二十四節気は1年を24の節に分け、節気ごとに命名して気候の変化、推移を知り、社会や生活の中で季節感を役立てるものです。

10月のお便り

10月31日「ハロウィーン」です。■
11月1日はキリスト教のすべての聖人の祝日「万聖節」=「オール・ハロゥズ」(All Hallows)です。この前夜祭として行われる祭りが「ハロウィーン」(Halloween) です。
 
111028_1.jpgケルト人(中央アジアからヨーロッパに渡来)の1年の終りは10月31日。この夜は、死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられ、これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いて過ごします。
 
601年に法王1世が時の宣教師に、ケルト人へキリスト教改宗の策として「ケルト人の信仰から来る法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさい。このように広めなさい」と言ったのがハロウィーンになったきっかけです。
 
墓参し、蝋燭をつけるという地方もあり、墓地全体が大きなランタンのように明々と輝くさまは、日本の盆迎え火や送り火にも似ています。
 
アメリカでは、クリスマスに次ぐ大イベントで、かぼちゃをくり抜いたランタンを作り、魔女やお化けに変装した子供達が「ご馳走しないと悪戯するぞ」などと言いながら家々を回ってお菓子をもらいます。
 
121028_20.jpgハロウィーンのシンボル「かぼちゃのお化け=ジャック・オー・ランタン」は、アイルランドに住む酒飲みのジャックという名の男の話に由来。ジャックは悪魔を騙して酒代を作ったり、木の上から降りれないようにして悪魔に悪戯していました。
 
ジャックは死んだ後も天国でもイタズラしたり酒を飲んでいて天国を追放されてしまいます。地獄に行くと今度は悪魔がいて、地獄にも入れてもらえません。天国でも地獄でもない暗闇を彷徨う事になってしまったジャックは、悪魔にもらった火の塊りを、カブの中に入れて提灯を作り、それを明かりにして今も彷徨っているのだそうです。アメリカでは、かぼちゃがたくさん採れたので、かぼちゃ提灯になりました。かぼちゃの顔はドクロがモデルです。
 
お化けに変装するのは、家の周りにいる悪霊をビックリさせるためです。いわゆる魔除けですが、いつの間にか子供達が仮装して近所の人を脅してお菓子をねだります。決まり文句は「Trick or treat!」(何かくれないと悪戯するぞ!)
 
■10月31日「世界勤倹デー」です。■
141027_24.jpg大正13
1924)10月31日、イタリアのミラノで開催されていた国際貯蓄会議の最終日に、この日を「世界勤倹デー」とすることが採択されました。
日本では、昭和27年(1952)に加わって、10月30日を「世界倹約デー」としました。
  
 戦後の高度経済成長の中で、まるで消費をすることが美徳のような感じにさえなった現代に、「勤倹:きんけん」などと言う言葉は忘れかけていた懐かしい言葉のような気さえします。
「勤倹」とは、勤勉で倹約につとめるさまをいい、「勤倹貯蓄」などといった使い方をします。
「倹約:けんやく」はかつての大量生産・大量消費、更には昭和末期から平成初期のバブルの時代には、ほとんど死語になっていました。

しかしバブル崩壊後の失われた20年と呼ばれた長期不況のなかでは、地球規模の環境の問題が叫ばれ、再び「節約」や「倹約」が一つの流行になったように思えます。
特に平成23年(2011)の東日本大震災からは、全国的に夏の「節電」「省エネ」が当たり前になっています。
蛍光灯から消費電力の少ないLED照明や、ハイブリッド車の普及など省エネが一般化して現在に至っています。
141027_25.jpg「勤倹」や「倹約」という言葉からはさまざまなイメージされますが、「貯金」もそのひとつです。私たち日本人は、「勤倹」の名のもと世界でも貯金の好きな国民であることは良く知られています。
その目的はいったい何でしょうか。 一つには大きな買物、旅行、結婚、といったような、使い道と金額がはっきりしたものがあります。子供の教育・結婚資金、自分自身の老後のための資金などもその一つといえましょう。

 
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もう一つは「万一の時のため」というもので、病気、事故、災害といった予期せぬ出来事に備えるためです。これは必要になる金額も時期もハッキリしません。起ってみないと解らないものです。
そのほかにも「貯金が目的で増えてゆくことが楽しみ」という方々もいますが、これは1つの趣味の範囲ともとれます。

◇◇◇編集後記◇◇◇

大正時代に制定された「世界勤倹デー」です。
今日では、勤倹デーは推進する団体もなく存在も一般的ではありません。あえて言えば「ゆうちょ銀行」の前身の郵政省でしょう。日本は無資源国です。しかも耕地も狭く国土の8割が山間部で、豊かになるには圧倒的に不利な国土です。
この国が繁栄するには勤倹、倹約、節約、省エネといった事が一人一人に根差してなければ、今の繁栄は続かない事でしょう。 今日を機会に倹約について近隣の方々話し合ってみましょう。
筆者敬白

■10月30日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
10月節の「一粒万倍日」です。暦の上では、二十四節気「霜降」を過ぎ、秋の気配が本格化してきました。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月29日~「十方暮れ入り」です。
110324_12.jpg十方暮れ:じっぽうぐれ・じゅっぽうぐれ」とは、干支を五行に配当したときに「上下互いに尅(こく)する」干支「甲申~癸巳」までの10日間のことをいいます。但し、丙戌と己丑の日は間日(まび)になります。
今回の十方暮れは10月29日~11月7日までです。

10月29日 甲申=金尅木 
10月30日 乙酉=金尅木
10月31日 丙戌=火生土(間日)
11月01日 丁亥=水尅火 
11月02日 戊子=土尅水 
11月03日 己丑=土和土(間日)
11月04日 庚寅=金尅木 
11月05日 辛卯=金尅木 
11月06日 壬辰=土尅水 
11月07日 癸巳=水尅火


120712_64.jpg十方暮れの「十方」とは、「天地八方」を指します。四正(しせい)方位「東西南北」と、四隅(しぐう)方位「南東・南西・北西・北東」の八方位に「天地」を合わせた十方位のことです。または「十方世界」ともいい私たちが右往左往する現実の世界、すべての方角に無限に存在する世界の全部のことを示します。
 
この十方が「四方八方閉ざされた状態」を「十方暮れ」といい、旧暦の解説書には「途方に暮れるの語呂合わせ」と書かれています。または「十方暗」「十方闇」ともいいます。
 
それにしても、やはり「とほうくれ」と読みたくなるほど、うまくいかなく「途方に暮れる」期間なのでしょう。十方が暗い(暮)ので、天気が良くない日が続きます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「十方ぐれ」は発祥は定かではありませんが、五行説では干支の組み合わせから「相性の合わない日」とされています。この時期、雨が降っても大したことなく、降りそうで降らない曇りがちの(すっきりしない)天気
が続きます。転じて暗雲(問題)が立ち込めているが雨(解決)が降らないという中途半端な状態です。
これは、十方(方位八方向に上と下を合わせて十方)の気が塞がっていて、何の相談ごとも解決出来ない期間とされています。

せっかちさから、業を煮やして事を起こしても逆効果です。解決どころか反対に、こじらせて損失を招く恐れがあります。このような時期には、慌てずに「過ぎるを待つ」のが最大の解決方法です。
筆者敬白

■10月29日「福岡、香椎宮 秋季例祭」です。■
131015_23.jpg香椎宮:かしいぐう」は、仲哀天皇9年(200)神功皇后が自ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源と伝わります。四柱の御神体である仲哀天皇神功皇后応神天皇住吉大神を御祭神として祀ります。

「香椎」の名は、敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来。香椎廟。香椎神宮と呼ばれることも。

養老7年(723)神功皇后自身の神託により、朝廷が社殿の造営を始め、翌年の神亀元年に竣工されました。この2つの廟をもって「香椎廟」とします。延喜式神名帳の記載はありませんが、日本書紀の続編とされる「続日本紀」などには香椎廟・香椎宮・樫日廟などが書かれています。

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明治時代に官幣大社となり、終戦までは勅祭社に指定され、現在でも十年に一度「吉日」を選定し、宮内庁より勅使が遣わされています。皇室の崇敬篤く本朝四所の一つに数えられ、神功皇后自らが植えられたという御神木は「ちはやふる香椎の宮のあや杉は神のみそきにたてる成けり」(新古今和歌集)と詠まれた老木です。

香椎宮境内には「不老水」が湧くことでも有名です。

「秋季例祭」は、秋の神事で、雅楽や舞などが奉納されます。

香椎宮
◇福岡県福岡市東区香椎4-16-1
◇JR「香椎神宮駅」徒歩3分
◇「福岡IC」~10分
◇参考ブログ
http://www.ne.jp/asahi/hayakawa/5633/page024.html
◇不老水参考http://www.ajkj.jp/ajkj/fukuoka/fukuoka/kanko/kasiigu/kasiigu_furosui.html

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◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
香椎宮には不老不死の「不老水」が湧く水源があります。由緒は武内宿禰(たけうちのすくね)が、この湧水を天皇陛下への料理に使い、普段の食事やお酒を作るのにこの水を使っていました。そのおかげか武内宿禰は300歳とも360歳ともいわれるほど長寿だったと伝わります。
湧水は本殿から300mほど住宅街を経て山の手に行ったところと案内があり、水源には祠が建てられています。
参詣の際には是非お持ち帰る下さい。取り決めで1人2リットルまでだそうです。
筆者敬白

■10月28日「速記記念日」です。■
121018_21.jpg「速記法」とは、話す言葉をそのまま記号化して書き取ってゆく手法のこと。会議や討論会などの記録を取る手段として考案された方法です。ヨーロッパでの歴史が古く、古代ギリシャ時代には既に使われていました。


日本で最初に速記文字を開発したのは、田鎖綱紀(たくさりこうき:1854~1938)「田鎖式」と呼ばれます。明治15年(1882)10月28日に日本橋の「小林茶亭」で速記法の講習会を開いたのを記念し「速記記念日」として定められました。


他に、早稲田式、中根式など速記の文字は現在80種類ほどあるといわれますが、速記法の検定では速記記録したものを一定時間内に反訳する正確度を問うもので、速記の方式は何でも構わない事になっています。


141027_23.jpg衆参両議院で使用されている速記は、それぞれ衆議院と参議院の速記者養成所で訓練を受けた後に試験に合格した人が行っています。第一回帝国議会から速記録が残されています。速記者は通常2名置き、発言のみでなく、ヤジや発言者の態度・様子なども同時に書き留めているそうです。


速記者は速記文字から通常文字への反訳の際、固有名詞や専門用語の調査、簡単な文法ミスの修正、不要な単語のカット、言い間違いの修正なども行います。この作業を「整文」といい、技術者の腕の見せ所です。


近年は技術者不足から次第に録音で記録し、後でテープ起こしを依頼するという方式に移行していく傾向が見られます。

■10月27日~11月9日「読書週間」です。■
141027_20.jpg読書週間(どくしょしゅうかん)とは、10月27日から11月9日までの2週間にわたり、読書を推進する行事が行われる期間のことです。

▼大正13年(1924)に日本図書館協会が11月17~23日までの「図書週間」を制定していました。
▼昭和8年(1933)には「図書館週間」と改称ました。この頃、出版界では「図書祭」が開催されていました。
▼昭和14年(1939)には大東亜戦争の影響で、「図書館週間」「図書祭」とも中止された経緯があります。
▼昭和22年(1947)終戦後、日本出版協会、日本図書館協会、取次ぎ・書店の流通組織、その他報道・文化関連団体30あまりが参加して「読書週間実行委員会」が結成され、11月17日から11月23日までの第1回「読書週間」が行われました。 
▼期間が一週間では惜しいという風潮の中で、2回目からは10月27日~11月9日までの文化の日を挟んだ2週間となり、「読書週間」は2週間で今日まで続いています。 
▼昭和34年(1959)11月に、読書週間実行委員会の任務を引き継いで「読書推進運動協議会」(読進協)が発足しました。

公益社団法人 読書推進運動協議会

昭和20年(1945)の終戦直後、戦後の食糧不足の中、食べるのもやっとという日々にもかかわらず、出版活動は活発に動き出していました。
民間でも読書欲は極めて高く、その機運を感じとった出版社・図書館・取次・書店・報道・文化関連各団体約30が「新生日本を文化国家に」との合い言葉のもと、1947年(昭和22年)に読書週間実行委員会を結成し、実施したのが現在の「読書週間」の始まりです。
終戦直後当時の反響は大きく「読書週間」は今日まで継続されています。
141027_21.jpg今までは、「読書週間」のたびに実行委員会を作っていたのでは、その期間だけの運動に終わってしまいます。そこで年間を通して読書運動を推進していく組織の必要性から、「読書週間実行委員会」を発展させ、日本書籍出版協会・日本雑誌協会・教科書協会・日本出版取次協会・日本書店商業組合連合会・日本図書館協会・全国学校図書館協議会の7団体の総意によって、読書推進運動協議会(読進協)昭和34年(1959)11月に設立されました。

その後、読書推進運動協議会は、昭和44年(1969)10月に社団法人に改組、平成25年(2013)4月に公益社団法人に移行しました。 公益社団法人 読書推進運動協議会では、国民的行事として定着した春の「こどもの読書週間」秋の「読書週間」を主催するだけでなく、「敬老の日読書のすすめ」「若い人に贈る読書のすすめ」など、年間を通じて読書運動を展開。読書普及について一般の関心と理解を深めるための活動を続けてきました。

 関連他団体と協力して、「子どもの読書推進会議」の活動を進めて子どもの読書啓蒙活動を展開。全国各都道府県の県立図書館を中心に、県内の読書運動の協力組織として各都道府県読進協の設置を推進、現在41の各都道府県の読進協と手を携えて事業を推進しています。

 
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布川角左衛門◆ 明治34年(1901)~平成8年(1996) 
昭和3年(1928)岩波書店に入社。1958年栗田出版販売(当時=栗田書店)取締役に就任。後に社長を務め、出版界で広く活躍された。

終戦直後の昭和22年(1947)に読書週間実行委員の一人として「読書週間」の発足に力を傾け、以来、読進協の発足時に常務理事・読書週間委員長、昭和44年(1969)に社団法人化して以来は理事として、読進協の活動の精神的支柱の役割を果たす。

 個人で収集した膨大な図書・資料の多く(約2万5千点)は国立国会図書館に寄贈され、現在「布川文庫」として公開されている。

◇◇◇編集後記◇◇◇

明治時代から読書の大切さを訴えてきた方々がいて、文化国家への努力の兆しがあったと思うと、現在の社会の形が明治時代から息づいていたのだとの感慨深い感傷を覚えます。あまり有名ではない団体の影の努力、すなわちたゆまぬ努力を知るいい機会かもしれません。
筆者敬白
   

