「山の日」協議会では、「自分の体力にあった無理のない登山計画を立て事故のないようにしてほしいと話しています。
山の日が登山に親しむきっかけになり、遭難を少しでも減らすきっかけになって欲しいものです。
筆者敬白

■8月10日「館山、安房神社祭」です。■
110807_14.jpg安房国一之宮「安房神社:あわじんじゃ」は、「天太玉命:あめのふとだまのみこと」を主祭神とする式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。「大神宮」と通称されます。
 
安房国は「忌部氏」(いんべ=神事に奉仕する氏族)が開拓した土地で、天太玉命はその祖神。相殿に「天乃比理刀咩命:あめのひりとめのみこと=天太玉命の妃神」、忌部五部神として「櫛明玉命:くしあかるたまのみこと=出雲忌部の祖」、「天日鷲命:あめのひわしのみこと=阿波忌部の祖」「手置帆負命:たおきほおいのみこと=讃岐忌部の祖」、「彦狭知命:ひこさしりのみこと=紀伊忌部の祖」「天目一箇命:あめのまひとつのみこと=筑紫忌部・伊勢忌部の祖」を祀ります。
 
120730_51.jpg摂社に「天富命:あめのとみのみこと=天太玉命の孫神」、「天忍日命:あめのおしひのみこと=天太玉命の兄弟神」を、末社「厳島社」に「市杵島姫命:いちきしまひめのみこと」、「琴平社」には「大物主神:おおものぬしのかみ」を祀ります。
 
神武天皇元年(皇紀元年)神武天皇の命を受けた天富命が、農作物が良く出来る土地を求めて四国の阿波国に上陸。麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えて開拓しました。
 
のちに、さらに肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を率いて海路黒潮に乗り、房総半島南端布良に上陸。その周辺を「安房郡」と名付けて天太玉命を祀る社を創建したと伝わります。
 
毎年8月10日に行なわれる「例祭」は、1年間の祭典の中で最も重要で盛大な神事です。神社本庁からの幣帛をお供えし、国家の安泰、皇室の弥栄、国民の安寧を祈願します。
 
120730_50.jpg前日の8月9日には子供神輿が、10日には「安房神社神輿」が出御し、2日間にわたって賑わいます。
 
安房神社
◇千葉県館山市大神宮589
◇JR「館山駅」バス20分「安房神社前」 下車
◇館山自動車道
◇参考
http://www1.ocn.ne.jp/~awajinja/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
安房神社は東京から見ると南方方位のパワースポットです。折しも本社殿後ろには霊泉も噴出していて、ご祈祷を済ませてからお水で祐気を採ると、パワースポットの如く気の高さを感じ、自然と呼吸が深くなります。
お出かけの際には暑さ対策を忘れずにお出かけください。
筆者敬白

■8月10日「西鶴忌」です。■
130730_20.jpg井原西鶴:いはらさいかく」は、「好色一代男」などで知られる江戸時代の浮世草子の創始者で人形浄瑠璃の作者です。本名は平山藤五(ひらやまとうご)。井原は母方の姓。別号は鶴永・二万翁。
 
晩年に名乗った「西鶴」は、5代将軍徳川綱吉が娘の鶴姫を溺愛するあまりに出した「鶴字法度=庶民の鶴の字の使用を禁止」したことに因んでいます。
 
寛永19年(1642)大阪生まれ。15歳の頃から文芸の道を歩み始め、家業を他人に任せて諸国を渡り歩き、天和2年(1682)小説の第1作「好色一代男」が出版され好評で、江戸でもベストセラーとなり、草子作家としての地位を獲得しました。
 
120730_48.jpg西鶴の「浮世草子:うきよぞうし」は、町人物・好色物・武家物に分けられます。西山宗因に師事して俳諧を学び、速吟軽口の俳風から「阿蘭陀流(オランダ流)」「放埒(ほうらつ=不品行さ)抜群」などとからかわれました。
 
「浮世」には「世間一般」という意味と「色事」「好色」といった意味があります。遊里や金銭を主な題材として町人生活をリアルに描き、娯楽性のある浮世草子を確立しました。
 
西鶴は経営学の師としても評価されています。越後屋は突然の雨に備えて番傘を店に置き、顧客に貸し出します。その傘には「越後屋:何番」と通し番号が書かれています。顧客は傘を借りて帰る道すがら「越後屋」の宣伝をしてくれるし、傘を返しに行けば再度顧客になる可能性も高い。以来「番傘」は通称となりました。西鶴の素晴らしい知恵と才覚です。
 
元禄6年(1693)8月10日、大坂鑓屋町の草庵で没。52歳。その辞世は「人間50年の究り、それさへ 我にあまりたるに、ましてや 浮世の月 見過ごしにけり未二年」とあります。
 
西鶴の墓は大阪上本町「誓願寺」
(大阪市中央区上本町西4-1-21)
参考サイト
http://www.chizumaru.com/czm/objlist-27G1009X487879.826Y124799.968S500D27010654.htm

■8月10日「甲子」です。■
甲子:かし・かっし・きのえね」とは、甲子待ち・甲子祭の略称。子祭ともいいます。

110906_19.jpg五行説で「甲」は陽の木、「子」は陽の水で五行相生して吉となり、よい組み合わせです。また十干十二支(じゅっかんじゅうにし)の組み合わせ60種のうちの「1番」で、目出度い日とされています。

この日、甲子待ちと称して子の刻(午後11時~午前1時)まで起きて、大豆・黒豆・二股大根を食膳に供え、大黒天を祀ります。子(ね)を、ねずみと結びつけ、ねずみを大黒天の使いであるとみなして、子の日に祀るようになりました。

甲子(きのえね)・庚申(こうしん)・己巳(つちのとみ)は、江戸時代に商家で盛んに行われました。現在でも各地に行事として残っています。

甲子は、日では60日で循環し巡り、年では60年で循環し巡ります。中国では甲子の年は政治上の変革があるとされ、甲子革命が説かれたりしました。日本でも甲子の年には、元号の改元が議論されたりしました。
 
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
社会では始まりや一番目は、お目出度いとされています。「甲子」も干支の1番目で、決断、改革、転居、方針転換、新規チャレンジ、入学、新しい仲間などにチャンスがあります。また、年号が甲子だと政変になるとされています。

