二十四節気は1年を24の節に分け、節気ごとに命名して気候の変化、推移を知り、社会や生活の中で季節感を役立てるものです。

10月のお便り

10月31日「ハロウィーン」です。■
11月1日はキリスト教のすべての聖人の祝日「万聖節」=「オール・ハロゥズ」(All 
Hallowe'en)です。この前夜祭として行われる祭りが「ハロウィーン」(Halloween) です。
181020_32.jpgケルト人(中央アジアからヨーロッパに渡来)の1年の終りは10月31日。この夜は、死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられ、これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いて過ごします。
 
601年に法王1世が時の宣教師に、ケルト人へキリスト教改宗の策として「ケルト人の信仰から来る法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさい。このように広めなさい」と言ったのがハロウィーンになったきっかけです。
 
111028_1.jpg墓参し、蝋燭をつけるという地方もあり、墓地全体が大きなランタンのように明々と輝くさまは、日本の盆迎え火や送り火にも似ています。
 
アメリカでは、クリスマスに次ぐ大イベントで、かぼちゃをくり抜いたランタンを作り、魔女やお化けに変装した子供達が「ご馳走しないと悪戯するぞ」などと言いながら家々を回ってお菓子をもらいます。
 
ハロウィーンのシンボル「かぼちゃのお化け=ジャック・オー・ランタン」は、アイルランドに住む酒飲みのジャックという名の男の話に由来。ジャックは悪魔を騙して酒代を作ったり、木の上から降りれないようにして悪魔に悪戯していました。
 
121028_20.jpgジャックは死んだ後も天国でもイタズラしたり酒を飲んでいて天国を追放されてしまいます。地獄に行くと今度は悪魔がいて、地獄にも入れてもらえません。天国でも地獄でもない暗闇を彷徨う事になってしまったジャックは、悪魔にもらった火の塊りを、カブの中に入れて提灯を作り、それを明かりにして今も彷徨っているのだそうです。アメリカでは、かぼちゃがたくさん採れたので、かぼちゃ提灯になりました。かぼちゃの顔はドクロがモデルです。
 
お化けに変装するのは、家の周りにいる悪霊をビックリさせるためです。いわゆる魔除けですが、いつの間にか子供達が仮装して近所の人を脅してお菓子をねだります。決まり文句は「Trick or treat!」(何かくれないと悪戯するぞ!)
 
■10月31日「世界勤倹デー」です。■
181020_29.jpg大正131924)10月31日、イタリアのミラノで開催されていた国際貯蓄会議の最終日に、この日を「世界勤倹デー」とすることが採択されました。
日本では、昭和27年(1952)に加わって、10月30日を「世界倹約デー」としました。
  
 戦後の高度経済成長の中で、まるで消費をすることが美徳のような感じにさえなった現代に、「勤倹:きんけん」などと言う言葉は忘れかけていた懐かしい言葉のような気さえします。
「勤倹」とは、勤勉で倹約につとめるさまをいい、「勤倹貯蓄」などといった使い方をします。
「倹約:けんやく」はかつての大量生産・大量消費、更には昭和末期から平成初期のバブルの時代には、ほとんど死語になっていました。

しかしバブル崩壊後の失われた20年と呼ばれた長期不況のなかでは、地球規模の環境の問題が叫ばれ、再び「節約」や「倹約」が一つの流行になったように思えます。
特に平成23年(2011)の東日本大震災からは、全国的に夏の「節電」「省エネ」が当たり前になっています。
蛍光灯から消費電力の少ないLED照明や、ハイブリッド車の普及など省エネが一般化して現在に至っています。
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「勤倹」や「倹約」という言葉からはさまざまなイメージされますが、「貯金」もそのひとつです。私たち日本人は、「勤倹」の名のもと世界でも貯金の好きな国民であることは良く知られています。
その目的はいったい何でしょうか。 一つには大きな買物、旅行、結婚、といったような、使い道と金額がはっきりしたものがあります。子供の教育・結婚資金、自分自身の老後のための資金などもその一つといえましょう。

 
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もう一つは「万一の時のため」というもので、病気、事故、災害といった予期せぬ出来事に備えるためです。これは必要になる金額も時期もハッキリしません。起ってみないと解らないものです。
そのほかにも「貯金が目的で増えてゆくことが楽しみ」という方々もいますが、これは1つの趣味の範囲ともとれます。

◇◇◇編集後記◇◇◇

大正時代に制定された「世界勤倹デー」です。
今日では、勤倹デーは推進する団体もなく存在も一般的ではありません。あえて言えば「ゆうちょ銀行」の前身の郵政省でしょう。日本は無資源国です。しかも耕地も狭く国土の8割が山間部で、豊かになるには圧倒的に不利な国土です。
この国が繁栄するには勤倹、倹約、節約、省エネといった事が一人一人に根差してなければ、今の繁栄は続かない事でしょう。 今日を機会に倹約について近隣の方々話し合ってみましょう。
筆者敬白

■10月29日「福岡、香椎宮 秋季例祭」です。■
181020_27.jpg香椎宮:かしいぐう」は、仲哀天皇9年(200)神功皇后が自ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源と伝わります。四柱の御神体である仲哀天皇神功皇后応神天皇住吉大神を御祭神として祀ります。

「香椎」の名は、敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来。香椎廟。香椎神宮と呼ばれることも。

養老7年(723)神功皇后自身の神託により、朝廷が社殿の造営を始め、翌年の神亀元年に竣工されました。この2つの廟をもって「香椎廟」とします。延喜式神名帳の記載はありませんが、日本書紀の続編とされる「続日本紀」などには香椎廟・香椎宮・樫日廟などが書かれています。

明治時代に官幣大社となり、終戦までは勅祭社に指定され、現在でも十年に一度「吉日」を選定し、宮内庁より勅使が遣わされています。皇室の崇敬篤く本朝四所の一つに数えられ、神功皇后自らが植えられたという御神木は「ちはやふる香椎の宮のあや杉は神のみそきにたてる成けり」(新古今和歌集)と詠まれた老木です。香椎宮境内には「不老水」が湧くことでも有名です。

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「秋季例祭」は、秋の神事で、雅楽や舞などが奉納されます。

香椎宮
◇福岡県福岡市東区香椎4-16-1
◇JR「香椎神宮駅」徒歩3分
◇「福岡IC」~10分
◇参考ブログ
http://www.ne.jp/asahi/hayakawa/5633/page024.html
◇不老水参考http://www.ajkj.jp/ajkj/fukuoka/fukuoka/kanko/kasiigu/kasiigu_furosui.html