■10月27日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■

一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

120125_15.jpg一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、多い割には見過ごされやすい歴注です。手習い、開店、事始めには最適の日です。
もうすぐ11月、季節は日に日に冬に向かっています。体調を崩しやすい時期です。
皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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■10月27日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。


江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■10月26日「宮崎 神宮例祭・ご神幸祭」です。■
121017_23.jpg宮崎神宮:みやざきじんぐう」は、神武天皇を祀る神社で「神武さま」と呼ばれ親しまれています。旧社名:宮崎神社、宮崎宮など。

筑紫を開拓した「健磐龍命:たけいわたつのみこと=神武天皇の孫」の創建。正確な造営時期や由緒は不明ですが、建久8年(1197)地元の地頭・土持太郎信綱により社殿が造営されたと伝わります。

神武天皇に対する崇敬により、歴代の領主から深い崇敬を集め、明治維新により神武天皇の最初の宮の地として重視されるようになりました。

明治31年(1898)「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から多くの寄付を集めて現在の社殿が整備され「宮崎神宮」と改称。社殿は、伊勢の神宮と同じ神明造です。

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10月29・30日は「宮崎神宮大祭」(神武天皇御降誕大祭会)で、崇敬者からは「神武さま」と呼ばれ親しまれています。

御神幸祭恒例の「神賑行列:しんしんぎょうれつ」には約1000人が参加。宮崎神宮から瀬頭の御旅所まで、神賑行列が練り歩く宮崎の恒例行事で、秋の風物詩となっています。沿道では多くの観光客をはじめ見物客で賑わいます。

宮崎神宮
◇宮崎県宮崎市神宮2-4-1
◇JR日豊本線「宮崎神宮駅」徒歩10分
◇公式HP
http://miyazakijingu.jp/

■10月26日「原子力の日」です。■
111017_6.jpg原子力」とは、原子核変換により得られるエネルギー(核エネルギー)のことです。または、そのエネルギーを得る方法のことをいいます。

原子核反応により発生するエネルギーは、石油石炭など化石燃料によるエネルギーに比べて桁違いに大きいものです。

昭和38年(1963)10月26日、茨城県東海村「日本原子力研究所」の動力試験炉が、原子力による発電に成功しました。また、昭和31年のこの日、国連の専門機関の一つである「国際原子力機関」に加盟したという日でもあり、これらを記念して「原子力の日」が設けられました。

原子力の利用目的には、「平和利用」および「軍事利用」があります。原子力の利用目的を平和利用に限るための国際機関としてIAEAがあります。

日本における原子力の研究開発及び利用は、「平和の目的に限定」し、民主的な運営のもとに自主的に行うもので、その成果を公開して国際協力に資するという原子力三原則があります。

原子力の平和利用とは核分裂や核融合で生じる「熱エネルギーの利用」のことを指します。平成6年6月現在で世界の30カ国または地域で原子力発電が行われ、日本では54基の原子力発電所が稼働し、日本の発電量の31.2%を原子力発電が占めるまでになっています。

原子力の平和利用のもう一つは「放射線」の利用。医療用のX線撮影は診断には欠かせない手段の一つとなっています。

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◇日本初の原発事故◇
平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で、四基の原子力発電所は、水素爆発からメルトダウンという痛ましい事故被害に遭いました。周辺30kmの方々は避難を余儀なくされています。平成24年当初は日本全国の原子力発電所が点検の為に停止しました。

なんと日本中にある54基全ての原発が停止したのです。翌平成24年(2012)福井の大飯原発が、関西圏の夏場の電力事情を理由に稼動を開始。その時点で原発事故調査が終わってなかった事から、大きな社会問題になりました。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
福島原発の事故以来、自然エネルギーのあり方が問われています。九州電力の川内原発が稼働しました。東日本大震災以来初の稼働です。
近年注目されている自然エネルギーは、これからの技術で、すぐに取って代われるものではありません。
社会が原子力に過敏になりすぎている点もありますが、技術革新には一定の理解と時間が必要です。
筆者敬白

■10月26日「天理教本部 秋季大祭」です。■
111017_7.jpg天理教:てんりきょう」とは、日本で江戸時代末に成立した新興宗教の一つで、中山みきを教祖(おやさま)とする宗教団体です。教祖は90歳で亡くなり、肉体としての身は隠しましたが、その魂は今でも現世に生きて人々の暮らしを見守っているという信仰があります。

天理教の教えでは、人間の命の発祥地の中心を「ぢば:地場」と称し、教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めています。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られ「おぢば」と呼ばれています。

人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるということから「おぢばがえり」と呼んでいます。天理駅や天理市内の信者詰所等には「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が立てられています。

120119_18.jpg奈良県天理市は、天理教とともに発展した町で、市内には天理教本部をはじめとした宗教施設が多く立地します。日本最古の山の辺の道が通じ、石上神社、長岳寺、大和神社など、由緒ある名刹に古墳など数多くの歴史資産が点在する古代史の里です。

天理市内にある「天理教本部」は、神殿周辺を中心に教化教育、宿泊、広報関係、医療関係など、数多くの施設が設置され、信者だけでなく一般の人々に開放している施設もあります。毎月の祭典日や週末には、大勢の参拝者で賑わいます。

天保9年(1838)10月26日に天理教の教えが始まった事にちなんで、毎年10月26日に秋季大祭が行われます。教祖を慕う多くの人々が、世界中から帰り集います。

天理教教会本部
◇奈良県天理市三島町271

■10月25日「伊賀、上野天神祭」です。■
111017_4.jpg上野天神宮」と呼ばれる(通称:お天神さん)菅原神社は、旧上野町六千戸の産土神として、また文学の祖神として、あるいは牛馬の守護神として崇敬される菅原道真公を主神とする神社です。

古く、上野山平楽寺の伽藍神で、農耕神祇に発祥する神々を祀る神社でしたが、天正9年(1581)天正伊賀乱の後、藤堂高虎の城下町建設の際に、伊賀上野と上野城の守護神としてこの地に奉遷されました。

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寛文12年(1672)1月、俳諧で身を立てることを決意した俳聖「芭蕉翁」が、その処女作「貝おほい」一巻を社前に奉納され、自らの文運を祈願しています。

毎年10月23~25日に行われる「上野天神祭」は、400数十年前に疫病が流行した際の「悪疫退散」を祈願して厄除けの鬼行列を行ったのが始まりと伝わります。

神輿の渡御に供奉する百数十体の鬼行列や、祭囃子を奏でながら、これに続く豪華絢爛な九基のだんじりに400年の伝統を伝えます。県の無形文化財に指定。

菅原神社(上野天満宮)
◇三重県伊賀市上野東町29
◇近鉄「上野市駅」徒歩5分
◇名阪国道「上野東IC」5分
◇伊賀上野天神祭り:
http://www.igaueno.net/maturi/tenjin/index.html
◇上野天満宮参考:http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/mie/igasi/ueno/ueno.html

■10月23日~10月29日「小犯土(こづち)」です。
120502_60.jpg明日から小犯土です。小犯土は大犯土の7日間に8日目の間日を経たあと9~15日目の7日間を指します。この期間を犯土として前半を大犯土、後半を小犯土としました。

◇期間中慎む作業◇
「犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。
特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

110311_15.jpg◇木々の低調な時期◇
野山の木々にも活発な時期と低調な時期があります。大犯土・小犯土期間中は、木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。 除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。科学的な根拠の有無は別にして、経験的に林業の方や大工の方は犯土を尊重するそうです。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
暦には科学的な根拠の少ないものも数多く残っています。迷信とは別に経験的なデータとしての暦に従って、トラブルや不慮の事故を防ぎましょう。大自然の法則はまだまだ解明されていない自然現象も数多くあるのです。
昨日が立冬、季節は冬に入ります。この頃の良い気候から秋の長雨の時期に入って、体調を崩す方をお見受けします。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月25日(旧9月25日)「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

土用といえば「土用の丑の日」、鰻の蒲焼を思い浮かべます。

110730_13.jpg蒲焼が普及したのは江戸時代のことです。江戸時代後期に、あの平賀源内が鰻屋に頼まれて「土用の丑の日に鰻を食べると暑さ負けせず夏バテしない」と江戸中に宣伝したところ大変流行しました。

また、万葉集にも鰻が登場しますが、この頃は蒲焼きではなく単にに焼いて食していたようです。

今回の土用の丑の日は10月22(土)で二の丑は11月3日(木)です。

「鰻:うなぎ」の語源は「胸黄:むなぎ」から。鰻の調理方法は、東京では「切腹」をイメージするというので腹を切るのを嫌い、背剥きにします。大阪では腹剥きです。また、焼き方も異なっています。

大阪では鰻のことを「う」といいます。そして鰻丼のことを「まむし」といいます。これは、ご飯とご飯の間に鰻を挟んでマブシて食すからで、蛇のマムシに似ているからという理由ではありません。いつしか「マブシ」が「マムシ」に変化したものです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
秋から冬に入る「土用」の期間中の「丑の日」です。やはり季節は違っても滋養には鰻です。10月の土用が過ぎると「立冬」で、秋から冬への季節の変わり目です。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月24日「国連の日」です。■
121015_30.jpg国際連合」は第二次世界大戦を契機として生まれた国際平和機構です。国連の日とは、国際連合憲章が発効した昭和20年(1945)10月24日を記念する日のことです。

日本は昭和31年(1956)12月18日、チュニジアに次ぐ第80番目の加盟国として国連の加盟しました。
発足当時、国連に加盟した国は
51か国でした。その後、加盟国は増えていき、最近では、平成23年(2011年)に南スーダンが加盟し、現在193か国が加盟しています。

国連の活動目的は、
①全世界の平和を守ること。②各国の間に友好関係をつくり上げること。③貧しい人々の生活条件を向上させ、飢えと病気と読み書きの出来ない状態を克服し、お互いの権利と自由の尊重を働きかけるように、共同で努力すること。④各国のこれらの目的を達成するのを助けるための話し合いの場となること。
とあります。

国連本部は、アメリカのニューヨークにあります。
ここは各国の話し合いの場としてだけでなく、人気の観光名所にもなっており、毎年、100万人を越える人々が国連本部を訪れています。

訪れた人の多くは、国連が行っているガイド・ツアーに参加してます。これに参加すると、各国の代表が地球的な関心事項について話し合う会議の様子や、加盟国から寄贈された美術品、壁画、彫刻なども見ることができます。



■10月23日「電信電話記念日」です。■ 141101_20.jpg
電信電話記念日(でんしんでんわきねんび)は、明治2年(1869)10月23日に、東京~横浜間の電信線架設工事を着手したことにちなむ毎年10月23日の記念日です。

 昭和25年(1950)5月に当時の電気通信省が、電信電話記念日を制定しました。
元々電気通信省の前身の逓信省(ていしんしょう)においては逓信記念日が制定されていました。その逓信記念日は4月20日で、郵便事業の創業にちなんで選定されたものでした。
記念日事業は電信電話を含む逓信事業全体を包括する内容です。ところが、昭和24年(1949)6月に逓信省が郵政省・電気通信省の2省に分離した際、いままでの逓信記念日である4月20日は郵政記念日として郵政省に受け継がれたので、電気通信省独自の記念日が望まれるようになり、10月23日の電信電話記念日が制定されることになりました。 

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当初は電気通信省の省名にあわせて電気通信記念日と称しており、昭和27年(1952)8月から日本電信電話公社(電電公社)に、現業分離後もそのままの名称でしたが、一般的な「電信電話」の呼称を取り入れ昭和31年(1956)からは、日付は10月23日のままで「電信電話記念日」と改めました。 

 電信電話記念日(でんしんでんわきねんび)は、明治2年(1869)10月23日東京~横浜間の電信線架設工事に着手したことにちなむ日を云われとして、今日まで続いています。 

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇ 
平成の時代には逓信省も、郵政省も、電気通信省も総務省の管轄下にあります。現在の総務省は本来「逓信省」の方が正しい呼び名かもしれません。 10月後半二十四節気「霜降」の頃です。季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

◆二十四節気◆平成28年10月23日「霜降(そうこう)」です。◆

131015_22.jpg10月23日08時46分「霜降」です。旧暦9月、戌(いぬ)の月の中気で、天文学的には太陽が黄経210度の点を通過するときをいいます。

霜降:そうこう」とは、秋も末の霜が降りる頃の意で「しもふり」とも言います。

この頃、露が冷気によって霜となり降り始め、ひっそりと秋が深み往き、もの寂しい風趣がところどころに醸されます。冷え込む早朝には霜を見るようになり、一歩づつ冬の到来が感じられるようになります。晴れた日に時折り小雨ほどの秋雨が降り、楓や蔦の葉が見事な紅葉を見せ始めます。

霜降の頃を暦便覧では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説いています。

霜降から立冬までの間に吹く地を這って吹く寒い北風を「木枯らし」と呼びます。

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◆七十二候◆
◆初候「霜始降」(しもはじめてふる):霜が始めて降る。
田園にも霜が降り始める時節。

◆次候「霎時施」(しぐれときどきほどこす):小雨がしとしと降る。
秋も終わりとなる頃で、小雨がしとしとと降ってわびしい時節。霎(そう)=こさめ。雨の音が本意。施す=広い範囲に行き渡らせる。

◆末候「楓蔦黄」(ふうかつきなり):紅葉(もみじ)や蔦(つた)が黄葉む。
紅葉や蔦の葉が黄葉する時節。黄ばむ=黄葉する。

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◇10月の紅葉◇
全国的には落葉樹の葉の色つきで咲くことを指します。秋になると一斉に見事に紅葉する様子は、観光の名所になっています。カエデ科の数種を特にモミジと呼びますが、紅葉が鮮やかな木の代表種です。また赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶこともあります。これらをハッキリと区別できない場合も多く、総称して「紅葉」として呼びます。

同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがあります。葉がどうして色づくのかについては明らかになっていません。 なお、常緑樹でも紅葉するものがありますが、緑の葉と一緒の時期だったり、時期がそろわなかったりするため目立ちません。

秋になると草や低木の葉も紅葉し、それらを総称して「草紅葉(くさもみじ)」ということがあります。 日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下します。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「
紅葉前線」と呼びます。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月で、見頃は紅葉が始まった後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで続きます。ただし、山間部や内陸では少し早目です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
霜降の時期は秋から冬への「夏の土用」の時期です。この時期は無理に問題を解決しようとせず、受け流すことが肝要です。土用の作用で万物が腐する事から、問題が混とんとしてしまいます。
無理をせず受け流す余裕を身につけましょう。
今年は二の酉までの年です。酉の日の参拝と日ごりから火廻要慎をこころがけましょう。

皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月22日「京都、平安神宮 時代祭」です。■
121015_27.jpg平安神宮」の御祭神・桓武天皇は、光仁天皇の皇子として天平9年(737)に誕生。天応元年(781)第50代天皇として即位されました。

天皇は平城京の規模が小さく、日本の国都として適していないと察し、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都を移し、さらに最も都に適した処として、延暦12年(793)葛野・愛宕両郡を選んで都の造営をはじめました。翌13年10月22日、新京に移った天皇はここを「平安京」と称せられ、延暦15年に大極殿において百官の拝賀を受けられました。

桓武天皇は在位25年の間、律令を正し難民を救済文教を興して内政を整えるとともに、広く海外とも交易し我が国の発展に努めました。以来、京都は明治に至る1千余年の間、日本の国都として栄えてきました。延暦25年(806)に崩御。御陵は柏原陵(京都伏見区桃山)。

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平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建されました。創建当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。

京都を救ったのは京都復興への市民の「情熱」と、全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育・文化・産業・生活など、すべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。

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「時代祭」は、創建当時を伝える祭で、京都の誕生日10月22日に行われます。京都全市域から参加の市民組織・平安講社による「時代行列」は、維新期の西洋兵式教練の鼓笛隊を先頭に、弓箭組、徳川城使上洛式、豊公参朝式、信長の上洛式、流鏑馬、藤原時代の文官の参朝式、延喜式官出陣式、延暦文官参朝式、各時代の女性風俗、平安神宮の鳳輦などの行列が、京都御所建礼門前から平安神宮応天門まで続きます。

平安神宮
◇京都府京都市左京区岡崎西天王町
◇JR「京都駅」バス「京都会館美術館前」徒歩5分
◇公式HPhttp://www.heianjingu.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年、「季節のお便り」を書いていて、鞍馬の火祭、平安神宮の時代祭の頃なると、めっきり秋の深まりを感じ、北の方から雪の便りが聞こえてきます。
朝夕の冷え込みがきつくなってきました。日中は過ごしやすい日が続いています。油断して風邪などお召しにならないように、お身体ご自愛専一の程
筆者敬白

 

■10月22日「京都、鞍馬の火祭り」です。■
111017_3.jpg10月22日の昼間は「時代祭」で賑わう京都。夜には、京都三大奇祭の一つ「鞍馬の火祭り」が行われます。日本屈指の火祭りとして有名です。「由岐神社:ゆきじんじゃ」の祭礼で「神楽松明」とも呼ばれます。

由岐大明神:ゆきだいみょうじん」は、はじめ御所に祀られていましたが、天慶元年に都の大地震、天慶2年には平将門の乱(天慶の乱)と相次ぐ世情不安に、当時の朱雀天皇の詔により、天慶3年(940)9月9日御所の北方にあたる鞍馬の地に、天下泰平と万民幸福を祈念し御遷宮されました。

御遷宮の際、京の鴨川に生えていた葦で松明を造り、道々には篝火を焚き、神道具を先頭に行列の長さ10町(1km)という国家的一大儀式により御勧請。この儀式と由岐大明神の霊験を後生に伝えるため、守られてきたのが火祭の起源です。

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豊臣秀吉の信仰篤く、慶長12年には豊臣秀頼により本殿と拝殿を再建。この拝殿は、中央に通路をとった割拝殿という珍しい拝殿で、桃山時代の代表的建造物でもあります。国の重文に指定。

22日午後8時頃、菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が出揃い、山門前には大小の松明を担いだ若者が集合して一大壮観を呈します。やがて、合図の太鼓と共に青葉の精進竹に張った注連切りの儀が行われます。大松明は石段に殺到し、やがて1箇所に集めて焼き捨てられます。

その後、御輿の前で神幸の儀が行われ、八所大明神・由岐大明神の順で御輿が参道を下ります。山門を下ったところから御輿は車に乗せられ、鞍馬町を巡幸されて御旅所に安置されます。神楽が奉納され、4本の大きな神楽松明が境内を廻ります。諸式の終了は午前0時頃。翌23日午前、還幸祭が執り行われ、鞍馬の火祭は終了します。

由岐神社
◇京都府京都市左京区鞍馬本町1073
◇叡山電鉄「鞍馬駅」徒歩5分
◇HP:http://www.yukijinjya.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年、「季節のお便り」を書いていて、鞍馬の火祭、平安神宮の時代祭の頃なると、めっきり秋の深まりを感じ、北の方から雪の便りが聞こえてきます。
あっという間に夏が過ぎ、電車バスを乗ると、共同募金の赤い羽根をつけた方々を見かけます。いつの間にか歳末が近づています。
筆者敬白


■10月21日「宇都宮、二荒山神社 例祭」です。■
121015_25.jpg古く「宇都宮大神宮」と呼ばれた「宇都宮二荒山神社:うつのみや・ふたあらやまじんじゃ」は、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名「宇都宮」を冠して呼ばれます。

下野国一宮式内名神大社である「宇都宮二荒山神社」は、延喜式神名帳に「下野国河内郡二荒山神社」と記され、御祭神に「豊城入彦命:とよきいりひこのみこと」を祀ります。

第十代崇神天皇の第一皇子で、毛野國(栃木県、群馬県)を拓いた郷土の祖神、総氏神様として篤く信仰されます。また、御祭神は武徳にも優れ、古くから武将の信仰も篤く、藤原秀郷公・源頼義・義家公・源頼朝公・徳川家康公などが戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。

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宇都宮は湧き水が多く、江戸時代の人々は主な湧き水七つを選んで「七水」と呼び、名所としていました。「明神の井」は七水の一つで、明治天皇の献茶の湯に使われました。また、この水を使うと書道が上達すると伝わります。

毎年10月21日に「秋山祭」と呼ばれる例祭が行われます。この祭は次週の「菊水祭」に向けて執り行われる祭で、両日とも古式ゆかしい鳳輦渡御行流鏑馬が奉納されます。

宇都宮二荒山神社
◇栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
◇JR「宇都宮駅」西約1km
◇二荒山会館
http://www.futaarayamakaikan.jp/

◇◇◇◇編修後記◇◇◇◇
二荒山神社境内には「明神の井」があります。口に含んでみると甘みのある水です。東京から祐気採り、お水採りの方は北、若しくは北東です。
明神の井参考ブログ
http://photozou.jp/photo/show/418957/37935716
http://ameblo.jp/hibarasan/entry-10949030936.html

 

■10月20日~11月7日「夏の土用」です。■
110716_20.jpg暦の上では10月20日8時23分から「土用」です。
夏の土用を三合の利で「
火墓気」と呼びます。
「土用」は雑節の一つで、太陽が黄経27度、117度、207度、297度にある時と定義され、四季の変わり目に配されています。
 
今月は乾方位「戌月」土用の月です。夏~秋が冬の季節に入れ替わる期間です。夏が完全に消滅するところから「夏の土用」といいます。これを三合の理では「寅月(2月)より生じて」、「午月(6月)で勢い旺となり」、「戌月(10月)で墓を迎えて暮れて行く様」とあります。
 
特に、夏の「8月」に生じた事柄は、「12月」に壮ん(旺ん)となり「翌4月」に終わりを迎え結果が出ます。既に起こっていて、今月中に終結しそうにない事柄は「11~12月」には結果が出るように運ぶということになるのです。

「時を得る者は昌え、時を失う者は亡ぶ」(時の運をうまく味方につけて追い風に乗る者は栄え、逆に追い風を見逃して向かい風に帆を揚げるようでは、苦難ばかりで、滅んでしまう。)タイミングがいいことを、時の氏神が味方をした。などと言い時を味方につけるとき、実力以上の成功に恵まれるということです。 

万物は「木火土金水:もくかどごんすい」の「五気の消長」によって生成する。と陰陽五行思想で説いています。土用の期間は「土の気」が盛んになり「物を変化させる作用が最も働く期間」ということになります。土を動かすことは勿論ですが、造作、修繕、柱立、礎を置くこと、井戸掘りなど、良くないとされます。部屋の模様変えや押入れの整理も見送りましょう。
 
【土用心得】
土用の期間に入ると、抱えている問題は解決しないといわれています。土用に入る前に方向性を決め、解決しておく事が得策です。とはいっても、もの事が解決せず土用の期間に入ってしまったら、焦らずに成り行きを見守るゆとりを持ちましょう。

【土用の丑の日】
120709_60.jpg土用といえば「丑の日」、鰻の蒲焼を思い浮かべますが、この蒲焼が普及したのは江戸時代のことです。江戸時代後期に、あの平賀源内が鰻屋に頼まれて「土用の丑の日に鰻を食べると暑さ負けしない」と宣伝。大いに流行しました。万葉集にも鰻が登場しますが、この頃には単に焼いていたようです。

今回の「土用の丑の日」は10月28日(水)です。二の丑はありません。

121015_24.jpg■「鰻」(うなぎ)の語源は、「胸黄:むなぎ」から由来。鰻の調理方法は、東京では切腹をイメージするというので腹を切るのを嫌い、背剥きにします。大阪では腹剥きです。また、焼き方も異なっています。

大阪では鰻のことを「う」といいます。そして鰻丼のことを「まむし」といいます。これは、ご飯とご飯の間に鰻を挟んでマブシて食すからで、蛇のマムシに似ているからという理由ではありません。いつしか「マブシ」が「マムシ」に変化したものです。

【土用の明け】
夏の土用が明けるのは11月8日「立冬」です。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
今回は夏~秋から冬に入る「土用」で三合の理では
火墓気と呼びます。土用の期間は、上手くいかない期間とされています。突然の災難にに遭ってしまうかたもいます。また結果が出ない事柄の結論が出る期間とも受け取れます。「運」の良し悪しは、生活していれば誰にでも当てはまりますが、「運気」は自然界の影響を受けているので、大自然の法則を知って、自然の恩恵を最大限活用しましょう。暦をよみとくことは、大自然の叡智を身につけることなのです。

秋も深まり季節の変わり目です。体調を崩しやすい時節柄なので、健康管理には十分注意しましょう。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月20日「皇后誕生日」です。■
121015_22.jpg日本の今上天皇の皇后・美智子陛下(旧名・正田美智子)は、昭和9年(1934)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(富美子と改名)夫妻の長女として、東京府・東京帝国大学医学部附属病院に於いてご誕生されました。お印は白樺。聖心女子大学文学部外国語外国文学科ご卒業。日本赤十字社名誉総裁。国際児童図書評議会名誉総裁。
 
昭和32年(1957)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文
学)を首席で卒業。同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたトーナメント大会にて、当時皇太子だった明仁親王と出会います。「テニスコートの出会い」として知られます。その後もテニスを通して交際を深めたと伝わります。

 
明仁親王は美智子さんの写真を「女ともだち」と題して、宮内庁職員の文化祭に出品しました。皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代に、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようです。資産家の令嬢とはいえ、旧華族出身でない事から、香淳皇后、高松宮妃喜久子、秩父宮妃勢津子、常磐会会長松平信子らをはじめ、猛烈な反発を受けています。
 
昭和33年(1958)ベルギーに於いて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。
 
111016_3.jpg同年11月27日、結婚が皇室会議に於いて満場一致で可決されました。記者会見にて記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派な方で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなりました。また第一印象について「ご清潔な方」とも。清楚で知的な美智子の姿は、絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られ、「美智子さまぬりえ」が発売されるなど、当時はミッチー・ブームが起こりました。
 
昭和34年(1959)4月10日、皇太子明仁親王と結婚。明治以降初めての民間(士族以下)出身の皇太子妃となりました。1989年1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后に。
 
国民に開かれた皇室の想起者といわれていますが、数々の発言や行動に見られるように、伝統を守ることを大切にしています。また、訪問相手や周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は、多くの人々に感銘を与えています。
 
平成26年(2016)10月20日の今日81歳の誕生日を迎えます。

戦前は皇后誕生日を「地久節」と呼び、皇后陛下の誕生日を祝う日でした。一部の女子校などでは、休日にして祝われていたようです。昭和23年(1948)に、地久節は皇后誕生日に改称されました。

宮内庁◇東京都千代田区千代田1-1

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
戦前は地久節と呼びました。祝日の呼び方ひとつで歴史や社会背景を感じます。
10月も下旬で木枯らしの吹く11月はすぐそばです。秋も深まってきました体調管理の難しい時期です。お風邪などお召しにならないよう、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月20日「えびす講」■
111016_4.jpgえびす講:えびすこう」は、商家が商売繁盛を祝って、福徳の神である「恵比寿様」を祀ることです。大国主命
事代主命(ことしろぬしのみこと)、あるいは蛭子(ひるこ)を祭り、商売繁盛の神として広く信仰されています。「戎講」「夷講」「恵比寿講」

旧暦10月は「神無月」で、日本中の神様が出雲大社に出掛けいます。その留守を預かる留守神「恵比寿」を気の毒に思い、特別なお祭りによって慰めようということから始まったのだと伝わっています。地方によって、旧暦10月20日、11月20日、正月20日と異なります。

昔から関東の商家では10月10日を七福神の一つ「恵比寿神」を祀る日として祝い、恵比寿様に参詣して福運を祈る風習がありました。家運隆盛、商売繁盛を願い、親類知人を招いて大いに祝いました。

関東では10月20日の20をとって「二十日えびす」といい、関西では正月10日にこれを行なうことから「十日えびす」といいます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
えびす神は兵庫県西宮市にある「西宮神社」が有名で、10月えびすよりも正月9~11日のえびす講のが一般的です。えびす祭やえべっさんとも言われています。

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■10月20日「誓文払い」■
121018_20.jpg誓文払い:せいもんばらい」とは10月20日の恵比寿祭を中心に行われる商家の蔵ざらえのことです。京都の商家や水商売の人たちは、四条寺町の誓文返しの神「冠者殿:かじゃでん」にお参りします。日頃の商売上やむを得ず人を騙したり、嘘をついたりした罪を祓い神罰が当たらないように祈願していました。

誓文とは、神に誓う誓詞・起請文のこと。嘘偽りの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いです。もともと恵比寿祭とは別のものでしたが、同じ日に行われる為いつしか混同したものです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
この日は商売上の嘘偽りや人を騙したりした穢れ(けがれ)を祓う日(はらうひ)とされています。不動産業は千に3つのホントで「千三つ:せんみつ」と呼ばれます。しっかりと誓文払いをしないといけませんね。
今日は秋から冬にかけての「土用の入り」で暦の上で季節の変わり目です。
体調を崩しやすい時期です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月19日「京都、建勲神社 舟岡祭」■
121013_28.jpg舟岡山「建勲神社:たけいさおじんじゃ」の御祭神は、贈太政大臣正一位「織田信長公」、配祀に従三位左近衛中将「織田信忠卿」。「けんくんじんじゃ」とも呼ばれます。
戦国時代、桶狭間の合戦ののち天下統一した織田信長公の偉勲を称え、明治2年(1869)明治天皇の勅命により創建。明治8年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を舟岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座しました。