夏に入り小暑前の「甲子」です。新しいことを始める時で、個人でも、決断、改革、転居、方針転換、新規チャレンジ、入学、新しい仲間などにチャンスがあります。
8月に入り季節の変わり目です。読者の皆様お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月10日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程

筆者敬白

■8月9日「長崎原爆の日」です。■
110807_11.jpg昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、米軍は6日の広島に続いて長崎に史上第二の原子爆弾「ファット・マン」を投下しました。
 
長崎上空9600mから投下された爆弾は、高度500mで炸裂、0.2秒後に半径200mの火球(温度8000度)を作り、爆風、熱線、放射線となって市民を襲いました。
 
長崎の原爆はプルトニウム爆弾で、広島のウラン爆弾より強力なものでしたが、長崎の地形が被害の拡大を防ぎました。とはいえ7万4千人余の命を一瞬で灼き尽くした威力は凄まじいものです。以降、原爆が原因で亡くなった人は15万人に上ります。

120730_47.jpg当初の計画では、ナチスドイツに対抗するために開発されていましたが、製造途中でドイツが降伏してしまったために、ターゲットを日本に変更しました。アメリカ大統領のトルーマンは、原爆投下まで日本を降伏させるな。との指示を出していました。日本の都市に投下することで原爆の威力を実証したかったのです。
 
この日、原子爆弾・核兵器がもたらす被害と悲しみを二度と経験することのないよう、犠牲者の霊を慰め、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて「長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」が行われ、原爆が投下された11時2分、犠牲者の冥福を祈り、1分間の黙祷を捧げます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
8月6日の広島原爆の日同様、私たち日本人には忘れてはいけない日です。これを機会に核兵器について考えるよい機会です。私たちは繰り返さないことが肝要です。
日ごろから不慮の事故や災害には備える習慣を身に着けましょう。

まだまだ残暑厳しい頃です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■7月9日「七夕(たなばた)」です。■
120625_22.jpg七夕:たなばた・しちせき」は、五節句のひとつで、7月7日の称。旧暦7月7日の夜のことをいいます。七夕祭、星祭。日本、中国、越南(ベトナム)、朝鮮、台湾などにおける節供、節日になっています。
日本では、明治改暦以降は7月7日、または月遅れの8月7日に七夕祭りが行われます。

中国暦においては7月は秋の最初の月「孟秋:もうしゅう」で、7日は上弦の月となります。初春=孟春、初夏=孟夏、初秋=孟秋、初冬=孟冬。七夕は、秋の季語となります。

120625_23.jpg七夕の行事にはいくつかの流れがあり、それらが複合して七夕の習慣が出来上がったと考えられています。古くは「棚機」と書きました。一般的に「七夕:しちせき」を「たなばた」と発音するのはその名残です。もともと中国の行事で、日本には奈良時代に伝わり、日本の「機織津女:たなばたつめ」の伝説と習合して生まれました。

◆七夕の起源(1)◆
◇お盆・乞巧奠の習合◇
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭礼の「盆・ぼん」に中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う「乞巧奠・きこうでん」などが習合したものと考えられています。もともと盆の行事の一部が独立した行事になったのもで、笹には「精霊(祖先の霊)」が宿るといいます。

◇「棚機津女の伝説」(古事記)◇
120625_24.jpg棚機津女の伝説は、村の災厄を除いてもらうため水辺で神の衣を織り、神の一夜妻となるため機屋で神の降臨を待つ棚機津女という巫女(みこ)の伝説です。

この伝説と乞巧奠の行事が結びつき、奈良時代に宮廷や貴族の行事になり、やがて民間にも普及し、女子が裁縫の上達を祈る星祭の行事として続いてきました。

笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いたりして、習字や裁縫など手習い事の上達を願う習俗は、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことです。


◆七夕の起源(2)◆
もう一つの流れは、7月の盆の先祖祭の前に、穢れを祓い清める行事。なので、七夕の日には水浴を大切な行事とした所が多く、髪を洗ったり、子供や牛馬に水浴びをさせたり、墓掃除をしたり、井戸をさらったりする風が残されています。水浴びを「ねむり流し」「ねぶた流し」ともいいました。

青森で行われる「ねぶた祭り」も、本来は穢れを水に流す「禊の行事」でした。ねぶた(ねぷた)は「眠たさ」のことで、睡魔を追い払う行事です。秋田の「竿灯」も七夕祭の一つです。


■■「織女・夏彦、七夕物語」■■
昔、中国の漢水のほとりに、織女(しょくじょ)という機織の上手な美しい娘が住んでいました。織女は天帝の自慢の娘でした。天帝は、娘が年頃になったので、農耕に熱心な夏彦を婿に迎えてやりました。

ところが、夫婦となった二人は夫婦生活が楽しく、織女は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなってしまいます。怒った天帝は夏彦を漢水の対岸へ追放してしまいました。

毎日泣き続ける織女を可愛そうに思った天帝は、年に一度、7月7日だけ、夏彦が逢いに来ることを許しました。その日が来ると、夏彦は漢水を渡って織女に逢いに行きました。

しかし、7月7日に雨が降ると漢水の水かさが増し、川を渡る事が出来ません。二人を哀れんで無数のカササギがやってきて、橋を掛けてくれるのでした。

※カササギ=烏科の雑食。全体は黒色で胴は白色、尾が長いのが特徴です。唐津、伊万里を除く佐賀県全域と福岡県の一部が、生息地として天然記念物に指定されています。

110705_1.jpgこの物語の「織姫星」「織女星」は「こと座(琴座)」の一等星「ベガ」に、「夏彦星」「彦星」は牽牛星わし座の「アルタイル」に、「漢水」は「天の川」に移して考えられるようになりました。一等星ベガは他の一等星とともに夏の第三角形を形成します。

7月7日は梅雨の時期なので雨の日が多く、七夕に降る雨を「酒涙雨・さいるいう」といい、織姫と彦星が流す涙と伝えられています。

祭りは7月6日の夜、つまり7月7日早朝に行われます。殆どの神事は「夜明けの晩」=午前1時に行われるのが常です。午前1時頃には天頂付近に主要な星々が上り、天の川・牽牛星・織女星が最も見ごろになる時間帯です。