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◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
香椎宮には不老不死の「不老水」が湧く水源があります。由緒は武内宿禰(たけうちのすくね)が、この湧水を天皇陛下への料理に使い、普段の食事やお酒を作るのにこの水を使っていました。そのおかげか武内宿禰は300歳とも360歳ともいわれるほど長寿だったと伝わります。
湧水は本殿から300mほど住宅街を経て山の手に行ったところと案内があり、水源には祠が建てられています。
参詣の際には是非お持ち帰る下さい。取り決めで1人2リットルまでだそうです。
筆者敬白

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■10月29日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。

江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。


このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■10月29日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
10月節の「一粒万倍日」です。暦の上では、二十四節気「霜降」を過ぎ、秋の気配が本格化してきました。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月28日「速記記念日」です。■
181020_25.jpg「速記法」とは、話す言葉をそのまま記号化して書き取ってゆく手法のこと。会議や討論会などの記録を取る手段として考案された方法です。ヨーロッパでの歴史が古く、古代ギリシャ時代には既に使われていました。


日本で最初に速記文字を開発したのは、田鎖綱紀(たくさりこうき:1854~1938)「田鎖式」と呼ばれます。明治15年(1882)10月28日に日本橋の「小林茶亭」で速記法の講習会を開いたのを記念し「速記記念日」として定められました。


他に、早稲田式、中根式など速記の文字は現在80種類ほどあるといわれますが、速記法の検定では速記記録したものを一定時間内に反訳する正確度を問うもので、速記の方式は何でも構わない事になっています。


181020_26.jpg衆参両議院で使用されている速記は、それぞれ衆議院と参議院の速記者養成所で訓練を受けた後に試験に合格した人が行っています。第一回帝国議会から速記録が残されています。速記者は通常2名置き、発言のみでなく、ヤジや発言者の態度・様子なども同時に書き留めているそうです。


速記者は速記文字から通常文字への反訳の際、固有名詞や専門用語の調査、簡単な文法ミスの修正、不要な単語のカット、言い間違いの修正なども行います。この作業を「整文」といい、技術者の腕の見せ所です。


近年は技術者不足から次第に録音で記録し、後でテープ起こしを依頼するという方式に移行していく傾向が見られます。

■10月27日~11月9日「読書週間」です。■
181020_24.jpg読書週間(どくしょしゅうかん)とは、10月27日から11月9日までの2週間にわたり、読書を推進する行事が行われる期間のことです。

▼大正13年(1924)に日本図書館協会が11月17~23日までの「図書週間」を制定していました。
▼昭和8年(1933)には「図書館週間」と改称ました。この頃、出版界では「図書祭」が開催されていました。
▼昭和14年(1939)には大東亜戦争の影響で、「図書館週間」「図書祭」とも中止された経緯があります。
▼昭和22年(1947)終戦後、日本出版協会、日本図書館協会、取次ぎ・書店の流通組織、その他報道・文化関連団体30あまりが参加して「読書週間実行委員会」が結成され、11月17日から11月23日までの第1回「読書週間」が行われました。 
▼期間が一週間では惜しいという風潮の中で、2回目からは10月27日~11月9日までの文化の日を挟んだ2週間となり、「読書週間」は2週間で今日まで続いています。 
▼昭和34年(1959)11月に、読書週間実行委員会の任務を引き継いで「読書推進運動協議会」(読進協)が発足しました。

公益社団法人 読書推進運動協議会

昭和20年(1945)の終戦直後、戦後の食糧不足の中、食べるのもやっとという日々にもかかわらず、出版活動は活発に動き出していました。
民間でも読書欲は極めて高く、その機運を感じとった出版社・図書館・取次・書店・報道・文化関連各団体約30が「新生日本を文化国家に」との合い言葉のもと、1947年(昭和22年)に読書週間実行委員会を結成し、実施したのが現在の「読書週間」の始まりです。
終戦直後当時の反響は大きく「読書週間」は今日まで継続されています。
141027_21.jpg今までは、「読書週間」のたびに実行委員会を作っていたのでは、その期間だけの運動に終わってしまいます。そこで年間を通して読書運動を推進していく組織の必要性から、「読書週間実行委員会」を発展させ、日本書籍出版協会・日本雑誌協会・教科書協会・日本出版取次協会・日本書店商業組合連合会・日本図書館協会・全国学校図書館協議会の7団体の総意によって、読書推進運動協議会(読進協)昭和34年(1959)11月に設立されました。

その後、読書推進運動協議会は、昭和44年(1969)10月に社団法人に改組、平成25年(2013)4月に公益社団法人に移行しました。 公益社団法人 読書推進運動協議会では、国民的行事として定着した春の「こどもの読書週間」秋の「読書週間」を主催するだけでなく、「敬老の日読書のすすめ」「若い人に贈る読書のすすめ」など、年間を通じて読書運動を展開。読書普及について一般の関心と理解を深めるための活動を続けてきました。

 関連他団体と協力して、「子どもの読書推進会議」の活動を進めて子どもの読書啓蒙活動を展開。全国各都道府県の県立図書館を中心に、県内の読書運動の協力組織として各都道府県読進協の設置を推進、現在41の各都道府県の読進協と手を携えて事業を推進しています。

 
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布川角左衛門◆ 明治34年(1901)~平成8年(1996) 
昭和3年(1928)岩波書店に入社。1958年栗田出版販売(当時=栗田書店)取締役に就任。後に社長を務め、出版界で広く活躍された。

終戦直後の昭和22年(1947)に読書週間実行委員の一人として「読書週間」の発足に力を傾け、以来、読進協の発足時に常務理事・読書週間委員長、昭和44年(1969)に社団法人化して以来は理事として、読進協の活動の精神的支柱の役割を果たす。

 個人で収集した膨大な図書・資料の多く(約2万5千点)は国立国会図書館に寄贈され、現在「布川文庫」として公開されている。

◇◇◇編集後記◇◇◇

明治時代から読書の大切さを訴えてきた方々がいて、文化国家への努力の兆しがあったと思うと、現在の社会の形が明治時代から息づいていたのだとの感慨深い感傷を覚えます。あまり有名ではない団体の影の努力、すなわちたゆまぬ努力を知るいい機会かもしれません。
筆者敬白
   

■10月26日「宮崎 神宮例祭・ご神幸祭」です。■
121017_23.jpg宮崎神宮:みやざきじんぐう」は、神武天皇を祀る神社で「神武さま」と呼ばれ親しまれています。旧社名:宮崎神社、宮崎宮など。

筑紫を開拓した「健磐龍命:たけいわたつのみこと=神武天皇の孫」の創建。正確な造営時期や由緒は不明ですが、建久8年(1197)地元の地頭・土持太郎信綱により社殿が造営されたと伝わります。