京都に平安京を築くとき、中国の陰陽五行、風水思想に基づいて、龍が天空より舞い降りる地、溢れ出る玄武の小山として「船岡山」を基準点に定め、真南の方角に「大極殿」を建築しました。

121013_29.jpg大極殿の正面中央から南へ伸びる方向に「朱雀大路」とされました。船岡山から南に眺める京都市全域が、ほぼ平安京の領域にあたります。境内には「船岡妙見社」という玄武神をまつる社があり、船岡山はまた「玄武」(四神の一つ・北を守護)の意味もあったと考えられています。

東山三十六峰や京都市街を眺める眺望は素晴らしく、神苑は春の桜、夏のつつじ、秋のもみじと四季それぞれに大変美しい。「京都の自然100選」第一号に選ばれています。聖徳太子や清少納言にもゆかりが深く応仁の乱では西軍が山城を築き、陣地となった事から周辺を「西陣」と呼ぶようになりました。船岡山は国の史跡に指定されています。

121017_20.jpg織田信長が初めて入洛した日を記念して、毎年10月19日に「船岡祭」が催されます。桶狭間の合戦出陣の際に信長公が舞われた仕舞「敦盛」や、舞楽奉納、弓取り神事などが行われます。信長公ゆかりの宝物などの特別公開も行われます。

建勲神社
◇京都府京都市北区大宮通北大路下る
◇京都市営バス「舟岡山公園」徒歩8分
◇建勲神社HP
http://www.matumoto-photo.com/kenkun.html

■10月19日「東京日本橋、べったら市」です。■
121013_27.jpg東京日本橋の大伝馬町から小伝馬への通りで開かれる「べったら市」は江戸時代から続く伝統のある市で下町の風物詩となっています。
 
もともとは翌20日の「恵比須講」に使う神像や打出の小槌、懸鯛、切山椒などを売るための市でしたが、いつの頃からかここで売られる「べったら漬」が評判になって、この名が定着してしまいました。
 
べったら」とは、干し大根を麹で浅漬けしたもの。若者が混雑を利用して参詣の婦人に「べったらだー、べったらだー」と呼び掛けながら、着物の袖に「浅漬大根(べったら)」をくっつけ、婦人達をからかったことから「べったら」の呼名になったのだとか。現在では、大伝馬町界隈で様々な露店が300軒程連ねます。
 
111016_1.jpg宝田恵比寿神社は、日本橋七福神の恵比寿さまです。もと江戸城外・
宝田村の鎮守で、徳川家康公の江戸入府の際に、三河から随行してきた馬込勘解由に下賜された恵比寿神像を祀ったもの。

 
慶長11年(1606)江戸城の拡張工事に伴い、宝田、祝田、千代田の三ヶ村は移転を命じられました。そこで馬込勘解由は宝田神社の恵比寿神を奉じ、住民を率いて、現在の日本橋の地に移転しました。馬込勘解由は三伝馬取締役となり、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張等から商人を呼び集めたため、あらゆる物資の集散地として栄えました。
 
宝田恵比寿神社はその鎮守となって商売繁盛、家族繁栄、火防の守護神として広く信仰を集めています。
 
宝田恵比寿神社
◇東京都中央区日本橋3-10-11
◇地下鉄日比谷線「小伝馬町駅」
◇由来、参考ブログ
http://www.nihonbashi-edoya.co.jp/bettara2.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
べったら市は宝田恵比寿神社の大祭です。
宝田恵比寿神社は火の守護神と伝わります。江戸時代には火の不始末による火事は後を絶たず、大火事の原因でした。

時代は変わっても、これから暮れにかけて不審火は大火事になりかねません。暮れにかけて酉の市があります。皆様くれぐれも火の用心
筆者敬白

■10月18日「東京、靖国神社 秋祭」です。■
111012_23.jpg靖国神社:やすくにじんじゃ」は、日本が関係した戦争に於いて、朝廷や政府側で戦没した軍属らを含む軍人を、祭神として祀る神社です。靖国神社は神社本庁には属していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。

明治2年(1869)「東京招魂社:とうきょうしょうこんしゃ」として創建されましたが、明治10年の西南戦争をきっかけに「神社」として定まりました。
 
明治2年(1869)「東京招魂社」として創建されましたが、明治10年の西南戦争をきっかけに「神社」として定まりました。
 
明治初期には多くの内乱が起こりました。その原因は徴兵令と地租改正条例にあるといわれています。内乱の中で最も規模が大きく、内乱の最後となったのは、西郷隆盛率いる旧薩摩藩の士族達が起こした「西南の役」です。この内乱の原因になったのは「廃刀令」で国民皆兵を原則とした徴兵令によって、軍人・武士としての士族達の特権が奪われてしまったからです。西郷隆盛達が鹿児島から熊本城へ向かった軍勢はおよそ1万5千。対し迎え撃つ新政府軍は6万8千余名にも及びました。
 
121013_25.jpg東京招魂社は、明治12年6月4日「別格官弊社」に加えられ、「靖国神社」と改称しました。西南戦争を経て、国家的統一を確かなものにするために命を落とした新政府の兵隊たちの霊を合祀したとき、招魂社は「国を靖(安)んずる場」、靖国神社へと変わっていたのです。それからちょうど10年後の明治22年の2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。
 
靖国神社は、「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものです。
 
10月17~20日「秋季例大祭」が行われます。18日「当日祭」では、全国から集った遺族・戦友・崇敬者をはじめ、各界代表者が多数参列のもとに、南部宮司以下の神職が御本殿に進み、御饌、御酒、海の幸、山の幸等の神饌をお供えして楽を奏し祝詞を奏上。戦歿者246万6千余柱の「みたま」を慰め、平和を祈念します。また、勅使が天皇陛下よりの御幣物を供え、御祭文を奏して参拝します。
 
141015_24.jpg昇殿参拝
10月17日:午前8時~午後2時
10月18~20日:午前11時30分~午後3時

靖国神社
◇東京都千代田区九段北3-1-1
◇地下鉄「九段駅」徒歩5分
◇公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
靖国神社の秋例大祭を迎えると、東京でも秋が深まったように感じます。また、幕末から明治にかけて倒幕、新政府になった事は変えられない歴史です。例大祭を機に近代の歴史をひも解いてみましょう。
安倍政権の経済対策は、それ以前に必要な手を打たず放置したことが、長引く不況の原因になっています。10~20年先の近い将来も見えない社会では、安心して消費もできません。
命を賭して、今の日本を作り上げた戦没者のためにも、将来のために今、何を為すべきか一寸立ち止まり、考えてみる時です。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月18日「東京、浅草観音 菊供養」■
111012_24.jpg聖観音宗総本山「浅草寺:せんそうじ」の本尊は聖観音、山号は金龍山浅草寺(あさくさでら)と呼ばれ親しまれ、江戸時代には徳川家康が幕府の祈願所に指定し、下町文化の中心的存在になりました。江戸三十三箇所観音霊場の札所1番。

大化元年(645)勝海上人という僧が寺を整備し、夢告により本尊を秘仏と定めたといわれます。さらに平安時代初期の天安元年(857)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が「お前立ち」の観音像を造ったと伝わります。観音像は、高さ一寸八分(約5.5cm)の金色の像であると言われますが、公開されることのない秘仏のためその実体は不明です。

121013_26.jpg菊供養」は、信徒の持参した献菊と、献菊されていたもの(下供菊)とを交換して供養するものです。供華会(くうげえ)ともいいます。

始まりは明治30年(1897)10月11日(旧暦9月9日:重陽)。謡曲「菊慈童」には「此の妙文を(観音経八句の偈の中四句)菊の葉に、置く滴りや露の身の、不労不死の薬となって、900歳を送りぬを、汲む人も汲まざるも、延ぶるや千年(ちせ)なるらん」とあります。これは「重陽の宴」や「菊の被綿(きせわた)」の行事となっています。

浅草寺では菊の出廻る頃、10月18日の観音薩捶の縁日を期して「菊供養」を行います。

浅草寺
◇東京都台東区浅草二丁目3番1号
◇東京メトロ・都営地下鉄「浅草駅」徒歩5分
◇浅草観音HP
http://www.senso-ji.jp/
菊供養会
http://www.senso-ji.jp/annual_event/kikukyoue.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
旧暦での重陽の節句近くは、ちょうど菊の開花時期です。菊人形の披露など菊に関する催しやイベントが各地で開かれます。10月は秋祭りのピークで、菊供養、重陽の節句など収穫を祝うものが多いようです。
朝晩が冷え込みます。ひと雨がごとに冬の気配が濃くなります。お風邪などお召しにならないようにお体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月18日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
10月節に入っての「一粒万倍日」です。暦の上では、寒露を過ぎ、秋の気配が本格化してきました。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月17日「貯蓄の日」です。■
121013_30.jpg10月15~25日、伊勢神宮では神嘗祭を行ます。「神嘗祭:かんなめさい)とは、天照大神に新穀を供え収穫を感謝する式典で、昔は神嘗祭が来るまではその年の新米は誰も口にしないという風習がありました。
 
農耕民族にとってはとても重要な区切りの日であるということから、昭和27年(1952)「日本銀行貯蓄増強中央委員会」(現在の金融広報中央委員会)が、神嘗祭で内宮の奉幣が行われる17日を「貯蓄の日」と定めました。
 
現在、多くの国民は労働の対価として金銭を貰うようになっていますので給料がいわば収穫。収穫したお金は大切に使おうという趣旨から国民に貯蓄を奨励する運動を行っています。

■10月17日「伊勢神宮 神嘗祭」です。■
111012_21.jpg伊勢神宮:いせじんぐう」とは、伊勢の宇治の五十鈴川に御鎮座の「内宮」と、伊勢の山田の原に御鎮座の「外宮」の他に、別宮、摂社、末社の125社神社の総称です。正式には「神宮:じんぐう」といいます。
 
内宮「皇大神宮」は、皇室の御祖先の神「天照大神」を祀り、外宮「豊受大神宮」は「豊受大御神」を祀ります。豊受大御神は天照大神の召し上がる大御饌(おおみけ)の守護神です。
 
神宮の参拝順路は、外宮からというのが古来よりのならわしとなっています。
 
神嘗祭」は、その年の初穂を神々に捧げるの意。神宮と宮中の祭礼です。皇室の大祭で、その年に獲れた新穀を天照大御神に奉る儀式を行います。かつては旧暦9月11日に、勅使に御酒と神饌を授け、9月17日に奉納していました。
明治5年の改暦以降、新暦9月17日に実施するようになりましたが、この時期だと新穀が間に合わず、明治12年(1879)以降、神嘗祭は月遅れの新暦10月17日に行われるようになりました。
 
この祭典は、年間行事の中で最重要の祭りで「神々の正月は神嘗祭」とも言われ、御装束や祭器具などを新調して儀式を執り行います。


伊勢神宮
◇公式HP:公式HP
http://www.isejingu.or.jp/
内宮◇近鉄「宇治山田駅」バス15分
   ◇伊勢自動車道「伊勢西IC」5分
 
外宮◇JR・近鉄「伊勢市駅」徒歩5分
   ◇県道伊勢市駅前右折1分


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
蓄の日の由来が収穫に感謝する「新嘗祭」から発祥しているとは意外な感じがして、パッと
結びつきません。農作業の対価の収穫と、勤労の対価の賃金もことは同じということのようです。平成25年は伊勢神宮の遷宮年で、内宮、外宮の順に遷宮が行われます。一説によるとこれからの20年は経済上昇の遷宮だそうです。

伊勢神宮では神嘗祭が最も重要な年中行事になっているとのこと。今も昔も収穫は最大の喜びです。
数年来デフレで不況のときに東日本大震災が発生しました。今年の新嘗祭は特別な意味が含まれることでしょう。
ひと雨ごとに寒くなります。季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白
 

■10月17日「日光東照宮 秋祭」です。■
121013_24.jpg日光東照宮:にっこうとうしょうぐう」は、元和3年(1617)「徳川家康公」を奉祀し、創建された神社です。
 
二代将軍・秀忠公により造営された創建当初の社殿は、20年後の寛永13年(1636)三代将軍・家光公により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となりました。
 
国指定文化財の建造物(国宝、重文)は、本殿や陽明門など35棟を中心に、大名の奉納による五重塔や石鳥居など55棟。これらの建造物は、何れも江戸初期寛永文化の優れた絵師、名工達、技術集団によって生み出された我が国を代表する「宗教建築」です。平成11年(1999)世界遺産に登録されました。
 
10月16~17日「秋季大祭」が行われます。流鏑馬神事は、およそ900年前、朝廷の護衛にあたった武人等によって行われていました。鎌倉時代に源頼朝公が鶴岡八幡宮の神前に奉納したことで盛んとなり、八代将軍吉宗公が復興に努められました。
 
111012_22.jpg現在、奉納されている流鏑馬は、鎌倉時代の古儀に正しく習うものです。馬場は2町(220m)表参道(大手通り)、的の1辺は1尺8寸(55cm)正方形の杉の柾目板を用います。
 
17日には「百物揃千人行列」が行われます。徳川家康公の神霊を、駿府久能山から日光へ改葬した当時の行列を再現した豪壮な渡御祭で、江戸時代には4月17日(命日)に行われ、京都から例幣使がつかわされていました。春と秋の2回行われます。春は千人を超える行列となり、二荒山神社境内から出発します。
 
三神(家康公、秀吉公、頼朝卿)輿は御旅所神殿に祀られ、拝殿には「三品立七十五膳」と呼ばれる山海の幸が神職の手で供えられ、祭典を済ませた後、日光二荒山神社巫女による舞、日光東照宮神職による舞が奉納され、三神輿は日光東照宮に向かい神輿舎に安置されます。還御祭が行われ御霊は御本社に遷霊します。

日光東照宮
◇栃木県日光市山内2301
◇JR「日光駅」バス「神橋」徒歩8分
◇公式HP
http://www.toshogu.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
秋祭りには17日には「百物揃千人行列」が行われます。みごとな時代絵巻です。是非お出かけください。
東照宮は標高の高い日光にあります。行ってみるとややすこし寒く感じることがありますから、一枚余分におお召しください。
季節の変わり目です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月17日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則が体に合っているのでしょうか?
筆者敬白