短冊に願い事を書き、葉竹に飾ることが一般的で、この風習は江戸時代から始まったもので日本独特のものです。因みに織姫と彦星が願いを叶えてくれるわけではありません。短冊に書く願い事は「手習い事の上達祈願」が本当です。

五色の短冊」は、陰陽五行説の五色で、青・赤・黄・白・黒の5色です。中国では短冊ではなく、五色の糸を吊るします。海の近くでは、短冊を飾った笹を7月6日に飾り、翌7日に海に流すなどの風習もあります
130627_21.jpg
◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
東日本大震災で「東北三大祭り:七夕・竿灯・ねぷた」が脚光を浴びました。以後は三大祭りが拡張して「東北六魂祭り」として互いに励ましあっています。

思い起こせば明治維新のとき、徳川幕府に忠誠を尽くし、奥州同盟と称して新政府に叛旗翻していた東北の各藩は、東日本大震災でまた一致団結したようです。新政府は当時の会津藩を他藩の見せしめの為に、完膚なきまで叩き潰し、幼少の子孫まで自害に追い込みました。奇しくも事故のあった福島原発が会津藩のある福島県とは何かの因果怨念でしょうか。

体調管理の難しい時期です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月9~16日「京都、清水寺 千日詣り」です。■
120730_45.jpg清水寺:きよみずでら」は、広隆寺鞍馬寺とともに平安京遷都以前からの歴史がある寺院です。山号を音羽山と称し、本尊は千手観音、開基は延鎮法相宗(南都六宗の1つ)。
 
宝亀9年(778)大和国子島寺の僧・延鎮上人が、夢告で霊泉を訪ね、辿りついたのは音羽山でした。この山で数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者が「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い去ってしまいました。延鎮上人は行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置したのが清水寺のはじまりと伝わります。
 
120730_46.jpg清水寺は、源氏物語・枕草子・更級日記・梁塵秘抄などの古典文学に登場し、平安時代にはすでに多くの参詣者を集めていました。京都では珍しい法相宗の寺院です。現在の本堂は、寛永10年(1633)徳川家光の寄進により再建されたもので「清水の舞台」で知られます。
 
思い切って決断することを「清水の舞台から飛び降りた...」と言いますが、実際に飛び降りた人もいたそうで、生存率は85%とか。観音の住むという「補陀洛浄土へ旅立とう」ということです。
 
110807_12.jpg千日詣り」は観音の最大功徳日で、一日参れば千日参ったのと同じ御利益があるといわれています。先祖の供養に献灯してお参りします。14~16日は先祖供養法要が行われ、夜の特別拝観も行なわれます。
 
清水寺
◇京都府京都市東山区清水1-294
◇JR「京都駅」バス15分「五条坂」徒歩10分
◇公式HP
http://www.kiyomizudera.or.jp/
※期間中は夜間拝観の期間中です。

■8月7~13日天下の奇祭「下関 忌宮数方庭祭」です。■
120730_43.jpg長門の國二ノ宮「忌宮神社:いみやじんじゃ」は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祀り、「豊浦宮」「忌宮」「豊明宮」と三殿別立の式内社では古社で旧社格は国幣小社。

忌宮神社」は、第14代仲哀天皇が九州の豪族「熊襲」ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興して仲哀天皇2年(193)仲哀天皇が豪族熊襲を鎮圧し平定の折り、7年間滞在した旧趾です。

仲哀天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出しましたが、1年で崩御せられたので、時の神功皇后は天皇の喪を秘して、豊浦宮の重臣武内宿禰に御遺骸を奉じました。現在の長府侍町土肥山に仮埋葬しました。

そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を後ろで煽動していた「新羅」征討をご決行みごとご凱旋しました。社伝には、天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后自らが三韓征伐からの帰途に、豊浦宮の跡に祀ったことが始まりとあります。

120801_33.jpg「数方庭祭:すほうていまつり」は、仲哀天皇6年(197)朝鮮半島より攻めてきた敵の塵輪を、仲哀天皇自ら弓を取って討ち倒し、戦勝を祝って塵輪の屍の周りで踊りまわったことから始まったと伝わります。毎年8月7日から1週間行なわれます。「天下の奇祭」と呼ばれています。

数方庭祭は、山口県無形民族文化財として広く知られております。期間中は、毎夜長府の七時より九時半頃まで、数方庭の神事が行われます。太鼓の音に合わせ気勢を上げた後、幟、切籠(きりこ)が加わり中心の鬼石を廻って、「チャンコホイホイドンパッパッ」のリズムも軽やかに、初めは優雅に次第に勇壮に盛り上がっていきます。

お囃子『旗ささげ我も踊らん若かれば 神の御庭に昔しのびて

とあるように、時間が経つと老若男女が心をはずませ、天下の奇祭・数方庭は興奮のるつぼの中に入っていくのです。

忌宮神社
◇山口県下関市長府宮の内1-18
◇城下町:長府バス停より徒歩5分
◇公式Web
http://www.iminomiya-jinjya.com/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
天下の奇祭と有りますが、発祥がユニークです。仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪(新羅)を討ち、熊襲(地方豪族)を撃退しました。戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったのが「数方庭祭」の起源と伝わります。
と社史にあるように天皇自ら弓矢を取って闘ったようです。
今年は例年になく熱帯夜、真夏日が続いています。お出かけの際には、暑さ対策を忘れずになさってください。
皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

◆二十四節季◆平成28年8月7日立秋です。◆
140801_21.jpg8月7
日10時53分「立秋」です。

旧暦7月、申(さる)の月の正節で、天文学的には太陽が黄経135度の点を通過するときをいいます。
この日から暦の上では「秋」になりますが、まだまだ残暑の厳しいく、平均気温はこの頃にピークに達します。一年の中で最も暑い時期といえます。

暦の上で立秋になっても暑い日が続きます。空を見上げると、秋の「巻雲」が、心なしか高いところに見え始めます。見上げれば、以前より空が少しづつ高くなったと感じるようになり、雲の色や形、風のそよぎに「秋の気配」が感じられるようになります。公園や林でひぐらしが鳴き始め、山間部など内陸では霧が発生することがあります。