神武天皇に対する崇敬により、歴代の領主から深い崇敬を集め、明治維新により神武天皇の最初の宮の地として重視されるようになりました。

明治31年(1898)「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から多くの寄付を集めて現在の社殿が整備され「宮崎神宮」と改称。社殿は、伊勢の神宮と同じ神明造です。

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10月29・30日は「宮崎神宮大祭」(神武天皇御降誕大祭会)で、崇敬者からは「神武さま」と呼ばれ親しまれています。

御神幸祭恒例の「神賑行列:しんしんぎょうれつ」には約1000人が参加。宮崎神宮から瀬頭の御旅所まで、神賑行列が練り歩く宮崎の恒例行事で、秋の風物詩となっています。沿道では多くの観光客をはじめ見物客で賑わいます。

宮崎神宮
◇宮崎県宮崎市神宮2-4-1
◇JR日豊本線「宮崎神宮駅」徒歩10分
◇公式HP
http://miyazakijingu.jp/

■10月26日「原子力の日」です。■
181020_22.jpg原子力」とは、原子核変換により得られるエネルギー(核エネルギー)のことです。または、そのエネルギーを得る方法のことをいいます。

原子核反応により発生するエネルギーは、石油石炭など化石燃料によるエネルギーに比べて桁違いに大きいものです。

昭和38年(1963)10月26日、茨城県東海村「日本原子力研究所」の動力試験炉が、原子力による発電に成功しました。また、昭和31年のこの日、国連の専門機関の一つである「国際原子力機関」に加盟したという日でもあり、これらを記念して「原子力の日」が設けられました。

原子力の利用目的には、「平和利用」および「軍事利用」があります。原子力の利用目的を平和利用に限るための国際機関としてIAEAがあります。

日本における原子力の研究開発及び利用は、「平和の目的に限定」し、民主的な運営のもとに自主的に行うもので、その成果を公開して国際協力に資するという原子力三原則があります。

原子力の平和利用とは核分裂や核融合で生じる「熱エネルギーの利用」のことを指します。平成6年6月現在で世界の30カ国または地域で原子力発電が行われ、日本では54基の原子力発電所が稼働し、日本の発電量の31.2%を原子力発電が占めるまでになっています。

原子力の平和利用のもう一つは「放射線」の利用。医療用のX線撮影は診断には欠かせない手段の一つとなっています。

◇日本初の原発事故◇
181020_23.jpg平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で、四基の原子力発電所は、水素爆発からメルトダウンという痛ましい事故被害に遭いました。周辺30kmの方々は避難を余儀なくされています。平成24年当初は日本全国の原子力発電所が点検の為に停止しました。

なんと日本中にある54基全ての原発が停止したのです。翌平成24年(2012)福井の大飯原発が、関西圏の夏場の電力事情を理由に稼動を開始。その時点で原発事故調査が終わってなかった事から、大きな社会問題になりました。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
福島原発の事故以来、自然エネルギーのあり方が問われています。九州電力の川内原発が稼働しました。東日本大震災以来初の稼働です。
近年注目されている自然エネルギーは、これからの技術で、すぐに取って代われるものではありません。
社会が原子力に過敏になりすぎている感もありますが、技術革新のには一定の理解と時間が必要です。
筆者敬白

■10月26日「天理教本部 秋季大祭」です。■
111017_7.jpg天理教:てんりきょう」とは、日本で江戸時代末に成立した新興宗教の一つで、中山みきを教祖(おやさま)とする宗教団体です。教祖は90歳で亡くなり、肉体としての身は隠しましたが、その魂は今でも現世に生きて人々の暮らしを見守っているという信仰があります。

天理教の教えでは、人間の命の発祥地の中心を「ぢば:地場」と称し、教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めています。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られ「おぢば」と呼ばれています。

人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるということから「おぢばがえり」と呼んでいます。天理駅や天理市内の信者詰所等には「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が立てられています。

120119_18.jpg奈良県天理市は、天理教とともに発展した町で、市内には天理教本部をはじめとした宗教施設が多く立地します。日本最古の山の辺の道が通じ、石上神社、長岳寺、大和神社など、由緒ある名刹に古墳など数多くの歴史資産が点在する古代史の里です。

天理市内にある「天理教本部」は、神殿周辺を中心に教化教育、宿泊、広報関係、医療関係など、数多くの施設が設置され、信者だけでなく一般の人々に開放している施設もあります。毎月の祭典日や週末には、大勢の参拝者で賑わいます。

天保9年(1838)10月26日に天理教の教えが始まった事にちなんで、毎年10月26日に秋季大祭が行われます。教祖を慕う多くの人々が、世界中から帰り集います。

天理教教会本部
◇奈良県天理市三島町271

土用といえば「土用の丑の日」、鰻の蒲焼を思い浮かべます。

110730_13.jpg蒲焼が普及したのは江戸時代のことです。江戸時代後期に、あの平賀源内が鰻屋に頼まれて「土用の丑の日に鰻を食べると暑さ負けせず夏バテしない」と江戸中に宣伝したところ大変流行しました。

また、万葉集にも鰻が登場しますが、この頃は蒲焼きではなく単にに焼いて食していたようです。

今回の土用の丑の日は10月24(水)で、二の丑が11月5日(月)です。

「鰻:うなぎ」の語源は「胸黄:むなぎ」から。鰻の調理方法は、東京では「切腹」をイメージするというので腹を切るのを嫌い、背剥きにします。大阪では腹剥きです。また、焼き方も異なっています。

大阪では鰻のことを「う」といいます。そして鰻丼のことを「まむし」といいます。これは、ご飯とご飯の間に鰻を挟んでマブシて食すからで、蛇のマムシに似ているからという理由ではありません。いつしか「マブシ」が「マムシ」に変化したものです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
秋から冬に入る「土用」の期間中の「丑の日」です。やはり季節は違っても滋養には鰻です。10月の土用が過ぎると「立冬」で、秋から冬への季節の変わり目です。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月25日「伊賀、上野天神祭」です。■
上野天神宮」と呼ばれる(通称:お天神さん)菅原神社は、旧上野町六千戸の産土神として、また文学の祖神として、あるいは牛馬の守護神として崇敬される菅原道真公を主神とする神社です。

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古く、上野山平楽寺の伽藍神で、農耕神祇に発祥する神々を祀る神社でしたが、天正9年(1581)天正伊賀乱の後、藤堂高虎(写真)の城下町建設の際に、伊賀上野と上野城の守護神としてこの地に奉遷されました。