■10月16~18日「愛媛、新居浜太鼓祭」です。■
141015_23.jpg愛媛県新居浜市を代表する秋祭り「新居浜太鼓まつり」の起源は、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)の頃と伝わります。毎年10月16~18日の3日間を中心に行なわれます。
 
山車(だし)は、もともと神社祭礼のときに神輿のお供をするもので「神輿太鼓」と書かれましたが、時代を経て山車が祭りの中心的存在となり、金糸銀糸に彩られた絢爛豪華な「太鼓台たいこだい」あるいは「太鼓たいこ」と呼ばれる山車になっていきました。
 
太鼓祭りの見どころ「かきくらべ」は、約3トンもの太鼓台を150人程で担ぎ上げ、その美しさや担ぎ上げている時間の長さなどを競うものです。太鼓台同士をぶつけ合う喧嘩(鉢合わせ)「日本三大喧嘩祭り」にも数えられています。喧嘩は突発的に発生するもの、盛り上げを目的としたもの、従前からの因縁対決など様々です。
 
121013_22.jpg過去には、太鼓台が破壊されて多数のけが人を出していますが、その後も鉢合わせ行為は毎年のように行われ、多くのけが人が出ています。今では「鉢合わせ」は禁止されていますが、勇壮な祭りの本質を楽しむと

いう点ではまったく無益とはいえません。
 
現在では、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿の豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもつ魅力ある祭りとして、全国的にも知られます。
 
111012_20.jpg新居浜太鼓祭りは「四国三大祭り」にも数えられ、毎年10数万人の観客で賑わいます。また、この祭りは各地の祭りやイベントにも参加し、国内外を問わず太鼓台の派遣を行っています。
 
※お問い合わせ※
愛媛県新居浜市運輸観光課:0897-65-1261
新居浜市観光協会:0897-65-1261
 

■10月15日~10月21日「大犯土(おおつち)」です。■
◇犯土の期間◇
120502_60.jpg大犯土:おおつち」は選日の一つで庚午(かのえ うま)の日~丙子(ひのえ ね)の日までの7日間(10月15日~10月21日)をいいます。
8日目の丁丑(ひのと うし:10月22日)の日を差し障り無い「犯土間日:つちまび」を置きます。
9日目の戊寅(つちのえ とら)の日から甲申(きのえ さる)の7日間(10月23日~29日)を「小犯土:こづち」としています。

◇犯土期間中慎む作業◇
犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

木々の活動低調期◇

110311_12.jpg野山の木々にも活発な時期と低調な時期があります
大犯土・小犯土期間中は、樹木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。
除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。

科学的な根拠の有無は別にして、林業や大工の方は暦の犯土を経験的に重要視しています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
現代では暦の「大犯土」は、単なる科学的な根拠のない迷信だと、軽んじられています。現代では暦に従って生業を営むことが、難しくなってきました。
土に関わる仕事を生業にしている不動産業の方や、工務店、建築業・林業の方は、日程を調整して不慮の事故を未然に防ぎましょう。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月15~16日「新宮、熊野速玉大社祭」です。■
121013_20.jpg熊野速玉大社:くまのはやたまたいしゃ」は、熊野三山の一つで、熊野新宮とも称される熊野神社の総本宮です。

熊野速玉大神」と「熊野夫須美大神」を主祭神として十二柱の神々を祀り、「新宮十二社大権現」として全国から崇敬を集めています。平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されました。

熊野権現御垂迹縁起
によれば、唐の天台山より飛行、日本国鎮西の日子山(英彦山)の八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南に位置する神倉山に天降ったとされます。

熊野速玉大神
は「伊邪那岐神:いざなぎ」、熊野夫須美大神は「伊邪那美神:いざなみ」とされますが、もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれます。神倉山の旧宮に対し、現在の社殿を新宮とも呼びます。

111011_19.jpg「権現」とは「仮に現われる」の意。神様は御殿の中の最も清浄な奥処に鎮まり、そのお姿を直接見ることが出来ません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透します。


奈良朝末期に至り、熊野速玉大神は衆生の苦しみや病気を癒す「薬師如来」として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける「千手観音菩薩」、家津美御子大神は来世浄土へ導く「阿弥陀如来」として位置付けられ、山伏や熊野比丘尼によって「熊野権現信仰」は飛躍的な拡がりを見せました。

更に中世熊野信仰の興隆に伴い、皇室・公卿・武士中心から庶民信仰へと発展。過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。

15~16日に行われる例大祭では、速玉大神が神馬に奉安され、御旅所「杉のお仮宮」に渡御し、松明の灯りの中、おみたまと呼ばれる特殊な神饌などが供えられ、古儀な神事が行われます。16日午後には、神輿で熊野川原まで渡御した後、朱塗りの神幸船に乗って御船島を目指し、先導の9隻の早船競漕が行われます。(下記※本年度御船祭について※参照

神代の時代絵巻を今に伝える御船祭。緒手船神事の中で9隻の船が競漕する船渡御は、全国に類のない伝統ある神事で県指定の無形民俗文化財となっています。

熊野速玉大社
◇和歌山県新宮市新宮1
◇JRきのくに線「新宮駅」徒歩5分
◇公式HP
http://kumanokaido.com/hayatama/

■10月15日「釜石、曳舟祭」です。■
121015_20.jpg尾崎神社:おざきじんじゃ」は、祭神に日本武尊(やまとたけるのみこと)、綿津見神(わたつみのかみ)、閉伊三郎源頼基公を祀ります。
 
奥の院・奥宮・里宮から成り立ち、「おさきさん」と呼ばれ親しまれ、漁業・農業・商業・工業を営む人々から篤く信仰されています。
 
111011_21.jpg境内にある「釜石鎮魂社」は、国難に殉じた諸霊をはじめ、大東亜戦争の釜石鉄砲射撃において絶命された人の慰霊のため、平成元年に造営されました。
 
曳舟祭」は、年に一度奥宮より御神体を船にて奉迎し、奥宮御旅所へ参るお祭りで、東北で最も古い船祭りと伝わります。先達露払い年行司太神楽船・御座船(お召船)、供奉船が船列を整え、湾内3周の海上渡御が盛大に行われます。
 
121015_21.jpg曳舟にてお迎えした御神体は翌日、大神輿に遷されます。総勢100名の担ぎ手の奉仕の下、年行司太神楽の露払い・釜石虎舞の供奉・町内奉納山車行列にて市内を巡幸します。終えて再び神輿を替え、奥宮にお送します。
 
尾崎神社
◇岩手県釜石市浜町3-23-27
◇JR釜石線「釜石駅」車10分
◇参考http://cadatte-kamaishi.com/sinsai/wp-content/uploads/2011/10/cadattetimes004-2.pdf

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
※お問い合わせ※⇒y釜石市役所 Tel:0193-22-2111(代表)
東日本大震災の被災地まっただ中です。復興も順調で震災前の規模の祭礼です。
とはいっても東日本大震災の傷跡は深いものです。
釜石の方々の心意気での開催です。是非復興した釜石を見に観光にお出かけ下さい。
時節柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月15日「天理、石上神宮 例祭」です。■
111011_20.jpg石上神宮:いそのかみじんぐう」は、飛鳥から奈良へと続く日本最古の道「山の辺の道」の中間に位置し、飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神として、また日本最古の神社として有名です。
 
物部氏は「饒速日命:にぎはやひのみこと=天孫瓊瓊杵尊の兄」の後裔で、代々軍事や警察、石上神宮の祭祀を職務としていました。
 
饒速日命は天降った際に天神御祖から「十種神宝」を授かり、その子である「宇摩志麻治命」がこの十種神宝を天皇に献上し、天皇はこれを斎奉って石上神宮と名付けたと伝えられます。
 
141015_21.jpg御祭神の「布都御魂大神」は「甕布都神:みかふつのかみ」、「佐士布都神:さじふつのかみ」ともいわれ、神武天皇東征の折、熊野の地で「武甕槌神:たけみかずちのかみ・建御雷神」が、「天照大神」の命によって高倉下(たかくらじ)から天皇に奉ったのが「平国之剣」であると称されています。
 
例祭は「ふるまつり」と呼ばれる900年の伝統ある祭りです。壮麗な神輿を中心に、甲冑武者、猿田彦、花鉾、奉幣、衣冠姿の稚児の騎馬など、約4kmの盛大な「お渡り」が行われます。
 
石上神宮
◇奈良県天理市布留町384 
◇JR・近鉄「天理駅」バス「石上神宮前」下車
◇名阪「天理東IC」南下
◇参考:http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/isonokami.htm

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■10月15日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。


江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■10月15日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
10月節に入って15日が2回目の「一粒万倍日」です。暦の上では、寒露を過ぎ、秋の気配が本格化してきました。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月14~15日「姫路 喧嘩祭」です。■
141015_22.jpg松原八幡神社:まつばらはちまんじんじゃ」は、天平宝字7年癸卯4月11日(763)豊前国宇佐神宮より松原村へ奉迎され、天皇の御祈願所として創建されたと伝わります。
 
御祭神は、中殿に「品陀和気命:ほんだわけのみこと:応神天皇」、左殿に「息長足姫命:おきながたらしひめのみこと:神功皇后」、右殿に「比咩大神:ひめおおかみ:比咩三神」を祀ります。
 
秋季例祭「灘まつり」は、「灘のけんか祭り」「妻鹿のけんか祭り」とも呼ばれ、一の丸、二の丸、三の丸からなる三基の神輿をぶつけ合う「練り合わせ」といわれる特殊な神事と、旧7ヶ村の絢爛豪華な屋台が激しく練り競う屋台練りが行われる天下の奇祭ともいわれる祭りです。
 
全国に数ある「けんか祭り」の中でも最大規模の祭りで、戦前から播磨を代表する祭りとして知られます。
 
111011_18.jpg勇壮豪華な屋台練りは人気を呼
び、国内はもとより海外にまでその名を知られるようになりました。「松原八幡神社秋季例祭風流」として、姫路市と兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されています。

 
例祭は毎年10月14~15日に行われます。宵宮(夜宮)と本宮(昼宮)に分かれ、前夜祭に当たる14日の宵宮で幕を開け、各村の氏子たちがそれぞれの村の屋台を担ぎ上げて松原八幡神社に赴きます。祭り本番の翌15日は、祭礼の主要行事である御旅神社への神事渡行を氏子たちが執行し、日暮れ時に神輿は松原八幡神社へ還御、屋台はそれぞれの村に帰着して祭行事の幕を閉じます。
 
松原八幡神社
◇兵庫県姫路市白浜町甲399番地
◇山陽電鉄本線「白浜の宮駅」下車
◇参考http://www.nadamatsuri.jp/hachiman/index.html
◇灘のけんかまつりhttp://www.nadamatsuri.jp/index.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
天下の奇祭、日本最大規模のけんか祭りです。神輿のぶつかり合い、屋台の練り競いなどけんか祭りそのものです。最近は安全にばかり気配りして、年寄り神輿の祭りばかりになったと祭り好きのコメントです。
めっきり秋めいてきたこの頃です。天下の奇祭にお出かけ下さい。

時節柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月14日「鉄道の日」です。■
111011_17.jpg「鉄道の日」とは、鉄道の開通を記念する日本の記念日。明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現在の根岸線桜木町駅)が開通しました。
 
大正11年(1922)鉄道記念日と制定。昭和24年(1949)日本国有鉄道の記念日になり、一部民営化された後もJRグループの記念日として祝っていましたが、平成6年(1994)運輸省の提案で「鉄道の日」と改称され、JRをはじめ民鉄等の鉄道事業者が鉄道の発展を祝う全国的な記念日となりました。
 
141015_20.jpgこれを記念して、JRや私鉄などで記念乗車券の発売やカードの発行など、鉄道関連のイベントが行われます。東京千代田区の日比谷公園では「鉄道フェスティバル」が行われ、一部の鉄道会社では特別臨時列車を走らせたり、車両基地などの一般公開が行われます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
近年は「鉄ちゃん」と総称される。鉄道マニアが敷地内に入って通過列車の撮影をしたり、発車寸前の車両がマニアの心無い行動で延発になったりと、一般乗客には迷惑な行動が目に付きます。マニアの暴走には困ったものです。また、一部が全部のように報道するメディアにもまた困ったものです。
最近では「鉄子」「鉄男」「乗り鉄」「ママ鉄」「撮り鉄」など造語も増えてきて、辞書に載る時代です。ストライキをしていた国鉄時代とは、JRになってから大きく変化したと感じています。

筆者敬白

■10月14日「己巳(つちのとみ)」です。■
120417_62.jpg「己巳:つちのと・み、き・し」は、干支十干と十二支)の組み合わせ60のうちの6番目で弁財天を祭る日とされています。「巳待:みまち」ともいいます。

五行説で、十干「:つちのと、き」は「陰の土」、十二支「:み、し」は「陰の火」で、相生(火生土)でとなり相性のいい日です。

「巳」は「」をあてています。蛇は弁財天の使いであると考えられていたことから、福徳賦与の神である弁財天を祀るようになりました。


「弁財天」
は、宝冠を被り青衣をつけた美しい女神で、左手に弓・刀・斧・絹索を、右手に箭・三鈷戟・独鈷杵・輪を持つものもあり、ヴィーナ(琵琶に似た楽器)を弾じます。


121225_27.jpg安芸の宮島
大和の天川近江の竹生島相模の江ノ島陸前の金華山五弁天と称します。
鎌倉の「銭洗弁天」(正式には宇賀福神社)では、境内奥の洞窟内の湧き水で銭を洗うと、数倍になって返ってくるとされています。

日本各地に存在する「弁天島」は、弁才天信仰に由来する島名です。海難避けや豊漁を祈願する漁師たちの守り神として、日本各地の沿岸の小島に祀られてきました。

七福神(しちふくじん)
とは、福をもたらすとして信仰されている七柱の神です。

◆≪恵比寿:えびすさま≫商売繁盛、除災招福、五穀豊穣、大魚守護の神様
「大漁追福」の漁業の神。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となりました。七福神の中で日本が由来の神様。
◆≪大黒天:だいこくてん、だいこくさま≫五穀豊穣、子孫愛育、出世開運、商売繁盛の神様
ヒンドゥー教のシヴァ神と、日本古来の大国主命の習合です。その後「大黒柱」と現されるように、食物や財福を司る神となりました。
◆≪毘沙門天:びしゃもんてん≫武道成就、降魔厄除、家内安全、夫婦和合の神様
ヒンドゥー教のクベーラ神。仏教の神のヴァイシュラヴァナ(多聞天)になり、日本では毘沙門天と呼ばれます。
◆≪弁才天:べんざいてん、べさいてん、べんてんさま≫恋愛成就、学徳成就、諸芸上達、福徳施与の神様
七福神の中の紅一点。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されます。
◆≪福禄寿:ふくろくじゅさま≫財運招福、延命長寿、立身出世、招徳人望の神様
道教の宋の道士、または、道教の神で南極星の化身の老子である「寿老人」の別名または同一神とされます。
◆≪寿老人:じゅろうじん≫幸福長寿、家庭円満、延命長寿、福徳智慧の神様
道教の神で南極星の化身の老子。
◆≪布袋:ほていさま、ほていそん≫千客万来、家運隆盛、家庭円満、商売繁盛の神様
唐の末期、明州に実在したと伝わる仏教の僧です。