ヒグラシは、早朝と夕方に鳴きますが、薄暗い日中に鳴くこともあります。「カナカナ...」と鳴くことから、カナカナとも呼ばれます。

110803_12.jpg秋は移動性高気圧に覆われる日が多く、日中晴れて風の強い夜には「放射冷却現象」よる霧が発生します。気温が下がれば空気中の水蒸気が結露し始め、霧が発生します。霧は秋の季節の風物詩といえます。

立秋」は「秋立つ」「秋来る」などとともに、秋の代表的な季語になっています。この日より夏の便りは「暑中見舞い」から「残暑見舞い」になります。

・「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」暦便覧
・「夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く」正岡子規
・「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は來にけり」古今和歌集
 
◆真夏日◆日中の最高気温が30度を超えた日が真夏日です。蒸し暑く、多くの人が不快感を感じる気温です。近年では、群馬県館林市や埼玉県熊谷市など内陸部や盆地で最高気温の更新が続いています。
◆熱帯夜◆最低気温が25度以上ある夜が熱帯夜で、とても蒸し暑く、就寝しても不快感を感じて深い睡眠がとれないことがあります。

◆◆「七十二侯」◆◆
◆初候「涼風至」(りょうふう いたる)
 ◇涼しい風が立ち始める時節。
◆次候「寒蝉鳴」(かんせん なく)
 ◇ひぐらしが鳴き始める時節。 寒蝉=ひぐらし。また、秋に鳴く虫をいいます。「かんぜん」とも読みます。
◆末候「蒙霧升降」(もうむ しょうごう)
 ◇深い霧がまとわりつくように立ち込める時節。蒙霧=もうもうと立ち込める霧。

120730_36.jpg◆◆「8月の花」◆◆
向日葵」ひまわり・Sunflower 菊科・ひまわり属
 
学名「Helianthus」(ヘリアンサス)ギリシャ語の「helios(太陽)+anthos(花)」が語源。「太陽の花」の意。
 
原産地は北アメリカ。紀元前からインディアンの食用作物として使われていました。日本には、17世紀に伝来。開花時期7月10~9月10頃。
 
花の形は太陽を思わせ、太陽の動きにつれて回ることから「日まわり」と呼ばれますが、花首の柔らかい頃にだけ日中太陽の方向を追います。
 
花首は、夕方には西を向いていますが、夜には向きを戻し、夜明け前には再び東を向きます。花が完全に咲いてからは、東の方向を向いたままほとんど動かなくなります。
 
大きな一つの花のように見えますが、「頭状花序」と呼ばれ、多数の花が集まって一つの花の形を作っています。これは「キク科の植物」に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶ場合もあります。
 
別名は、「日輪草:にちりんそう」「日車:ひぐるま」など。種は長楕円形。種皮色は油料用品種が黒色で、食用や観賞用品種には長軸方向に黒と白の縞模様があります。種は絞って「ヒマワリ油」として利用されます。ヒマワリ油には「不飽和脂肪酸」が多く含まれます。
 
種子を煎って食用とすることも。また、ペットの餌に利用されます。近年、ディーゼルエンジン用燃料(バイオディーゼル)として利用する研究も進められています。乾燥した種子を用いる生薬名は「向日葵子:ひゅうがあおいし」。
 
花言葉は、「私はあなただけを見つめる」「あなたは素晴らしい」など。

◇ ◇ ◇ 編集後記 ◇ ◇ ◇ 
今年は猛暑の天気予報で梅雨が明けると蒸し暑い日が続いています。

近年の集中豪雨や局地的な豪雨が頻発して、首都圏を始め西日本、九州地方で被害が出ました。夏休みに入り水の事故が多発しています。くれぐれもご注意を!

暦の上では「立秋」でこれから秋になります。暑中のご挨拶は立秋から、残暑お見舞いになります。夏バテで体調を崩しやすい季節です。

皆さま、体が資本です。
体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■8月7日「東京佃祭」です。■
「佃祭:つください」は、佃島の鎮守「住吉神社」の例大祭で、3年に1度行なわれます。

120730_33.jpg佃島(つくだじま)は、隅田川の河口に浮かんでいた小島でしたが、徳川家康が関東に下降の際、攝津の国佃村から漁民を呼び寄せてここに住まわせてから江戸市中に海産物を供給する漁村として発展しました。漁民達はこの島を「佃島」と呼び、故郷の「住吉神社」を勧請して島内に祀り鎮守さまとしました。

家康は漁民に「漁業権」を与え、その代わりに取った魚の一部を献上させました。この佃の漁民によって、築地魚河岸に移転する前の「日本橋魚河岸」の基礎が出来ました。

佃島の祭は、徳川四代将軍家綱の誕生を祝って始められたと伝わります。明治以降、島の周囲が次々と大規模開発が進められ、近年では超高層ビル群ともなっています。

120801_31.jpg落語「佃祭」の噺は、「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」というような事を言いますが、なかなか人に情けをかけるのは難しいものでございます...と、始まります。

お玉ヶ池で小間物屋を営む次郎兵衛は、佃島の住吉神社の祭りを見物に出かけ、しまい船に乗りかけると、女に袖を引かれ乗らずに留められました。そして、乗ろうとしたしまい船は、なんと沈んでしまいます。

その女は「3年前に5両のお金をなくして吾妻橋から身を投げようとしていた若い娘を助け、5両のお金を恵んでくれたのをご存知でしたか?」と尋ねました。

その時、娘は助けてくれた次郎兵衛の住まいも名前も聞いていないので、後で礼の行きようがありません。しかし、娘はその恩を忘れてはいませんでした。次郎兵衛は思い出し、その女の家に呼ばれ、その連れ合いからもご馳走になります。

次郎兵衛の帰りを待つ家では、船が沈んで次郎兵衛が死んだというので弔いが始まってしまいます。その悔やみの口上がたまらなく面白いのですが...話しが逸れました。

120730_35.jpg「住吉神社」は、正保3年(1646)住吉大社の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として崇敬されました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、地域の産土神として信仰されています。

住吉神社の例大祭「佃祭り」は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至ります。平成22年は鎮座360年記念例大祭でした。