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寛文12年(1672)1月、俳諧で身を立てることを決意した俳聖「芭蕉翁」が、その処女作「貝おほい」一巻を社前に奉納され、自らの文運を祈願しています。

毎年10月23~25日に行われる「上野天神祭」は、400数十年前に疫病が流行した際の「悪疫退散」を祈願して厄除けの鬼行列を行ったのが始まりと伝わります。

神輿の渡御に供奉する百数十体の鬼行列や、祭囃子

を奏でながら、これに続く豪華絢爛な九基のだんじりに400年の伝統を伝えます。県の無形文化財に、平成14年(2002)2月12日に国の需要無形民俗民族文化財に指定され、さらに平成28年(2016)12月1日に、全国33ヶ所の「山・鉾・屋台行事」の一つとして、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

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菅原神社(上野天満宮)
◇三重県伊賀市上野東町29
◇近鉄「上野市駅」徒歩5分
◇名阪国道「上野東IC」5分
◇伊賀上野天神祭り:
http://www.igaueno.net/maturi/tenjin/index.html
◇上野天満宮参考:http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/mie/igasi/ueno/ueno.html

10月25日(旧9月17日)「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

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文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

■10月24日「国連の日」です。■
121015_30.jpg国際連合」は第二次世界大戦を契機として生まれた国際平和機構です。国連の日とは、国際連合憲章が発効した昭和20年(1945)10月24日を記念する日のことです。

日本は昭和31年(1956)12月18日、チュニジアに次ぐ第80番目の加盟国として国連の加盟しました。
発足当時、国連に加盟した国は
51か国でした。その後、加盟国は増えていき、最近では、平成23年(2011年)に南スーダンが加盟し、現在193か国が加盟しています。

国連の活動目的は、
①全世界の平和を守ること。②各国の間に友好関係をつくり上げること。③貧しい人々の生活条件を向上させ、飢えと病気と読み書きの出来ない状態を克服し、お互いの権利と自由の尊重を働きかけるように、共同で努力すること。④各国のこれらの目的を達成するのを助けるための話し合いの場となること。
とあります。

国連本部は、アメリカのニューヨークにあります。
ここは各国の話し合いの場としてだけでなく、人気の観光名所にもなっており、毎年、100万人を越える人々が国連本部を訪れています。

訪れた人の多くは、国連が行っているガイド・ツアーに参加してます。これに参加すると、各国の代表が地球的な関心事項について話し合う会議の様子や、加盟国から寄贈された美術品、壁画、彫刻なども見ることができます。



◆二十四節気◆平成30年10月23日「霜降(そうこう)」です。◆

131015_22.jpg10月23日20時22分「霜降」です。旧暦9月、戌(いぬ)の月の中気で、天文学的には太陽が黄経210度の点を通過するときをいいます。

霜降:そうこう」とは、秋も末の霜が降りる頃の意で「しもふり」とも言います。

この頃、露が冷気によって霜となり降り始め、ひっそりと秋が深み往き、もの寂しい風趣がところどころに醸されます。冷え込む早朝には霜を見るようになり、一歩づつ冬の到来が感じられるようになります。晴れた日に時折り小雨ほどの秋雨が降り、楓や蔦の葉が見事な紅葉を見せ始めます。

霜降の頃を暦便覧では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説いています。

霜降から立冬までの間に吹く地を這って吹く寒い北風を「木枯らし」と呼びます。

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◆七十二候◆
◆初候「霜始降」(しもはじめてふる):霜が始めて降る。
田園にも霜が降り始める時節。

◆次候「霎時施」(しぐれときどきほどこす):小雨がしとしと降る。
秋も終わりとなる頃で、小雨がしとしとと降ってわびしい時節。霎(そう)=こさめ。雨の音が本意。施す=広い範囲に行き渡らせる。

◆末候「楓蔦黄」(ふうかつきなり):紅葉(もみじ)や蔦(つた)が黄葉む。
紅葉や蔦の葉が黄葉する時節。黄ばむ=黄葉する。

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◇10月の紅葉◇
全国的には落葉樹の葉の色つきで咲くことを指します。秋になると一斉に見事に紅葉する様子は、観光の名所になっています。カエデ科の数種を特にモミジと呼びますが、紅葉が鮮やかな木の代表種です。また赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶこともあります。これらをハッキリと区別できない場合も多く、総称して「紅葉」として呼びます。

同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがあります。葉がどうして色づくのかについては明らかになっていません。 なお、常緑樹でも紅葉するものがありますが、緑の葉と一緒の時期だったり、時期がそろわなかったりするため目立ちません。

秋になると草や低木の葉も紅葉し、それらを総称して「草紅葉(くさもみじ)」ということがあります。 日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下します。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「
紅葉前線」と呼びます。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月で、見頃は紅葉が始まった後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで続きます。ただし、山間部や内陸では少し早目です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
霜降の時期は秋から冬への「夏の土用」の時期です。この時期は無理に問題を解決しようとせず、受け流すことが肝要です。土用の作用で万物が腐する事から、問題が混とんとしてしまいます。
無理をせず受け流す余裕を身につけましょう。
今年は二の酉までの年です。酉の日の参拝と日ごりから火廻要慎をこころがけましょう。

皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月23日「電信電話記念日」です。■ 181017_13.jpg
電信電話記念日(でんしんでんわきねんび)は、明治2年(1869)10月23日に、東京~横浜間の電信線架設工事を着手したことにちなむ毎年10月23日の記念日です。

 昭和25年(1950)5月に当時の電気通信省が、電信電話記念日を制定しました。
元々電気通信省の前身の逓信省(ていしんしょう)においては逓信記念日が制定されていました。その逓信記念日は4月20日で、郵便事業の創業にちなんで選定されたものでした。
記念日事業は電信電話を含む逓信事業全体を包括する内容です。ところが、昭和24年(1949)6月に逓信省が郵政省・電気通信省の2省に分離した際、いままでの逓信記念日である4月20日は郵政記念日として郵政省に受け継がれたので、電気通信省独自の記念日が望まれるようになり、10月23日の電信電話記念日が制定されることになりました。 

当初は電気通信省の省名にあわせて電気通信記念日と称しており、昭和27年(1952)8月から日本電信電話公社(電電公社)に、現業分離後もそのままの名称でしたが、一般的な「電信電話」の呼称を取り入れ昭和31年(1956)からは、日付は10月23日のままで「電信電話記念日」と改めました。 
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 電信電話記念日(でんしんでんわきねんび)は、明治2年(1869)10月23日東京~横浜間の電信線架設工事に着手したことにちなむ日を云われとして、今日まで続いています。 