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暦注や暦に起因する様々な行事は、中国から渡ってきたものが主ですが、「
庚申待」「甲子待」と同類でも、「己巳」は日本独自のものです。

◇◇◇ 編集後記 ◇◇◇
もうすぐ11月です。社会では己巳や庚申などは迷信扱いです。暦の謂れを振り返ってみることも、せちがない現代での心の余裕といえます。 隣人や人との縁を偶然と考えずに、必然と捉えれば社会も違って見えるはずです。

皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月13日「和歌山、竈山神社祭」です。■
111011_15.jpg竈山神社:かまやまじんじゃ」は、神武天皇の長兄である「彦五瀬命:ひこいつせのみこと」を祀る神社です。「五瀬」は「厳稲」の意とし、穀物や食料の神の意と古事記伝では解しています。
 
式内社で、旧社格は官幣大社。釜山神社と表記されることも。本殿裏に彦五瀬命の墓があります。神仏霊場巡拝の道第8番(和歌山第8番)。
 
神武天皇ら弟たちとともに東征に向かった彦五瀬命は、難波の白肩津で登美能那賀須泥毘古に敗れ負傷。「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず云々」として南下しましたが、紀国の男之水門に着いたところ、その傷が元で亡くなってしまいます。
 
古事記には、紀伊国竈山に墓が作られたとあります。「紀伊続風土記」によれば、ここが竈山の地であり、墓が作られてすぐに、神社が作られたとあります。
 
121008_27.jpg天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州根来衆攻めにより社宝・古文書等を焼失。社領も奪われて荒廃。慶長5年(1600)紀伊国に入国した浅野幸長が小祠を再建。寛文9年(1669)徳川頼宣が社殿を再建。
 
明治に入り、宮内省管轄の「彦五瀬命墓」と、竈山神社は正式に区分されました。明治14年(1881)村社に列格しましたが、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885)官幣中社に、大正4年(1915)には官幣大社に異例の昇格を果たし、現在は神社本庁の別表神社となっています。
 
竈山神社
◇和歌山県和歌山市和田438
◇和歌山電鐵貴志川線「竈山駅」徒歩10分
◇参考ブログhttp://www.genbu.net/data/kii/kamayama_title.htm

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
彦五瀬命は神武天皇の長兄で、墓所がこの地にあります。歴史研究が進んで重要な土地と判明しました。
皆さんの土地も何らかの由緒があるかもしれません。風土史を調べてみるのも、お住まいの土地に馴染むことなのでしょう。

そんな折、10月初旬の新聞には「九州邪馬台国説の論争復活」とありました。近畿邪馬台国で落ち着いている現在、これからの論争がどこに落ち着くか楽しみです。
読者の皆様、時節柄お身体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月13日「嵐雪忌」です。■
121008_29.jpg服部嵐雪:はっとりらんせつ」は、江戸時代前期の俳諧師で松尾芭蕉の門弟。淡路出身の武家の長男に生まれ、下級武士として常陸笠間藩主の井上正利に仕えました。


寛文12年(1673)松尾芭蕉に入門。不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が2句入集したのが作品の初見。貞享5年(1688)に「若水」を刊行して宗匠となり、2年後には「其机:そのふくろ」を刊行して俳名を高めます。


元禄7年(1694)「露払」の斤に絡んで深川蕉門との対立を生じ、代えて「或時集」を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集「若菜集」を刊行しました。


121008_30.jpg芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、3月3日桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えましたが、嵐雪は芭蕉の奥州行脚にも送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生し風波は激しかったようです。


江戸で芭蕉の訃報を聞いた嵐雪は、その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いています。そして桃隣と一緒に芭蕉が葬られた義仲寺に向かいます。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は「この下にかくねむるらん雪仏」互いに師弟の強い信頼関係があったのも事実です。


宝永4年(1707)10月13日没。享年54歳。辞世句「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」。追善集に百里斤「風の上」などがあります。


10月13日「日蓮聖人忌」です。■
111011_16.jpg日蓮:にちれん」聖人は鎌倉時代の仏教の僧で、法華経の宗祖。貞応元年(1222)2月16日、安房国長狭郡(安房郡天津小湊町)に生まれ、幼名「善日麿」と伝わります。
 
天福元年(1233)清澄寺の道善房を師とし入門。暦仁元年(1238)に出家し、是生房蓮長の名を与えられ、仁治元年(1240)比叡山へ遊学。高野山へも勉学に努め、仏経典を研鑽した結果「法華経」こそ釈迦の本懐であるという結論に至りました。
 
建長5年(1253)清澄寺に帰り、4月28日朝、昇る太陽に向かい「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて立宗宣言。持仏堂にて仏教教義を広めました。
 
建長6年(1254)鎌倉に出て弘教(ぐきょう=弘めること)を開始。この頃日蓮と名のります。
 
文応元年(1260)立証安国論を執筆。これには法華経を信じなければ自界叛逆難(じかいほんぎゃく:国内の争い)、他国侵逼難(たこくしんぴつ:他国が攻め入り、侵略しようと襲ってくる)などの災いが起こると説き、これを時の幕府最高実力者・北条時頼に送ります。他の信仰を批判してた日蓮は、他宗の僧らにより襲撃され、幕府により濡れ衣を着させられ流罪にされたりしました。
 
121008_28.jpg文永5年(1268)蒙古から国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となります。文永8年、幕府や諸宗を批判したと捕らえられ、龍の口刑場にて処刑中に刀が折れるという怪異が起こり、処刑は中止されました。その後、佐渡へ流刑にされます。
 
佐渡へ流罪中に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、末法における「法華曼荼羅」を完成させました。
 
文永11年(1274)春、御赦免となった日蓮は幕府に三度目の諌暁(かんぎょう=いさめ、さとすこと)を試みましたが、幕府は一向に聞き入れませんでした。その後、日興聖人の弟子で身延の波木井実長の領地に入山して、身延山久遠寺を建立しました。この年に蒙古が襲来。
 
弘安2年(1279)10月「本門戒壇の大御本尊」図を顕しました。
 
弘安5年(1282)10月、弟子の中から後継者を定めました。後継者6人は六老僧と呼ばれます。この年、病気療養のため常陸へ湯治に向かう途中、武蔵国池上の郷主・池上宗仲邸にて亡くなりました。

没後、「日蓮大菩薩」(後光厳天皇・1358)「立正大師」(大正天皇・1922)から諡号が贈られます。
 
この日、全国各地でお会式(おえしき=御会式)と呼ばれる法要が営まれます。
 

■10月13日「十三夜」です。■
111003_7.jpg十三夜:じゅうさんや」とは、旧暦9月13日のことで「十三夜月」「十三日月」。特に、十三夜は「のちの月」として十五夜についで美しいとされ、宮中では月見の宴が催されました。

十三夜は「女名月」といって、宮中に限らず、この日ばかりは女性が幅をきかすのだとか...。農家では「小麦の月見」といって、天気が良く、観月できたら、小麦が豊作になるとされています。秋の収穫を感謝する祭りなどが多く行われます。

◇「月待ち」◇ 
十三夜、十五夜、十七夜、二十三夜、二十六夜などの特定の月齢の晩に、月待ちをするしきたりがありました。

月待ちとは、人々が沢山集い(多くは女性のみ)供物を備えて月の出るのを待ち、月を拝んで会食するという行事でした。

月待ちの「待ち」は、現在では「月の出るのを待つ」の意に解釈されていますが、もともとは「月をマツル(祭る)」の意です。

各地に「二十三夜塔」があることから、特定の月齢の中でも、「二十三夜待ち」が最も多く行われていました、これは満月の後の半月が特別なもの
とされていたからです。

江戸時代には、正月と7月の二十六夜に、海を臨む高台へ昇って月を待って徹夜する行事も記録されています。地域によって、正月と11月の2回だけや、正月、5月、9月、11月に観月する地方が多かったようです。

■10月12日「横浜鶴見、総持寺御征忌会」です。■
121008_25.jpg總持寺:そうじじ」は、福井県永平寺と並ぶ曹洞宗大本山の一つ。釈迦の教えを日本に伝え、永平寺を開いた「道元禅師」(高祖)、總持寺を開いて教えを全国に広めた「瑩山禅師」(太祖)を「両祖」と呼び、釈迦と併せて「一仏両祖」として祀られます。
 
はじめ、石川県の「諸嶽寺」を元亨元年(1321)太祖・瑩山禅師が「諸嶽山總持寺」と改めました。明治の焼失を機に横浜市に移転。開かれた禅苑として国際的な「禅の根本道場」となっています。
 
道元禅師の教えを受け継いだ四代目「瑩山禅師:けいざんぜんじ」は、文永5年(1268)現在の福井県武生市に誕生。父は土地の豪族・瓜生氏、両親ともに信仰深く、母が観音様に祈願を込め、その霊験によって生まれたのが禅師といわれています。
 
111008_18.jpg8歳にして永平寺に登り、三代徹通禅師に弟子入り。永平寺での修行は厳しくも鍛えられ、13歳の春に、二代目懐弉禅師について得度を受けます。18歳で諸国行脚修行の旅に出ます。
 
21歳の秋、永平寺の「徹通禅師」の元に戻った禅師は、その翌年に徹通禅師のお供として永平寺に別れを告げ、金沢の大乗寺へ移ります。
 
修行7年の後、27歳にして平常心是道も公案を開き教えを体得、翌28歳の正月徹通禅師の教えを継ぎました。徹通禅師を助けて布教活動に専念するうち35歳で大乗寺2世となり、45歳で能登に永光寺を開きます。
 
54歳の春、羽咋市の近くの諸嶽寺の定賢律師の願いを受け入れ、その寺に入って「総持寺」と改めます。翌年、後醍醐天皇より「曹洞宗出世道場」という額と紫衣を賜り大本山となりました。
 
121008_26.jpg正中2年(1325)夏、病床に倒れた瑩山禅師は、9月29日、58歳の生涯を閉じます。「御征忌会:ごしょうきえ」では、御開山瑩山禅師、二祖峨山禅師の御遺徳を偲び報恩修行が行われます。
 
總持寺
◇神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1
◇JR「鶴見駅」徒歩5分
◇総持寺HP:
http://www.sojiji.jp/

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
「形見とて何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」
良寛和尚が、遺言として残された和歌です。良寛さんは、自然に逆らわない、ありのままの生き方を生涯貫きました。
身近にある一見何の変哲もない自然の、そのありのままの尊さ、そして、その尊さを知る心こそ、後世に残すべき『本当の宝』であると言い残されたのでしょう。
筆者敬白

■10月12日「芭蕉忌、時雨忌」です。■
111007_20.jpg松尾芭蕉:まつおばしょう」は、江戸時代前期の俳諧師で、俳諧を革新し「蕉風」を樹立。俳諧に偉大な足跡を残し、明治時代に成立した俳句の源流を作りました。
 
古池や蛙飛込む水のをと」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「荒海や佐渡に横たふ天の河」「夏草や兵共(つはものども)が夢の跡」などがとても有名です。
 
伊賀国の松尾与左衛門と妻・梅の次男として誕生。松尾家は農家でしたが、松尾の苗字を持つお家柄。若くして、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠に仕え、京に出て北村季吟に師事して俳諧の道に入りました。
 
寛文12年(1672)処女句集「貝おほひ」を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。3年後、江戸に移って宗匠となります。


延宝8年(1680)深川に草庵を結び、門人の李下から贈られた芭蕉の木を一株植えると大いに茂ったのを見て「芭蕉庵」と名付けます。
 
天和2年(1682)庵を焼失し、甲斐国谷村藩の国家老高山伝右衝門に招かれて移り住み、しばしば旅に出ては「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」などの紀行文を残しました。
 
元禄2年(1689)弟子の河合曾良を伴い、江戸を立って東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで「奥の細道」の旅に出ます。2年後に江戸に帰っています。
 
敬慕した西行・宗祇・李白・杜甫のように旅に生きた芭蕉もまた旅の途中、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死します。これが辞世句に。
 
秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句です。辞世の句「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」享年51歳。遺言「木曽殿の隣に」により、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曽義仲(ぎそよしなか)の墓の隣に葬られました。
 
芭蕉が好んで詠んだ句材「時雨」は、旧暦10月の異称です。忌日10月12日は、俳号に因んで桃青忌、時雨忌、翁忌などと呼ばれます。
 
「義仲寺」
◇滋賀県大津市馬場1-5-12
◇JR「膳所駅」京阪電鉄「膳所駅」
◇義仲寺参考ブログ:
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=410


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句とありました。筆者も大病して病床に就いたことがあります。隣人が気になった感覚は、共通するものがあります。
俳人の多くが旅先で名句を詠みます。李白・杜甫など土地は違えど、頷ける漢詩に出会うと、悠久の時を共有したような感覚になります。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

◇◇◇◇八専始めの編集後記◇◇◇◇
八専の期間中は、天地が朦朧(てんちがもうろう)として、人間社会でもバランスが取りづらくなります。人間関係では些細なことで思わず亀裂が入ったりします。
他にはギャンブルなど、努力が伴わない行動は成就しません。

今回は10月の八専です。今回の「八専」が終ると、暦の上では「土用」に入り、二十四節気「霜降」です。これを機会に新しい計画を立てるなど、八専の作用を存分に活用すれば、物事が確実に成就していきます。
いわゆる準備、事始めの期間が八専と言えます。
振幅の激しいこの期間、逆境ある方が、ここで一大決心をすると、大自然が味方になって、良い作用が発現した例を数多く聞き及びます。
参考までに八専始めの10月8日に掲載した季節のお便りを下記に付けます。↓↓↓


■9月27日~10月8日「八専(はっせん)」です。

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暦の上で「十干:じゅっかん」「十二支:じゅうにし」を、「五行説:木火土金水」に当てはめると、干支ともに同じ気が重なるものが12日あります。そのうちの8日が「壬子~癸亥」の12日間に集中していて、特別な意味を持つ期間とされました。同じ気が重なることを「専一」と言いい、それが8日あることから「八専」と呼びます。八専の期間には同気の重ならない日が4日あり、これを「八専期間中の間日(まび)」と呼びます。