住吉神社
◇東京都中央区佃1-1-14
◇東京メトロ:有楽町線・都営大江戸線「月島駅」徒歩5分
◇公式Web
http://www.sumiyoshijinja.or.jp/sumiyoshi.html

■8月7日「木曽御嶽教 御神火祭」です。■
120730_37.jpg木曽の御嶽さん有名な「御嶽教:おんたけきょう」は、御嶽山を信仰根本道場とする教派神道で、神道十三派の一つ。創始者は下山応助。奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く。信者は約50万人。御嶽登拝の安全を祈願するための神殿「木曽大教殿」(長野県木曽郡木曽町)があります。
 
御嶽山は有名な霊山の一つで、信仰登山の歴史は古く大宝2年(702)役の小角の開山に始まるといわれています。一般では、天明5年(1785)に「覚明行者」が黒沢口登山道を、寛政4年(1792)に「普寛行者」が王滝口登山道を開闢し登山するようになりました。
 
120730_38.jpg御嶽大神」を崇拝する信仰者が集団結合し、明治15年(1882)に立教独立。「御嶽教経典」「御嶽教神拝詞集」「御嶽教信仰規範」を経典としています。
 
拝峰では、白装束に身を包み、六根清浄を身に修めて大地の恵みの母なる体内をめぐり、生まれ変わりを行とします。己を振り返り、再生を行の根本とする道場でもあります。
 
祭神に「国常立尊」「大己貴命」「少彦名命」の三柱を「御嶽大神」として祀り、御嶽山開闢の「覚明」「普寛」の二霊神を崇敬神「開山霊神」として祀ります。また、天神地祇八百万神を配祀神としています。
 
120730_39.jpg御岳教大御神火祭」は、木曽御嶽山の山中に於いて毎年8月7日の子の刻から8日の丑満つ時まで行なわれます。全国から御岳教信者が集い、松明行列ののち、祈願斎木百万を3つの大きな輪に積み重ね、祈願の中で焚き上げる猛火の大祈祷が執り行われます。
 
開催地
◇御嶽山四合目「銀河村キャンプ場」長野県木曽郡王滝村御岳高原4合目
◇長野道「塩尻IC」130分
◇中央道「中津川IC」140分
◇JR中央本線「木曽福島駅」バス50分~徒歩50分
 
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年、8月の風物詩として「木曽の火祭り」が報じられます。
ほら貝を吹きながら行者が先頭に立ち、火の残った炭の中を、素足で歩き清めるといった姿が放映され、御嶽教の荒行が紹介されます。
火祭りは
旧盆の頃でお盆の迎え火と重なります。
御嶽山は朝夕が冷え込みます。お出かけの際には一枚余分にお持ち下さい。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月6日「広島平和記念日」です。■
120730_30.jpg昭和20年(1945)8月6日午前8時15分17秒、米軍B29爆撃機「エラノ・ゲイ」が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下し、一瞬にして市街を全滅させ、市民を殺戮しました。
 
アメリカ原爆開発「マンハッタン計画」の提案者は、アルバート・アインシュタインとレオ・シラード、その責任者はロバート・オッペンハイマーです。
 
当初の計画では、ナチスドイツに対抗するために開発されていましたが、製造途中でドイツが降伏してしまったために、ターゲットを日本に変更しました。アメリカ大統領のトルーマンは、原爆投下まで日本を降伏させるな。との指示を出していました。日本の都市に投下することで原爆の威力を実証したかったのです。
 
120730_31.jpg広島が選ばれた理由は、軍事施設などが集中していた事に加え、都市の大きさや地形が、原爆の破壊力を実験するのにちょうど良く、投下後の効果を確認しやすかったからです。
 
昭和22年(1947)以来、毎年8月6日に市長による「平和宣言」、広島市の子供代表の「平和の誓い」が述べられ、世界平和への祈りが宣言されます。
 
130723_20.jpg原爆死没者の霊を慰め、世界の平和を祈念するため、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前に於いて、記念式典が行われます。(広島市原爆死没者慰霊式、平和記念式)当日は、原爆が投下された8時15分、平和の鐘やサイレンを鳴らして、1分間の黙祷を行います。
 
広島平和記念公園
◇広島県広島市中区中島町・大手町1丁目
◇JR「広島駅」から広電「広電江波・宮島口行」路面電車「原爆ドーム前」下車

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
アメリカの
オバマ大統領は平成28年5月27日、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花しました。オバマ大統領は現職のアメリカ大統領として、初めて被爆地・広島を訪問。

原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を表すとともにと「核なき世界」の実現に向けてスピーチをしました。原爆慰霊碑の献花には、安倍晋三首相が同席

風化していく大東亜戦争の記憶の中で、日本人なら忘れてはならない日です。原爆の実験のために広島が犠牲になった事実は忘れてはいけません。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月6~8日「仙台七夕」です。
120725_41.jpg東北三大祭りの一つ「仙台七夕:せんだいたなばた」は、五節句の一つ「七夕・しちせき」に因んで行われる祭りで、月遅れ8月7日を中心として8月6日から8日にかけて毎年行われています。
 
江戸時代初期、仙台藩の祖「伊達政宗」が、婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したところ、仙台で盛んな年中行事の一つになったとされています。
 
後に、荒廃した世俗の世直し目的に行われたり、不景気対策として商店街に七夕飾りを飾っての集客目的に行われ、七夕という風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントと変化しました。
 
大東亜戦争中は規模の縮小があったものの、昭和21年(1946)仙台空襲で焼け野原になった街に、52本の竹飾りで復活し、翌昭和22年(1947)昭和天皇巡幸の時には、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な七夕祭りが復活しました。
 
120725_42.jpg七夕祭りはもともと旧暦7月7日の行事で、6日の夕方から笹竹を飾り姫星と彦星を祭って、手習い事の上達を願う行事でした。笹竹飾りは8日の朝には川に流されていました。
 
その後、七夕祭りは商店街振興から観光イベントへと変貌していき、昭和45年(1970)から「動く七夕パレード」(星の宵まつり)が始まり、夜のイベントも加わりました。昭和58年(1983)からは、「夕涼みコンサート」も開かれるようになり、全国から訪れる昼、夜も観光客を楽しませてくれます。