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇ 
平成の時代には逓信省も、郵政省も、電気通信省も総務省の管轄下にあります。現在の総務省は、本来の「逓信省」の方が正しい名称かもしれません。
10月後半二十四節気「霜降」の頃です。季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■10月22日「京都、平安神宮 時代祭」です。■
181017_15.jpg平安神宮」の御祭神・桓武天皇は、光仁天皇の皇子として天平9年(737)に誕生。天応元年(781)第50代天皇として即位されました。

天皇は平城京の規模が小さく、日本の国都として適していないと察し、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都を移し、さらに最も都に適した処として、延暦12年(793)葛野・愛宕両郡を選んで都の造営をはじめました。翌13年10月22日、新京に移った天皇はここを「平安京」と称せられ、延暦15年に大極殿において百官の拝賀を受けられました。

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桓武天皇は在位25年の間、律令を正し難民を救済文教を興して内政を整えるとともに、広く海外とも交易し我が国の発展に努めました。以来、京都は明治に至る1千余年の間、日本の国都として栄えてきました。延暦25年(806)に崩御。御陵は柏原陵(京都伏見区桃山)。

平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建されました。創建当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。

京都を救ったのは京都復興への市民の「情熱」と、全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育・文化・産業・生活など、すべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。

「時代祭」は、創建当時を伝える祭で、京都の誕生日10月22日に行われます。京都全市域から参加の市民組織・平安講社による「時代行列」は、維新期の西洋兵式教練の鼓笛隊を先頭に、弓箭組、徳川城使上洛式、豊公参朝式、信長の上洛式、流鏑馬、藤原時代の文官の参朝式、延喜式官出陣式、延暦文官参朝式、各時代の女性風俗、平安神宮の鳳輦などの行列が、京都御所建礼門前から平安神宮応天門まで続きます。

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平安神宮
◇京都府京都市左京区岡崎西天王町
◇JR「京都駅」バス「京都会館美術館前」徒歩5分
◇公式HPhttp://www.heianjingu.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年、「季節のお便り」を書いていて、鞍馬の火祭、平安神宮の時代祭の頃なると、めっきり秋の深まりを感じ、北の方から雪の便りが聞こえてきます。
朝夕の冷え込みがきつくなってきました。日中は過ごしやすい日が続いています。油断して風邪などお召しにならないように、お身体ご自愛専一の程
筆者敬白

 

■10月22日「京都、鞍馬の火祭り」です。■
10月22日の昼間は「時代祭」で賑わう京都。夜には、京都三大奇祭の一つ「鞍馬の火祭り」が行われます。日本屈指の火祭りとして有名です。「由岐神社:ゆきじんじゃ」の祭礼で「神楽松明」とも呼ばれます。

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由岐大明神:ゆきだいみょうじん」は、はじめ御所に祀られていましたが、天慶元年に都の大地震、天慶2年には平将門の乱(天慶の乱)と相次ぐ世情不安に、当時の朱雀天皇の詔により、天慶3年(940)9月9日御所の北方にあたる鞍馬の地に、天下泰平と万民幸福を祈念し御遷宮されました。

御遷宮の際、京の鴨川に生えていた葦で松明を造り、道々には篝火を焚き、神道具を先頭に行列の長さ10町(1km)という国家的一大儀式により御勧請。この儀式と由岐大明神の霊験を後生に伝えるため、守られてきたのが火祭の起源です。

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豊臣秀吉の信仰篤く、慶長12年には豊臣秀頼により本殿と拝殿を再建。この拝殿は、中央に通路をとった割拝殿という珍しい拝殿で、桃山時代の代表的建造物でもあります。国の重文に指定。

22日午後8時頃、菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が出揃い、山門前には大小の松明を担いだ若者が集合して一大壮観を呈します。やがて、合図の太鼓と共に青葉の精進竹に張った注連切りの儀が行われます。大松明は石段に殺到し、やがて1箇所に集めて焼き捨てられます。

その後、御輿の前で神幸の儀が行われ、八所大明神・由岐大明神の順で御輿が参道を下ります。山門を下ったところから御輿は車に乗せられ、鞍馬町を巡幸されて御旅所に安置されます。神楽が奉納され、4本の大きな神楽松明が境内を廻ります。諸式の終了は午前0時頃。翌23日午前、還幸祭が執り行われ、鞍馬の火祭は終了します。

由岐神社
◇京都府京都市左京区鞍馬本町1073
◇叡山電鉄「鞍馬駅」徒歩5分
◇HP:http://www.yukijinjya.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
181017_12.jpg毎年、「季節のお便り」を書いていて、鞍馬の火祭、平安神宮の時代祭の頃なると、めっきり秋の深まりを感じ、北の方から雪の便りが聞こえてきます。
あっという間に夏が過ぎ、電車バスを乗ると、共同募金の赤い羽根をつけた方々を見かけます。いつの間にか歳末が近づています。
筆者敬白


■10月21日(旧9月13日)「十三夜」です。■

111003_7.jpg十三夜:じゅうさんや」とは、旧暦9月13日のことで「十三夜月」「十三日月」。特に、十三夜は「のちの月」として十五夜についで美しいとされ、宮中では延喜19年(919)に宇多天皇が十五夜の宴に次いで十三夜観月の宴が催されこれが十三夜のお月見始まりと伝わります。


十三夜は「女名月」といって、宮中に限らず、この日ばかりは女性が幅をきかすのだとか...。農家では「小麦の月見」といって、天気が良く、観月できたら、小麦が豊作になるとされています。秋の収穫を感謝する祭りなどが多く行われます。
◇栗名月、豆名月◇
181015_10.jpg「十五夜」を中秋の名月と呼ぶのに対し、「十三夜」は「栗名月豆名月」とも言います。
十五夜に次いで美しい十三夜の月を拝むと、「成功」や「出世」、「財運」「子宝」恵まれるとも云われています。十五夜は、中国伝来ですが、十三夜は日本古来からの風習で平安時代に広く伝わりました。時期から秋の収穫祭や収穫を祝う秋祭りの1つではないかと考えられています。

◇「片月見」◇
十三夜は、十五夜に次いで美しい月とされ十五夜、のお月をしたら十三夜にもお月見を催すものとされています。これは十五夜のお月見だけをすることを「片月見」、と呼んで縁起がよくないともされていました。

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◇「月待ち」◇
旧暦では十三夜、十五夜、十七夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の晩に、人々が集い(多くは女性のみ)供物を備えて、月を拝んで会食する「月待ち」をする風習がありました。
月待ちの「待ち」は「月の出るのを待つ」ではなく「月をマツル(祀る)」の意です。現在は「太陽暦」(男性:太陽)を採用していますが、「月待ち」の風習から旧暦(太陰暦:女性:月)では、月と女性が尊ばれていたのがわかります。