《日にち》 《干支》 《五行》  《コメント》

月27日 壬子 =水水、 ←水の気が重なる
28日    癸丑 =水土、 間日(まび)
29日    甲寅 =木木、 ←木の気が重なる
30日    乙卯 =木木、 ←木の気が重なる
10月01日 丙辰 =火土、 間日(まび)
02日
   丁巳 火火、 ←火の気が重なる
03日    戊午 =土火、 間日(まび)
04日    己未=土土、 ←土の気が重なる
05日    庚申 =金金、←土の気が重なる
06日    辛酉 =金金、 ←土の気が重なる
07日    壬戌 =水土、 間日(まび)
08日      癸亥 =水水、 ←水の気が重なる
 
間日(まび):
このうち、癸丑・丙辰・戊午・壬戌の4日間を、八専の間日(まび)といいます。間日は八専の影響を受けづらい日です。八専は年に6回程あります。

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八専の期間は「天干てんかん」と「地支:ちし」が同じ気なので、気が偏って良い事はますます良く、悪いことは更に悪く傾きやすくなります。これは、振幅の激しい期間で、準備を怠らなかった人には良い結果が、場当たり的な対応をした人にはそれなりの結果が訪れます。

古代中国では、むしろすべてのことに良いとされていて「淮南子:えなんじ」には「専を以て干支(えと)に従えばすなわち功あり」と記されています。八専の期間中は、天地が朦朧(てんちがもうろう)として、人間社会でもバランスが取りづらくなります。人間関係では些細なことで思わず亀裂が入ったりします。他にはギャンブルなど、努力が伴わない行動は避けましょう。


※淮南子
=中国前漢時代の皇族で、学者でもある「淮南王劉安」(えなんおうりゅうあん・紀元前179年~紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書

八専はもともと、築城・軍営・出陣・出兵には適さない日(凶日)として、戦争を司る軍略家の用いるものでした。
一般には、家作・植樹・地ならしなどの建設的な事柄には良く。立ち退き・解体・廃棄など処理的な事柄や婚礼、蓄類の売買には良くない日とされ、仏事も避ける(忌む)とされます。
また、八専期間中は雨が降る日が多いといわれています。八専始め「壬子=水と水八専終わり「癸亥=水と水」と水の気が始めと終わりにあるので、雨が多い期間とされています。

今回の八専の期間は9月27日~10月8日です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
八専の期間中は、天地が朦朧(てんちがもうろう)として、人間社会でもバランスが取りづらくなります。人間関係では些細なことで思わず亀裂が入ったりします。他にはギャンブルなど、努力が伴わない行動は成就しません。
今回は10月の八専です。台風シーズンも終わりかけです。今回の「八専」中に、10月に入り暦の上では二十四節気「霜降」です。10月は秋の行事が立て続けです。これを機会に新しい計画を立てるなど、八専の作用を存分に活用すれば、物事が確実に成就していきます。いわゆる準備、事始めの期間が八専と言えます。
今のところ逆境にある方が、ここで一大決心をすると、大自然が味方になって、良い作用が発現した例を数多く聞き及びます。
寒暖差が激しい時期で、体力を消耗していて、油断から体調を崩しやすい時期です。 
時節柄お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■10月11日「東京、池上本門寺 御会式」です。■
121008_24.jpg日蓮宗大本山「池上本門寺:いけがみほんもんじ」は、弘安5年(1282)10月13日辰の刻、日蓮聖人61歳で入滅された霊跡です。
 
日蓮宗の十四霊蹟寺院の一つ。七大本山の一(他の6本山=清澄清澄寺、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺)本尊は釈迦如来
 
弘安5年9月8日、病気療養のため身延山を降り、常陸の湯(ひちちのゆ:水戸市加倉井町)へ向かいます。途中、武蔵国池上(大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館でくなりました。

もともと「長栄山大国院本門寺」と呼ばれる寺でしたが、それは「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたもの。
 
日蓮入滅の後、法華経69,384字に合わせて約7万坪の寺域を寄進した池上宗仲公の力で寺の礎が築かれたので、以来「池上本門寺」と改称されました。
 
111008_14.jpg大堂に安置される宗祖御尊像の左手の御持物「妙法蓮華経」は日蓮宗第一の参拝対象です。紺紙を用い、金字を金界の罫線内に1行17字あてで書写されたもので、旧国宝に指定され、現在は霊宝殿に格護されています。
 
旧大堂は、第14世・日詔聖人代の慶長11年(1606)熱心な法華信者・加藤清正公が、慈母の七回忌追善供養の為に建立されたもの。間口25間の大建築で、清正公が兜をかぶったまま縁の下を通ることが出来たと伝わります。その壮観さを江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して「上野(寛永寺)は中堂」「芝(増上寺)は小堂」と呼ばれました。
 
旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆。惜しくも宝永7年(1710)に焼失。24世日等聖人代の享保8年(1723)徳川8代将軍・吉宗公の用材寄進で、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されました。また吉宗公は、大岡越前守を普請奉行に、釈迦堂・大客殿・大書院なども建立寄進しています。旧祖師堂以下すべて戦災で焼失しました。
 
現在の大堂は、後の「日定聖人」が全国を行脚し、檀信徒並びに関係寺院からの浄財寄進を得て、昭和39年に再建されたものです。内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に「日蓮聖人の御尊像」を奉安し、左に第2世「日朗聖人像」を、右に第3世「日輪聖人像」を安置しています。
 
外陣の天井画は、大田区在住の「川端龍子画伯」に委嘱。画伯は、その龍図の完成を見ることなく逝去されましたが、「奥村土牛画伯」が眼を点じて開眼供養を遂げました。未完成の龍図ですが画伯の遺作として今も多くの人が訪れます。

◇御会式◇ 
11日・歴代先師聖人並びに池上ご護山会先師報恩法要、納経十種供養式法要。
 
12日・宗祖御更衣法要。聖人の御衣を夏物から冬物に改めます。午後からは宗祖報恩御逮夜法要が営まれます。夜には池上徳持会館から本門寺までの約2kmにわたり総勢約3千人の万燈行列が行われます。
 
お逮夜に当たるこの夜、一晩で30万人を超える参詣者で賑わい、僧侶が叩く大太鼓と信者達の唱題の声でお堂が震動するほど。
 
13日・臨滅度時法要が営まれます。午前8時、入滅を告げる鐘を日昭聖人が打ち鳴らされたように「臨滅度時の鐘」を鳴らして遺徳を偲び、法華経を広め伝える誓いを新たにします。御会式中の参篭も可能。
 
池上本門寺
◇東京都大田区池上1-1-1 
◇東急池上線「池上駅」徒歩10分
◇JR京浜東北線「大森駅」バス20分
◇首都高速目黒線「戸越出口」15分
◇公式HP
http://honmonji.jp/

■10月11日「神戸、海神社祭」です。■
111008_12.jpg海神社:わたつみじんじゃ」は、神功皇后の御代3~5世紀ごろの創建。「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれます。古くは、あまじんじゃ、たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。
 
式内社(名神大社)で旧社格は官幣中社。延喜式神名帳に「播磨国明石郡・海神社三座」と記載されます。
 
神功皇后の三韓征伐からの帰途、海上で暴風雨が起こり船が進めなくなったので、「綿津見三神」を祀ると暴風雨が治まったと伝わります。そしてこの地に社殿を建てたのが始まりと伝わり、古くから海上鎮護の神として崇敬されます。
 
121008_23.jpg海神三座」として「上津綿津見神:うわつわたつみのかみ=海上=航海の神」「中津綿津見神:なかつわたつみのかみ=海中=魚(漁業)の神」「底津綿津見神:そこつわたつみのかみ=海底=海藻、塩の神」を祀り、「大日孁貴尊:おおひるめのむちのかみ=天照大神」を配祀しています。
 
例祭は毎年10月10~12日、神輿を乗せた20数隻の船が海上をめぐる「海上渡御祭:かいじょうとぎょ」は12日に行われます。
 
海神社
◇兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1
◇JR「垂水駅」・山陽電鉄「垂水駅」すぐ
◇第二神明道路「高丸IC」10分
◇HP
http://kaijinjya.main.jp/
◆◆「秋の七草」◆◆
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり)かき数うれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花(をはな)葛花(くずはな) 撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花」 
(山上憶良/万葉集)

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★萩(はぎ)=豆科はぎ属。花は豆のような蝶形花。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料。葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に。根を煎じて眩暈やのぼせの薬にするなど人々の生活にも溶け込んでいました。
 
★薄(すすき)=稲科すすき属。収穫した物を悪霊から守る力があるとされます。屋根材の他に炭俵、家畜の餌などに利用されます。別名:尾花(おばな)。
 
★桔梗(ききょう)=ききょう科ききょう属、紫または白の美しい花。漢方では太い根を干して咳や咽喉の薬に。薬用成分のサポニンを含有し、昆虫にとっては有毒なため昆虫からの食害から自らを守っています。
 
昔から武士に好まれたようで、家紋に取り入れられました。「桔梗の間」「桔梗門」など。万葉集に出てくる「朝顔」は、この桔梗のことであるといわれます。
 
★撫子(なでしこ)=なでしこ科なでしこ属、ピンク色の可憐な花。我が子を撫でるように可愛いことから、この名前が付きました。この花は「ピンク」という色の語源になっています。
 
中国から平安時代に渡来した「唐撫子」(からなでしこ)に対して、在来種を「大和撫子」(やまとなでしこ)と呼び、日本女性の美称に使われます。
 
★葛(くず)=豆科くず属、周囲の木をツルで覆ってしまう程の生命力。大和の国(奈良県)の国栖(くず)が葛粉の産地であったことから。「葛」は漢名。ツルの部分は「葛布」の原料。
 
根は多量の澱粉を含んでいて、漢方薬で使われる「葛根」(かっこん:解熱作用)の原料です。葛粉、葛餅など。
 
★藤袴(ふじばかま)=菊科ふじばかま属。花の色は藤色で、花弁の形が袴の形をしている。桜餅のような香り。平安時代の女性は、干した藤袴の茎や葉を水につけて髪を洗いました。また、防虫剤や芳香剤、お茶などにも利用していました。
 
★女郎花(おみなえし)=おみなえし科おみなえし属。山野に生える黄色い清楚な花。「おみな」は「女」の意。「えし」は古語「へし(圧)」のことで、美女を圧倒する美しさから。
 
餅米で炊く御飯「おこわ」を「男飯」と言ったのに対し「粟(あわ)御飯」のことを「女飯」と言っていましたが、花が粟粒のように黄色く粒々していることから「女飯」を「おみなめし」「おみなえし」と言うようになったという説もあります。
 
「女郎花」と書くようになったのは平安時代の中頃。因みに「男郎花」という花もあります。
 
◆1月7日、春の七草「七種菜羹:しちしゅさいのかん」を食べ無病を祈る風習で「食」に関するものですが、秋の七草は「花を楽しむ」ことに所以しています。

■10月10日(月)「体育の日」です。■ 141104_24.jpg
昭和39年(1964)に開催された「東京オリンピック開会式」での輝かしい成果と感動を記念し、昭和41年(1966)国民の祝日に関する法律によって「国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日」を趣旨とし、国民の祝日に制定されました。 

昭和39年東京オリンピックの開会日が夏季オリンピック開催日としては異例に遅い10月10日となりました。それは、秋雨前線が去った後の東京地方の「晴れの特異日」だった事による、と言われていますが、昭和34年当時10月10日は特異日ではありません。

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昭和34年発効の「気象学ハンドブック」によれば、10月の晴れの特異日は14日とされています。 「特異日」とはその前後の日に比して特定の天気が集中する日のことで日本の観測史上、晴れる確率が最も高い日が「10月10日」で、この特異はいまでも継続中です。 

昭和36年(1961)に制定された「スポーツ振興法」では10月第1土曜日を「スポーツの日」としていましたが、この日は祝日ではありませんでした。その後、昭和39年に日本で初めて五輪大会「東京オリンピック」の開会式が開催されたため、それを記念して昭和41年(1966)から東京オリンピックの開会式のあった10月10日を「体育の日」として祝日に定めました。

平成12年(2000)からは「ハッピーマンデー法」の制定により、10月第2月曜日が「体育の日」となりました。 体育の日はスポーツ施設の使用料を割り引きや無料にしたり、様々な催し物を開催する所もあります。
モータースポーツの最高峰フォーミュラ1の日本グランプリもこの時期に行われることが多いです。
島根県出雲市では三大大学駅伝の開幕戦・出雲全日本大学選抜駅伝が行われます。

141104_26.jpg国民の祝日に関する法律
 
昭和23年法律 178号。国民が祝い、感謝し、記念すべき日を休日として定めた法律です。
元日 (1月1日)、成人の日(1月第2月曜日)、建国記念の日(2月11日<政令で定める日>)、春分の日 (春分日)、昭和の日(4月 29日)、憲法記念日 (5月3日)、みどりの日(5月4日)、こどもの日(5月5日) 、海の日(7月第3月曜日)、山の日(8月11日)、敬老の日(9月第3月曜日)、秋分の日 (秋分日)、体育の日(10月第2月曜日) 、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月 23日)、天皇誕生日(12月 23日) がそれです。 

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

体育の日の前後に運動会を開催する学校・団体は多いようです。
日頃スポーツに親しむことの少ない現代人は、運動会ではりきりすぎて病院にお世話になる事が絶えないと言います。
特に、運動会では「元陸上部」だったというパパが登場し、学生時代の自分の体と、現実の自分の体とのギャップがあることを忘れて走り、不完全燃焼を起こしてしまいがちです。
完全燃焼された方も次の日に筋肉痛に襲われるなど、どちらにしても大変です。
やはり運動会を楽しむためには、体育の日のみならず日頃からスポーツに親しむという努力が大切です。
季節の変わり目です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月10日「香川、金比羅宮祭」です。■
121008_21.jpg香川県琴平山の中腹に鎮まる「金比羅宮」は「讃岐のこんぴらさん」と呼ばれ親しまれています。
 
神仏分離・廃仏毀釈が実施される前は「真言宗の象頭山松尾寺金光院」でした。
 
神仏習合で「象頭山金毘羅大権現:ぞうずさん こんぴらだいごんげん」と呼ばれるようになりましたが、明治元年の神仏混淆の廃止で、もとの神社にかえり、同年7月に宮号を仰せられ「金比羅宮:こんぴらぐう」と改称し現在に至っています。
 
現在は、神社本庁包括に属する別表神社で、宗教法人金刀比羅本教の総本部となっています。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮です。
 
現在の御祭神は「大物主神:おおものぬしのかみ」、相殿に「崇徳天皇」。大
物主神は天照大御神の弟である「建速素盞嗚命:たけはやすさのおのみこと」の子です。大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸などの神徳を持つ神様として全国から広く信仰を集めています。

 
111008_10.jpg大祭は、毎年10月9日~11日の3日間にわたって行なわれる金刀比羅宮

で一番大きな祭事です。夜間に執り行われる「神幸行:おみゆき」は、少年少女の頭人(とうにん)がその列に加わることから「おとうにんさま」とも呼ばれます。
 
金刀比羅宮の大祭中、琴平町では様々な奉祝イベントが催されます。JR琴平駅から奥社までを往復する「こんぴら石段マラソン」、奉納野球、奉納ゲートボール郷土芸能の発表会など、門前町は賑やかになります。
 
因みに、江戸時代の庶民は旅行を禁止されてましたが、神仏への参拝は許されていました。庶民にとって、「お伊勢参り」は一生に一度の夢でした。並んで、讃岐の金毘羅大権現(今の金刀比羅宮)と、京都六条の東西本願寺への参拝の旅も、人生の一大イベント!
 