七夕飾りの目玉のひとつに、大きな「くす玉」がありますが、考案者の森権五郎さん宅の庭に咲く美しい「ダリアの花」がヒントなのだそうです。吹き流しとともに飾りの主流になっています。
 
七夕節に飾り付ける「七夕飾り」にはそれぞれ意味があります。陰陽五行説から発する「5色の短冊」は「学問や書の上達を願う」もの。「紙衣」は「病や災いの身代わり」または「裁縫の上達祈願」。多数の折鶴は「長寿」を願い、巾着は「富貴と貯蓄、商売繁盛」を。投網は「豊漁祈願」、屑篭には飾り付けを作るとき出た裁ち屑や紙屑を入れ「清潔と倹約」を願い、吹き流しは「織姫の織り糸」を象徴しています。

120726_10.jpg※参考ブログ※
「七夕(たなばた)」「織女・夏彦、七夕物語」です。
http://www.kisetsunootayori.com/03/23-07-07-2.html

仙台市都心部の一番町、中央通りなどのアーケード街、仙台駅を中心に、市内各地で大小様々な七夕飾りが飾られ、工夫を凝らした七夕飾りはその華麗さを競います。前夜祭「七夕花火祭」から合わせて毎年2百万人の人出で賑わいます。
 
8月5日 仙台七夕花火祭
6~8日 仙台七夕まつり
 
開催場所
◇宮城県仙台市
◇仙台内中心部各商店街・周辺商店街他
◇JR東日本「あおば通駅」「仙台駅」
 
※お問い合わせ※
仙台七夕まつり協賛会 TEL 022-265-8185
公式サイト
http://www.sendaitanabata.com/


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
平成23年東日本大震災発生当初は、青森ねぶた、仙台七夕など東北の夏祭りは、縮小か中止または延期との声に負けず、行方不明者を含めた被災者の鎮魂の意味を込めて、祭礼が開催される運びになりました。
七夕飾りの願事を書く短冊の色は、「陰陽五行説」からです。それに七夕伝説が、加わり今日の「七夕」の形になりました。今年は震災復興途中で、頑張っている方々を励ます祭礼です。
例年多数の観光客で賑わう仙台七夕祭りです。観光にお出かけの際には熱中症の予防をなさってください。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月6日「庚申(こうしん)」です。■
110225_17.jpg「庚申:かのえさる・こうしん」は、「庚申待ち:こうしんまち」、「宵庚申:よいごうしん」、「庚申祭:こうしんさい」などを総称していう言葉。干支の組み合わせ57番目。八専の9番目。年に6~7回あります。

五行説では「庚:かのえ・こう」は「陽の金」、「申:さる・しん」も「陽の金」性であることから、この日は「金気」が重なって天地に充満して冷ややかになり、人心が冷酷になり易いとされます。

昔は「天地万物の気、庚申の日に変革される」と思われていて、最も重要な忌日でした。
また、庚申に続く「辛酉:かのととり・しんゆう」も金が重なる日で、さらに陰の金が重なるので冷ややかさを一層増すというのです。

このことから「庚申」「辛酉」の年はおおいに忌(い)まわれ、政治的変革が起こることを防ぐために2年続けて改元が行われることもありました。<例>万延元年(1860)文久元年(1861)など。

120811_30.jpg「庚申」はもともと中国の道教の伝説からきた禁忌(きんき)です。人間の体内には「三尸(さんし)の虫」が、頭と腹と足にいて、いつもその人の悪行を監視しています。60日ごとに巡る庚申の夜、人間の睡眠中を伺って体外に抜け出し、天に昇って天帝にその悪事を報告するという。そして、人間の命を短くするのです。

これをさせないために、庚申の晩は神々を祀り、酒盛りなどをして夜を徹しました。村の中心をなす家に集まり、祭祀をしたあとに会食を行いました。

禁忌(きんき):習慣的に禁止したり避けたりしていることそのものを指す。またはタブー

日本に伝わったのは、古く朱雀天皇の天慶2年(939)、または、文徳天皇のときに、智証大師が持ってきたものと伝わります。「枕草子」にも庚申待ちの話が登場します。江戸時代に入って民間で盛んに行われるようになり現在でも各地に「庚申塔」が残されています。

120212_15.jpg仏教では、庚申の本尊を「青面金剛:しょうめんこんごう」および「帝釈天:たいしゃくてん」に、神道では「猿田彦神:さるたひこのかみ=天狗さま」に結び付けています。

旧暦の月で選日を行うため、庚申の日は1年に5~7回あることになります。7回あるのを「七庚申」といって非常に喜びました。このことから庚申待ちの夜は「七色の菓子」を供えたり、七度線香をあげ、七回真言のお題目を唱えたりするようになりました。

また、申と猿が結び付いたことから、猿を庚申様の使いに見立て「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿信仰山王信仰」にもなっていきました。

さらに、申と「去る」が結び付いて、この日は結婚を忌む風習もありました。この夜に出来た子供は泥棒になるとか。この夜は男女の和合をしてはいけないなどとも言い伝えられています。

庚申の日は「帝釈天の縁日」になっています。


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
商品相場や株の世界では「庚申の逆張り」「庚申の曲がり角」などと縁起を担いでいます。
庚申の日まで良くても、その後はわからないとし、干支の上で金気と申が重なって予想の出来ない動きになるということです。
残念ながら、庚申は現代社会では迷信の域にはいってしまった暦日です。日々の戒めに謂われを振り返ってみることも日々の余裕の一つです。

今年の夏は当初の予報どおり暑い夏になりそうです。常にエコ心掛けを忘れないようにしたいところです。
お盆も終わり、8月下旬です。23日には「処暑」です。暑さもひと段落、晴れやかな気分になって、ちょっとした油断から体調を崩さないよう、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月5~7日「山形花笠祭」です。■
120725_39.jpg花笠まつり:はながさまつり」は、昭和38年(1963)蔵王の観光開発とPRを目的に「蔵王夏祭り」の「花笠音頭パレード」としてスタートしました。現在は東北三大祭りに加わり東北四大祭りの一つになっています。

花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は、大正中期に尾花沢で土木作業時の調子あわせに歌われた「土突き歌」が起源。昭和になってこれが民謡化され「花笠音頭」「花笠踊り唄」となりました。