◇「二十六夜」◇
江戸時代には、正月と7月の二十六夜に、海を臨む高台へ昇り、月だ出るのを待ち徹夜する行事も記録されています。正月、五月、九月、十一月に神事として「観月」する土地や地域が今でも残っています。

各地に「二十三夜塔」や地名があることから、特定の月齢の中でも、「二十三夜待ち」が最も多く行われていました、これは満月の後の半月が特別なものとされていたからです。

■10月21日「宇都宮、二荒山神社 例祭」です。■
121015_25.jpg古く「宇都宮大神宮」と呼ばれた「宇都宮二荒山神社:うつのみや・ふたあらやまじんじゃ」は、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名「宇都宮」を冠して呼ばれます。

下野国一宮式内名神大社である「宇都宮二荒山神社」は、延喜式神名帳に「下野国河内郡二荒山神社」と記され、御祭神に「豊城入彦命:とよきいりひこのみこと」を祀ります。

第十代崇神天皇の第一皇子で、毛野國(栃木県、群馬県)を拓いた郷土の祖神、総氏神様として篤く信仰されます。また、御祭神は武徳にも優れ、古くから武将の信仰も篤く、藤原秀郷公・源頼義・義家公・源頼朝公・徳川家康公などが戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。

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宇都宮は湧き水が多く、江戸時代の人々は主な湧き水七つを選んで「七水」と呼び、名所としていました。「明神の井」は七水の一つで、明治天皇の献茶の湯に使われました。また、この水を使うと書道が上達すると伝わります。

毎年10月21日に「秋山祭」と呼ばれる例祭が行われます。この祭は次週の「菊水祭」に向けて執り行われる祭で、両日とも古式ゆかしい鳳輦渡御行流鏑馬が奉納されます。

宇都宮二荒山神社
◇栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
◇JR「宇都宮駅」西約1km
◇二荒山会館
http://www.futaarayamakaikan.jp/

◇◇◇◇編修後記◇◇◇◇
二荒山神社境内には「明神の井」があります。口に含んでみると甘みのある水です。東京から祐気採り、お水採りの方は北、若しくは北東です。
明神の井参考ブログ
http://photozou.jp/photo/show/418957/37935716
http://ameblo.jp/hibarasan/entry-10949030936.html

 

■10月20日~11月7日「夏の土用」です。■
110716_20.jpg暦の上では10月20日19時58分から「土用」です。
夏の土用を三合の利で「
火墓気」と呼びます。
「土用」は雑節の一つで、太陽が黄経27度、117度、207度、297度にある時と定義され、四季の変わり目に配されています。
 
今月は乾方位「戌月」土用の月です。夏~秋が冬の季節に入れ替わる期間です。夏が完全に消滅するところから「夏の土用」といいます。これを三合の理では「寅月(2月)より生じて」、「午月(6月)で勢い旺となり」、「戌月(10月)で墓を迎えて暮れて行く様」とあります。
 
特に、夏の「8月」に生じた事柄は、「12月」に壮ん(旺ん)となり「翌4月」に終わりを迎え結果が出ます。既に起こっていて、今月中に終結しそうにない事柄は「11~12月」には結果が出るように運ぶということになるのです。

「時を得る者は昌え、時を失う者は亡ぶ」(時の運をうまく味方につけて追い風に乗る者は栄え、逆に追い風を見逃して向かい風に帆を揚げるようでは、苦難ばかりで、滅んでしまう。)タイミングがいいことを、時の氏神が味方をした。などと言い時を味方につけるとき、実力以上の成功に恵まれるということです。 

万物は「木火土金水:もくかどごんすい」の「五気の消長」によって生成する。と陰陽五行思想で説いています。土用の期間は「土の気」が盛んになり「物を変化させる作用が最も働く期間」ということになります。土を動かすことは勿論ですが、造作、修繕、柱立、礎を置くこと、井戸掘りなど、良くないとされます。部屋の模様変えや押入れの整理も見送りましょう。
 
【土用心得】
土用の期間に入ると、抱えている問題は解決しないといわれています。土用に入る前に方向性を決め、解決しておく事が得策です。とはいっても、もの事が解決せず土用の期間に入ってしまったら、焦らずに成り行きを見守るゆとりを持ちましょう。

【土用の丑の日】
120709_60.jpg土用といえば「丑の日」、鰻の蒲焼を思い浮かべますが、この蒲焼が普及したのは江戸時代のことです。江戸時代後期に、あの平賀源内が鰻屋に頼まれて「土用の丑の日に鰻を食べると暑さ負けしない」と宣伝。大いに流行しました。万葉集にも鰻が登場しますが、この頃には単に焼いていたようです。

今回の「土用の丑の日」は10月24日(水)です。二の丑は11月5日(月)です。

121015_24.jpg■「鰻」(うなぎ)の語源は、「胸黄:むなぎ」から由来。鰻の調理方法は、東京では切腹をイメージするというので腹を切るのを嫌い、背剥きにします。大阪では腹剥きです。また、焼き方も異なっています。

大阪では鰻のことを「う」といいます。そして鰻丼のことを「まむし」といいます。これは、ご飯とご飯の間に鰻を挟んでマブシて食すからで、蛇のマムシに似ているからという理由ではありません。いつしか「マブシ」が「マムシ」に変化したものです。

【土用の明け】
夏の土用が明けるのは11月7日「立冬」です。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
今回は夏~秋から冬に入る「土用」で三合の理では
火墓気と呼びます。土用の期間は、上手くいかない期間とされています。突然の災難にに遭ってしまうかたもいます。
また結果が出ない事柄の結論が出る期間とも受け取れます。「運」の良し悪しは、生活していれば誰にでも当てはまりますが、「運気」は自然界の影響を受けているので、大自然の法則を知って、自然の恩恵を最大限活用しましょう。
暦を読み解くことは、大自然の叡智を身に付けることなのです。

秋も深まり季節の変わり目です。体調を崩しやすい時節柄なので、健康管理には十分注意しましょう。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月20日「皇后誕生日」です。■
121015_22.jpg日本の今上天皇の皇后・美智子陛下(旧名・正田美智子)は、昭和9年(1934)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(富美子と改名)夫妻の長女として、東京府・東京帝国大学医学部附属病院に於いてご誕生されました。お印は白樺。聖心女子大学文学部外国語外国文学科ご卒業。日本赤十字社名誉総裁。国際児童図書評議会名誉総裁。
 