121008_22.jpg◇代 参◇
当時の参拝の旅は大変なことです。旅慣れた人が代理で参拝に行くこともあり、これを「代参」と言いました。旅を途中で諦めなければならない人が、道中で知り合った旅人に、旅費と初穂料(お賽銭)を託して代参してもらうこともありました。
 
◇こんぴら狗◇
また、「金毘羅参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代参をすることもあったそうです。袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っており、犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、目的地に辿り着きました。「こんぴら狗」と呼ばれます。
 
金毘羅大権現への代参で有名なのが「森石松」。清水次郎長の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝わります。

◇参詣者秘談◇
参道の石段は、奥社まで1368段もあります。資生堂パーラー「神椿」のレストランを利用すれば、駅からタクシーを利用して500段ぐらいまで上へ行けますよ。(秘話)

金毘羅宮
◇香川県仲多度郡琴平町892-1
◇JR土讃本線「琴平駅」徒歩20分
◇琴平電鉄琴電「琴平駅」徒歩15分
◇「高松空港」車50分
◇HP:
http://www.konpira.or.jp/   

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
※香川県の民謡「金毘羅船々」
金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ まわれば四国は讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん)一度まわれば...
金毘羅 み山の青葉のかげからキララララ 金の御幣(ごへい)の 光がチョイさしゃ海山雲霧(うみやまくもきり) 晴れわたる一度まわれば...
一度聞くと耳に残る節回しです。こんな時世だからこそ「金毘羅船々・・・」で乗り切りたいものです。
筆者敬白

■10月9~11日「久留米、高良大社例祭 高良山くんち」です。■
121008_20.jpg筑後国一之宮「高良大社:こうらたいしゃ」は、今から1600年前に創建された旧国幣大社で「九州総社」とも呼ばれます。社殿は神社建築としては九州最大を誇っています。
 
正殿に高良玉垂命、左殿に八幡大神、右殿に住吉大神の三柱の祭神を祀る式内社で、古くは「高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)」と呼ばれました。歴代皇室のご尊崇篤く、芸能・延命長寿・厄除けの神として信仰され親しまれています。
 
現在の社殿は、万治3年(1660)久留米藩第3代藩主:有馬頼利の寄進によるものです。
 
111003_8.jpg高良大社例祭」は「高良山くんち」(くんち=御九日)のこと。百々手式と呼ばれる弓馬術や弓道会、獅子舞、神楽、古武道などが奉納され、表千家不白流の方々によるお茶の接待などが行われます。
 
おくんちの日のご馳走は、旬の魚を使った「かます寿司」です。古くから特別料理として各家庭で作られ、今に伝わります。
 
11日の観月会では、箏曲、琵琶、吟詠、舞囃子、久遠太鼓、獅子舞、柳川日吉太鼓、雅楽などが行われ、嵯峨流生花展が開かれます。
 
高良大社
◇福岡県久留米市御井町1
◇JR久大本線「久留米大学前駅」タクシー10分
◇高良大社公式HP
http://www.kourataisya.or.jp/

 

■10月9日「甲子」です。■
甲子:かし・かっし・きのえね」とは、甲子待ち・甲子祭の略称。子祭ともいいます。

110906_19.jpg五行説で「甲」は陽の木、「子」は陽の水で五行相生して吉となり、よい組み合わせです。また十干十二支(じゅっかんじゅうにし)の組み合わせ60種のうちの「1番」で、目出度い日とされています。

この日、甲子待ちと称して子の刻(午後11時~午前1時)まで起きて、大豆・黒豆・二股大根を食膳に供え、大黒天を祀ります。子(ね)を、ねずみと結びつけ、ねずみを大黒天の使いであるとみなして、子の日に祀るようになりました。

甲子(きのえね)・庚申(こうしん)・己巳(つちのとみ)は、江戸時代に商家で盛んに行われました。現在でも各地に行事として残っています。

甲子は、日では60日で循環し巡り、年では60年で循環し巡ります。中国では甲子の年は政治上の変革があるとされ、甲子革命が説かれたりしました。日本でも甲子の年には、元号の改元が議論されたりしました。
 
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
社会では始まりや一番目は、お目出度いとされています。「甲子」も干支の1番目で、決断、改革、転居、方針転換、新規チャレンジ、入学、新しい仲間などにチャンスがあります。また、年号が甲子だと政変になるとされています。

今日は秋から冬への「土用」と同じ日の「甲子」です。新しいことを始める時で、個人でも、決断、改革、転居、方針転換、新規チャレンジ、入学、新しい仲間などにチャンスがあります。
7月に入り季節の変わり目です。読者の皆様お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月9日「大津、天孫神社例祭」です。■
161002_23.jpg天孫神社:てんそんじんじゃ」は、延暦年間に創祀と伝えられ、古伝によると大同3年(808)に平城天皇が近江に行幸の際に行在所として禊祓されたとあります。
 
また、建久年間に近江守護佐々木定綱が社殿造営、新田が奉納され、元亀年間には栗太郡青地の城主青地伊予守より所領が寄進され、豊臣秀吉が大津城築城の際にその余材をもって修復されたと記録されています。
 
近江の国には大変に神徳の厚い社があり、それを昔の人々は一宮~四宮と称しました。一宮が「建部大社」、二宮が「日吉大社」、三宮が「多賀大社」、そして四宮が「天孫神社」です。
 
161002_24.jpg御祭神は「彦火々出見命:ひこほほでのみこと」、「大名牟遅命:おおむなちのみこと」、「国常立命:くにとこたちのみこと」、「帯中津日子命:たらしなかつひこのみこと」で、大津の守護神として崇敬されています。
 
例大祭は「大津祭」と称され、五穀豊穣に感謝の意を込め、氏子中で賑々しく行われます。
 
大津祭曳山祭礼は、江戸時代の初め鍛冶屋町に住む塩売治兵衛という者が、天孫神社の祭礼に「狸面」を被って踊ったことに始まったと伝わります。後に、町内で竹の屋台を作り、木綿の幕を張り、鉦、太鼓の囃子で治兵衛が狸面を着け采を振って踊り、氏子町内を練り歩いていましたが、治兵衛が老年で踊れなくなったので、糸カラクリで腹鼓を打つ狸を作って町内を廻りました。
 
161002_22.jpg寛永12年(1635)からは、台に地車をつけ屋て「曳山:ひきやま」とし、子供達が引いて廻ります。寛永15年からは「三輪の曳山」を作り、やがて元禄、安永年間に現在の曳山が整えられました。
 
狸山をはじめ源氏山、石橋山など13基の曳山が豪華絢爛な見送り幕に飾られ、独特のからくりが巧妙に操られ、人々を楽しませてくれます。からくりの題材は中国の故事や能、狂言から取り入れられたものです。京都の祇園祭に匹敵するほどの祭といわれます。

天孫神社
◇滋賀県大津市京町3-3-36
◇JR琵琶湖線「大津駅」徒歩3分
◇「大津IC」2分
◇公式HP
http://www.tensonjinja.jp/

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
歴史のある大津の天孫神社の大祭、京都祇園祭りにも匹敵する大祭です。次々繰り出す山車、曳山などその荘厳さや数など、時代絵巻、社会風刺などとても圧巻な祭礼です。
大祭が終わると、二十四節気「寒露」の後で秋本番に入ります。
季節の変わり目です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月9日(旧9月9日)、旧「重陽」です。■
120824_22.jpg重陽ちょうよう」とは五節句のひとつ。旧暦9月9日の節会のことで、「菊の節句」「九月節句」ともいいます。

今日は旧暦の9月9日です。新暦の重陽と区別するために旧「重陽」としました。

◇重陽の意味◇
陰陽思想や易での「偶数=陰(いん)」「奇数=陽(よう)」から、奇数の極みは「9」であり、9月9日は陽(よう)が二つ重なることから「重陽:ちょうよう」といい、大変めでたい日、節句とされました。また「重九:ちょうく」ともいいます。

◇菊の露を飲んで不老不死◇
重陽は邪気を祓い長寿を願う節会として、菊を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わしました。この日の前夜「菊の被綿:きせわた」といって、まだつぼみの菊の花に綿をかぶせ、菊の香りと夜露を染み込ませて、宮中の女官たちが身体を撫でて拭う習慣がありました。
 
これは「菊の露を飲んで不老不死になった」という童話の一節から。枕草子や紫式部日記の中から、菊の風習をうかがうことができます。中国では、菊の花には不老長寿の効果がある薬としての信仰があり、鑑賞用としてより先に、薬用として栽培されていました。皇室の紋章ともなっている菊のルーツは、薬用として中国から伝わりました。
またこの日、丘に登って「茱萸:しゅゆ=かわはじかみ」の実がついた枝を、頭に飾って邪気を祓うという習慣もありました。

120824_23.jpg◇重陽の節句◇ 
古く唐代の重陽は、2~3日間にわたって祝われました。これは李白の「九月十日即事」からもうかがい知ることができます。
 
日本には平安初期に伝わり「観菊の宴」という宮中の儀礼となりました。「重陽の宴」「菊見の宴」とも。天皇以下が紫宸殿に集まり、杯に菊の花を浮かべた酒を酌み交わし、群臣に詩歌を作らせたりして穢れを祓い長寿を願いました。
 
江戸時代には、五節句の中で最も公的な行事となり、武家では、菊の花を酒に漬して飲み祝いました。
 
120824_24.jpg◇庶民の重陽◇
旧暦の9月9日は、現在では10月にあたります。ちょうど田畑の秋の収穫の頃で、農山村や庶民の間では「栗の節句」とも呼ばれて「栗飯」などで節句を祝いました。 

江戸時代には盛んに行われていた「重陽の節句」が、現代では廃れているのは、9月では菊が咲く時期ではないことが、原因なのかも知れません。
 
■五節句とは、年中行事を行う中で重要とされた日(節目)のことです。
正月7日=人日(じんじつ)3月3日=上巳(じょうし)5月5日=端午(たんご)★7月7日=七夕(しちせき)9月9日=重陽(ちょうよう)をいいます。


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
重陽と菊は、切っても切り離せないものです。このように、季節の草花と暦を重ね合わせて暦日にした例は「八朔」など他にもあります。明治以来、新暦になって廃れていく節会や撰日など、季節柄意味が伝わらないものが数多くあります。
歴史の中で育まれた、日々暦の意味を知りましょう。世知辛い世の中で、今日という日の意味を知る心のゆとりが欲しいものです。
旧暦の9月9日で旧重陽です。全国的に菊の花が咲くころで重陽の宴や伝説と一致します。
唐の代から不老長寿、無病息災は祈願されていたようです。
医学が進歩した現代でも健康維持は大切な目標です。お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月9日「国際文通週間」です。■
141103_20.jpg国際文通週間(International Letter Writing Week)の理念とは、文通によって相互理解を深めることで、世界の平和に貢献しよう。を理念にしています。
国際文通週間は国際的に共通した週間で、万国郵便連合(UPU)結成日とほぼ同じ時期10月9日を含む1週間に設定されている国が一般的です。
日本やタイでは国際文通週間記念切手が発売さます。

昭和32年(1957)にカナダのオタワで開催
された、第14回万国郵便連合大会議『世界の人々が文通によって文化の交流に努め、世界平和に貢献しよう』という趣旨のキャンペーン設置が決議されました。
世界的に見れば「国際文通週間」をテーマに毎年記念切手を発行している国には日本とタイ王国があります。
日本は1958年から毎年記念切手が発行されています。
日本の国際文通週間切手は、当初は手紙をテーマとした切手を単発で発行される予定でしたが、歌川広重の東海道五十三次「京師」が採用されたことから好評を博し、以来毎年発行されている恒例のシリーズ切手となりました。

141103_21.jpg▼日本の国際文通週間切手

このように「世界の人々と文通する」キャンペーンなので、発行される切手の額面は国際郵便料金に対応しています。
また切手には"International Letter Writing Week"の英文が入っているほか、発行した年号が西暦で入れられています。
尚、日本切手には元号法が制定された1979年以降は切手発行年を西暦と元号とが併記されています。
現在も国際文通週間記念切手は西暦のみで表記されているのですが、シートの余白には発行年月日が元号で表記されています。

▼国際文通週間のテーマ

1958年―1962年:東海道五十三次
1963年―1969年:葛飾北斎・冨嶽三十六景
1970年―1972年:明治文明開化期の錦絵
1973年―1981年:鳥を描く大和絵
1982年―1987年:日本人形 
1988年:歌舞伎の役者絵 
1989年―1993年:絵巻物 
1994年―1995年:屏風絵 
1996年―1999年:花鳥画と浮世絵 
2000年―2009年:東海道五十三次
2006年は国際連合加盟50周年記念 オリジナルデザイン切手採用 
2010年~日本画の美女作品

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

10月に入り平成28年の「国際文通週間」は「十三夜」が含まれます。二日後には寒露で秋の気配が本格化します。
季節の変わり目で、急に冷え込んで一日中寒い日もあり、体調を崩し易い季節です。
お風邪などお召しにならないようお体ご自愛専一の程

筆者敬白
八木宏之プロフィール
セントラル総合研究所・八木宏之
株式会社セントラル総合研究所
代表取締役社長

連帯保証人制度見直し協議会発起人。NPO法人自殺対策支援センターLIFE LINK賛同者。
平成8年、経営者への財務アドバイスなどの経験を活かし、事業再生専門コンサルティング会社を設立。以来14年間、中小企業の「事業再生と敗者復活」を掲げ、9000件近い相談に応えてきました。
事業再生に関わる著書も多く出版。平成22年5月『たかが赤字でくよくよするな!』(大和書房)など多く出版。平成14年、『借りたカネは返すな!』(アスコム)はシリーズ55万部を記録しました。
著書の紹介はこちらから。

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