120725_40.jpgヤッショ~マカショ!」の掛け声と花笠太鼓、統一された衣裳に、山形の花「紅花」をあしらった「花笠」を手にした踊り手のダイナミックな踊り、一糸乱れぬ集団美が醍醐味です。近年になって正調女踊りや正調男踊り、ダイナミックな笠回しをする創作踊りなど、多彩な踊りが観客を魅了します。

毎年8月5~7日の3日間開催されます。花笠音頭に合わせて約1万人の踊り手が華麗に市内を練り歩きます。ゴール地点近くでは、ミス花笠や、工夫を凝らした個性のある方々の飛び入りもOK!毎年3日間で100万人の人出で賑わいます。
 
開催地
◇山形県山形市七日町、十日町など
 
※お問い合わせ※
山形県花笠協議会事務局 TEL 023-642-8753
HPhttp://www.hanagasa.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
東日本大震災の次の年にはお盆が発祥の「盆踊り」と、震災被災者の鎮魂の意味が込められた花笠音頭でした。
今年は復興途中の方々を励ます祭礼になります。いまだ仮設住宅にお住まいの方がいるとの報道に、復興の道のりの険しさを感じます。
観光でお出かけの方は、熱中症対策をしてお出かけください。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月5日「新潟祭」です。■niigatamatsuria.png
「新潟まつり」は、大阪の住吉神社から御神体を勧請して創建された「湊元神社:つもとじんじゃ」で、享保11年(1726)「住吉行列」が行われたのが起源とされます。

後に行なわれるようになった商工祭・川開き・開港記念祭の4つの祭りを、昭和30年(1955)に統合したのが現在の「新潟まつり」です。毎年8月上旬の金・土・日曜日に行われます。

金曜日には万代橋を中心に日本最大級の「大民謡流し」、土曜日には「市民みこし」「水上みこし渡御」。日曜日には「大花火大会」が行なわれます。

120730_41.jpg※湊元神社は後に住吉神社に改められ、現在は新潟総鎮守の白山神社内に鎮座しています。

開催地
◇新潟県新潟市古町通り、万代シティー他
◇JR上越新幹線・信越本線「新潟駅」徒歩15分
◇北陸自動車道「新潟中央IC」新潟市街へ約15分
◇新潟祭りWeb:http://niigata-matsuri.com/
◇白山神社「住吉神社」:
http://www.niigatahakusanjinja.or.jp/

■8月4日「京都、北野天満宮 例祭(北野祭)」です。■
110803_14.jpg菅原道真を祀る「北野天満宮」は、国を鎮め守る神として「天神さん」「北野さん」と呼ばれ親しまれています。
 
旧社格は官幣中社。特に学問の神として知られ、多くの受験生らの信仰を集め、福岡県の太宰府天満宮とともに「天神信仰」の中心となっています。全国各地に勧請が行われています。
 
平安時代中期、多治比文子らによって北野の右近馬場菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まり。菅公は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しみ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。
 
120725_37.jpg※和魂漢才:わこんかんさい※
日本固有の精神と中国渡来の学問。日本固有の精神を失わないで、中国の学問を消化・活用するべきであるの意。
 
永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ました。8月4日は、一条天皇が初めて勅祭を斎行された日に当り「例大祭」が行なわれます。農耕の神として神徳あらたかとして、氏子の西ノ京の農家が丹精込めて作った夏野菜を奉納し感謝の祈りを捧げます。
 
120801_30.jpg北野天満宮
◇京都府京都市上京区馬喰町
◇JR「京都駅」バス「北野天満宮前」すぐ
◇名神高速道路「南IC」又は「東IC」より約30分
◇公式サイト
http://kitanotenmangu.or.jp/


◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
公式サイトの8月例祭の解説には、「永延元年(987)に一条天皇が初めて勅祭を斎行された日に当り、当宮で最も大切な祭典。かつては勅使が参向した。又、当宮は農耕の神として神徳あらたかなので氏子の西ノ京の農家が丹精込めて作った夏野菜を奉納し感謝の祈りを捧げる。」とあります。
987年から千年以上の続いて、感謝の気持ちを今日まで伝えているお祭りです。
今回、例祭の意味を知るに当たり、日頃の食事に対する無精を恥ずかしく感じます。皆様、今日からでも感謝の気持ちを表しましょう。
京都にお出かけの際には、熱中症対策をしてお出かけください。
お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月4日「久留米祭」です。■
120725_45.jpg水の祭典「久留米まつり」は、福岡県久留米市で行われる筑後地区最大の夏祭りです。市民のまつりとして、また筑後の風物詩として定着し、今年で38回目を迎えます。パワーストリート、パレード、仮装行列、時代行列太鼓響演会などが行われます。

昭和22年(1947)に行われた久留米市復興祭が久留米まつりの始まりです。パレードでは、神輿を担いで水をかけられながら氏子社中を練り歩き、夜には久留米の伝統的芸能でもある「そろばん総踊り」が披露されます。最終日には、筑後川花火大会が行われます。

120725_46.jpg前夜祭8月3日六角堂広場 本祭8月4日 筑後川花火大会8月5日

開催地
◇福岡県久留米市
◇久留米市日吉町明治通りお祭り広場全域
◇西鉄「久留米駅」徒歩5分
◇公式Web:http://kurume-matsuri.info/index.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
大東亜戦争の荒廃から、立ち直ろうと企画された祭礼が、各地に姿を変えて残っています。
久留米祭りもそのひとつでしょう。毎年の祭礼のたびに、街が復興してい行った姿は、頼もしかったに違いありません。

お出かけの際には熱射病にご注意下さい。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月4日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

120125_15.jpg一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
「一粒万倍日」は、建前、決断、契約、旅立ち、の他に手習い、開店、事始めには最適の日です。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月3日「多賀大社 萬燈祭」です。■
120725_31.jpg滋賀県多賀町に鎮座する「多賀大社:たがたいしゃ」は式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。古くから「お多賀さん」として親しまれています。「お多賀杓子」と称したお守り(杓子)を授ける慣わしがあります。
 
明応3年(1494)「神宮寺」として不動院を建立。中・近世には「伊勢」「熊野」とともに庶民の参詣で賑わいました。「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡も。
 