昭和32年(1957)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文
学)を首席で卒業。同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたトーナメント大会にて、当時皇太子だった明仁親王と出会います。「テニスコートの出会い」として知られます。その後もテニスを通して交際を深めたと伝わります。

 
明仁親王は美智子さんの写真を「女ともだち」と題して、宮内庁職員の文化祭に出品しました。皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代に、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようです。資産家の令嬢とはいえ、旧華族出身でない事から、香淳皇后、高松宮妃喜久子、秩父宮妃勢津子、常磐会会長松平信子らをはじめ、猛烈な反発を受けています。
 
昭和33年(1958)ベルギーに於いて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。
 
111016_3.jpg同年11月27日、結婚が皇室会議に於いて満場一致で可決されました。記者会見にて記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派な方で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなりました。また第一印象について「ご清潔な方」とも。清楚で知的な美智子の姿は、絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られ、「美智子さまぬりえ」が発売されるなど、当時はミッチー・ブームが起こりました。
 
昭和34年(1959)4月10日、皇太子明仁親王と結婚。明治以降初めての民間(士族以下)出身の皇太子妃となりました。1989年1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后に。
 
国民に開かれた皇室の想起者といわれていますが、数々の発言や行動に見られるように、伝統を守ることを大切にしています。また、訪問相手や周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は、多くの人々に感銘を与えています。
 
181010_15.jpg平成30年(2018)10月20日の今日84歳の誕生日を迎えます。

戦前は皇后誕生日を「地久節」と呼び、皇后陛下の誕生日を祝う日でした。一部の女子校などでは、休日にして祝われていたようです。昭和23年(1948)に、地久節は皇后誕生日に改称されました。

宮内庁◇東京都千代田区千代田1-1

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
戦前は「地久節」と呼びました。祝日の呼び方ひとつで歴史や社会背景を感じます。
10月も下旬で木枯らしの吹く11月はすぐそばです。秋も深まってきました体調管理の難しい時期です。お風邪などお召しにならないよう、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月20日「釜石、曳舟祭」です。■
121015_20.jpg尾崎神社:おざきじんじゃ」は、祭神に日本武尊(やまとたけるのみこと)、綿津見神(わたつみのかみ)、閉伊三郎源頼基公を祀ります。
 
奥の院・奥宮・里宮から成り立ち、「おさきさん」と呼ばれ親しまれ、漁業・農業・商業・工業を営む人々から篤く信仰されています。
 
111011_21.jpg境内にある「釜石鎮魂社」は、国難に殉じた諸霊をはじめ、大東亜戦争の釜石鉄砲射撃において絶命された人の慰霊のため、平成元年に造営されました。
 
曳舟祭」は、年に一度奥宮より御神体を船にて奉迎し、奥宮御旅所へ参るお祭りで、東北で最も古い船祭りと伝わります。先達露払い年行司太神楽船・御座船(お召船)、供奉船が船列を整え、湾内3周の海上渡御が盛大に行われます。
 
121015_21.jpg曳舟にてお迎えした御神体は翌日、大神輿に遷されます。総勢100名の担ぎ手の奉仕の下、年行司太神楽の露払い・釜石虎舞の供奉・町内奉納山車行列にて市内を巡幸します。終えて再び神輿を替え、奥宮にお送します。
 
尾崎神社
◇岩手県釜石市浜町3-23-27
◇JR釜石線「釜石駅」車10分
◇参考http://cadatte-kamaishi.com/sinsai/wp-content/uploads/2011/10/cadattetimes004-2.pdf
※お問い合わせ※⇒y釜石市役所 Tel:0193-22-2111(代表)

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

東日本大震災の被災地で、
復興も順調で震災前同様規模の祭礼です。とはいっても東日本大震災の傷跡は深いものです。

釜石の方々の心意気での開催です。是非復興した釜石を見に観光にお出かけ下さい。
時節柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月20日「えびす講」です。■
111016_4.jpgえびす講:えびすこう」は、商家が商売繁盛を祝って、福徳の神である「恵比寿様」を祀ることです。大国主命
事代主命(ことしろぬしのみこと)、あるいは蛭子(ひるこ)を祭り、商売繁盛の神として広く信仰されています。「戎講」「夷講」「恵比寿講」

旧暦10月は「神無月」で、日本中の神様が出雲大社に出掛けいます。その留守を預かる留守神「恵比寿」を気の毒に思い、特別なお祭りによって慰めようということから始まったのだと伝わっています。地方によって、旧暦10月20日、11月20日、正月20日と異なります。

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昔から関東の商家では10月10日を七福神の一つ「恵比寿神」を祀る日として祝い、恵比寿様に参詣して福運を祈る風習がありました。家運隆盛、商売繁盛を願い、親類知人を招いて大いに祝いました。

関東では10月20日の20をとって「二十日えびす」といい、関西では正月10日にこれを行なうことから「十日えびす」といいます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
えびす神は兵庫県西宮市にある「西宮神社」が有名で、10月えびすよりも正月9~11日のえびす講のが一般的です。えびす祭やえべっさんとも言われています。

■10月20日「誓文払い」です。■

181010_13.jpg誓文払い:せいもんばらい」とは10月20日の恵比寿祭を中心に行われる商家の蔵ざらえのことです。
京都の商家や水商売の人たちは、四条寺町の誓文返しの神「冠者殿:かじゃでん」にお参りします。日頃の商売上やむを得ず人を騙したり、嘘をついたりした罪を祓い神罰が当たらないように祈願していました。

誓文とは、神に誓う誓詞・起請文のこと。嘘偽りの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いです
もともと恵比寿祭とは別のものでしたが、同じ日に行われる為いつしか混同したものです。

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◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
この日は商売上の嘘偽りや人を騙したりした穢れ(けがれ)を祓う日(はらうひ)とされています。
不動産業は1000に3つのホントで「千三つ:せんみつ」と呼ばれます。しっかりと誓文払いをしないといけませんね。 
今日は秋から冬にかけての「土用の入り」で暦の上で季節の変わり目です。 
体調を崩しやすい時期です。時節柄お体ご自愛専一の程 
筆者敬白 

■10月20日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■

一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

120125_15.jpg一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、多い割には見過ごされやすい歴注です。手習い、開店、事始めには最適の日です。
もうすぐ11月、季節は日に日に冬に向かっています。体調を崩しやすい時期です。
皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月19日~「十方暮れ入り」です。
110324_12.jpg十方暮れ:じっぽうぐれ・じゅっぽうぐれ」とは、干支を五行に配当したときに「上下互いに尅(こく)する」干支「甲申~癸巳」までの10日間のことをいいます。但し、丙戌と己丑の日は間日(まび)になります。
今回の十方暮れは10月19日~10月28日までです。