120725_32.jpg神宮寺:じんぐうじ」とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことです。明治になるまでは「神仏混合」に基づいて大方の神社境内にはお寺がありました。
 
「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大御神が、伊邪那岐命、伊邪那美命両神の御子であることを指します。古くより延命長寿・縁結びの神として全国的な信仰を集め、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が厚く崇敬されました。
 
110730_12.jpg御祭神は「伊邪那岐大神:いざなぎのおおかみ」、「伊邪那美大神:いざなみのおおかみ」。

明治4年(1871)県社兼郷社、明治18年(1885)官幣中社に、大正3年(1914)官幣大社に昇格。昭和22年「多賀神社」から「多賀大社」に改称しました。
 
8月3~5日「万灯祭」が行なわれます。湖国夏の風物詩で、境内に文字通り「万余の提灯」が灯されます。黄泉の国(よみのくに=死後の世界)に移り、幽世の大神となられ、人々の祖先の御霊をお護りくださるという伊邪那美大神に「感謝の献灯」を捧げます。
 
多賀大社
◇滋賀県犬上郡多賀町多賀604
◇近江鉄道「多賀大社前駅」徒歩12分
◇JR琵琶湖線「彦根駅」バス10分
◇名神高速「彦根IC」~
◇公式Web
http://www.tagataisya.or.jp/info/mantou/index.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
萬燈祭はお盆の迎え火が変化したものとの説があります。旧暦でのお盆、8月盆の近い時期です。
旧暦では12日が迎え火でお盆に入ります。「一燈照隅 萬燈照國」お盆の時期に叫ばれます。先祖に恥じない生き方をしたいものです。

この時期暴飲暴食で体調を崩すやすいです。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■8月3日「秋田竿灯」です。■
110730_11.jpg竿燈:かんとう」とは、豊作祈願とねぶり流し(不浄を祓い悪霊から身を守る)行事が結びついた禊(みそぎ)の行事で、秋田竿灯が現在の形になったのは江戸時代からです。
 
ねぶり流しは、五穀豊饒や技芸上達を願う七夕とともに、旧暦7月15日のお盆を迎えるための一連の行事で、「迎え火」とも言われています。厄除け、禊祓いから五穀豊穣などを願う現在の竿燈の形が除々に出来上がっていきました。
 
竿燈は、六間程の長い竹竿に九本の横竹を結び、これに46個または48個の提灯を数段に分けて吊り下げたものです。
 
竿燈全体を稲穂に、提灯を米俵に見立て額や腰や肩などにのせ、豊作を祈願します。竿燈の重さは約60㎏にもなるそうです。
 
120725_33.jpg半纏・股引姿の差し手若衆が持ち、笛太鼓のお囃子と「どっこいしょ」の掛け声に合わせて、額から肩、肩から腰へとバランスを取りながら擦り移し、妙技を競い合います。竿燈は200本以上、夜になるとまるで地上に降りてきた天の川のように幻想的。
 
竿燈祭は、毎年8月3~6日に行なわれます。青森「ねぶた」、山形「花笠」、仙台「七夕」と並んで、東北夏の四大祭りの一つに数えられ、重要無形民族文化財に指定されています。
 
開催場所
◇秋田県秋田市内
◇秋田県道26号「竿燈大通り」の「二丁目橋」交差点~「山王十字路」の区間。
◇JR奥羽本線(秋田新幹線)「秋田駅」徒歩10分
 
※お問い合わせ※
秋田市竿燈まつり実行委員会事務局 TEL 018-866-2112
竿灯公式Web:http://www.kantou.gr.jp/index.htm

■8月2~7日「青森ねぶた祭」です。■
120725_29.jpg東北三大祭りの一つ「ねぶた祭り」は、東北各地で行われる「眠り流し」などと共通の習俗で、七夕行事の一つです。国の重要無形民族文化財に指定。
 
秋の収穫を控えて、農作業の妨げとなる睡魔を払う禊祓い行事に、お盆の精霊送りが加わり、現在のような形態の祭りに発展していったと考えられています。
 
弘前市の祭りは「ねぷた」、青森市の祭りは「ねぶた」といいます。ねぶたは、木と竹と針金で枠を造り、それに紙を張った切子灯篭で、金魚形のものや扇形のもの、歴史上の人物を模った人形式のものなど、たくさんの種類があります。
 
連日、夕刻になるとこれに灯をともし、笛や太鼓の音とともに町中を練りまわします。独特の衣裳をまとった「ハネト」と呼ばれる踊り手が「ラッセラー」という掛け声で跳ねまわります。
 
110728_8.jpg起源は、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷
地に遠征した際、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたのが始まりです。

 
毎年、曜日に関わらず8月2~7日に開催されます。ねぶたの海上運行は2日3日に最終日7日は海上運行に花火大会も催されます。青森市内国道4号、新町通り、県庁通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースです。
 
日本の火祭り「青森ねぶた」は、毎年350万人を超える人出で賑わいます。

開催地

◇青森県青森市・JR「青森駅」前

※問い合わせ※
青森ねぶた祭実行委員会事務局 TEL 017-723-7211
オフシャルサイト:
http://www.nebuta.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
24年は東日本大震災の被災者の鎮魂が特に込められていて、歴史に残る祭礼でした。今では被災地東北6県を一つの魂だとして、「東北六魂祭」が企画されています。
残暑厳しい折です。お出かけの際には熱射病対策に飲料水を持ち歩きましょう。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

八木宏之プロフィール
セントラル総合研究所・八木宏之
株式会社セントラル総合研究所
代表取締役社長

連帯保証人制度見直し協議会発起人。NPO法人自殺対策支援センターLIFE LINK賛同者。
平成8年、経営者への財務アドバイスなどの経験を活かし、事業再生専門コンサルティング会社を設立。以来14年間、中小企業の「事業再生と敗者復活」を掲げ、9000件近い相談に応えてきました。
事業再生に関わる著書も多く出版。平成22年5月『たかが赤字でくよくよするな!』(大和書房)など多く出版。平成14年、『借りたカネは返すな!』(アスコム)はシリーズ55万部を記録しました。
著書の紹介はこちらから。

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