10月19日 甲申=金尅木 
10月20日 乙酉=金尅木
10月21日 丙戌=火生土(間日)
10月22日 丁亥=水尅火 
10月23日 戊子=土尅水 
10月24日 己丑=土和土(間日)
10月25日 庚寅=金尅木 
10月26日 辛卯=金尅木 
10月27日 壬辰=土尅水 
10月28日 癸巳=水尅火


120712_64.jpg十方暮れの「十方」とは、「天地八方」を指します。四正(しせい)方位「東西南北」と、四隅(しぐう)方位「南東・南西・北西・北東」の八方位に「天地」を合わせた十方位のことです。または「十方世界」ともいい私たちが右往左往する現実の世界、すべての方角に無限に存在する世界の全部のことを示します。
 
この十方が「四方八方閉ざされた状態」を「十方暮れ」といい、旧暦の解説書には「途方に暮れるの語呂合わせ」と書かれています。または「十方暗」「十方闇」ともいいます。
 
それにしても、やはり「とほうくれ」と読みたくなるほど、うまくいかなく「途方に暮れる」期間なのでしょう。十方が暗い(暮)ので、天気が良くない日が続きます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「十方ぐれ」は発祥は定かではありませんが、五行説では干支の組み合わせから「相性の合わない日」とされています。この時期、雨が降っても大したことなく、降りそうで降らない曇りがちの(すっきりしない)天気
が続きます。転じて暗雲(問題)が立ち込めているが雨(解決)が降らないという中途半端な状態です。
これは、十方(方位八方向に上と下を合わせて十方)の気が塞がっていて、何の相談ごとも解決出来ない期間とされています。

せっかちさから、業を煮やして事を起こしても逆効果です。解決どころか反対に、こじらせて損失を招く恐れがあります。このような時期には、慌てずに「過ぎるを待つ」のが最大の解決方法です。
筆者敬白

■10月19日「東京日本橋、べったら市」です。■
121013_27.jpg東京日本橋の大伝馬町から小伝馬への通りで開かれる「べったら市」は江戸時代から続く伝統のある市で下町の風物詩となっています。
 
もともとは翌20日の「恵比須講」に使う神像や打出の小槌、懸鯛、切山椒などを売るための市でしたが、いつの頃からかここで売られる「べったら漬」が評判になって、この名が定着してしまいました。
 
べったら」とは、干し大根を麹で浅漬けしたもの。若者が混雑を利用して参詣の婦人に「べったらだー、べったらだー」と呼び掛けながら、着物の袖に「浅漬大根(べったら)」をくっつけ、婦人達をからかったことから「べったら」の呼名になったのだとか。現在では、大伝馬町界隈で様々な露店が300軒程連ねます。
 
111016_1.jpg宝田恵比寿神社は、日本橋七福神の恵比寿さまです。もと江戸城外・
宝田村の鎮守で、徳川家康公の江戸入府の際に、三河から随行してきた馬込勘解由に下賜された恵比寿神像を祀ったもの。

 
慶長11年(1606)江戸城の拡張工事に伴い、宝田、祝田、千代田の三ヶ村は移転を命じられました。そこで馬込勘解由は宝田神社の恵比寿神を奉じ、住民を率いて、現在の日本橋の地に移転しました。馬込勘解由は三伝馬取締役となり、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張等から商人を呼び集めたため、あらゆる物資の集散地として栄えました。
 
宝田恵比寿神社はその鎮守となって商売繁盛、家族繁栄、火防の守護神として広く信仰を集めています。
 
宝田恵比寿神社
◇東京都中央区日本橋3-10-11
◇地下鉄日比谷線「小伝馬町駅」
◇由来、参考ブログ
http://www.nihonbashi-edoya.co.jp/bettara2.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
べったら市は宝田恵比寿神社の大祭です。
宝田恵比寿神社は火の守護神と伝わります。江戸時代には火の不始末による火事は後を絶たず、大火事の原因でした。

時代は変わっても、これから暮れにかけて不審火は大火事になりかねません。暮れにかけて酉の市があります。皆様くれぐれも火の用心
筆者敬白

■10月18日「東京、靖国神社 秋祭」です。■
111012_23.jpg靖国神社:やすくにじんじゃ」は、日本が関係した戦争に於いて、朝廷や政府側で戦没した軍属らを含む軍人を、祭神として祀る神社です。靖国神社は神社本庁には属していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。

明治2年(1869)「東京招魂社:とうきょうしょうこんしゃ」として創建されましたが、明治10年の西南戦争をきっかけに「神社」として定まりました。
 
明治2年(1869)「東京招魂社」として創建されましたが、明治10年の西南戦争をきっかけに「神社」として定まりました。
 
明治初期には多くの内乱が起こりました。その原因は徴兵令と地租改正条例にあるといわれています。内乱の中で最も規模が大きく、内乱の最後となったのは、西郷隆盛率いる旧薩摩藩の士族達が起こした「西南の役」です。この内乱の原因になったのは「廃刀令」で国民皆兵を原則とした徴兵令によって、軍人・武士としての士族達の特権が奪われてしまったからです。西郷隆盛達が鹿児島から熊本城へ向かった軍勢はおよそ1万5千。対し迎え撃つ新政府軍は6万8千余名にも及びました。
 
121013_25.jpg東京招魂社は、明治12年6月4日「別格官弊社」に加えられ、「靖国神社」と改称しました。西南戦争を経て、国家的統一を確かなものにするために命を落とした新政府の兵隊たちの霊を合祀したとき、招魂社は「国を靖(安)んずる場」、靖国神社へと変わっていたのです。それからちょうど10年後の明治22年の2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。
 
靖国神社は、「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものです。
 
10月17~20日「秋季例大祭」が行われます。18日「当日祭」では、全国から集った遺族・戦友・崇敬者をはじめ、各界代表者が多数参列のもとに、南部宮司以下の神職が御本殿に進み、御饌、御酒、海の幸、山の幸等の神饌をお供えして楽を奏し祝詞を奏上。戦歿者246万6千余柱の「みたま」を慰め、平和を祈念します。また、勅使が天皇陛下よりの御幣物を供え、御祭文を奏して参拝します。
 
181010_11.jpg昇殿参拝
10月17日:午前8時~午後2時
10月18~20日:午前11時30分~午後3時

靖国神社
◇東京都千代田区九段北3-1-1
◇地下鉄「九段駅」徒歩5分
◇公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
靖国神社の秋例大祭を迎えると、東京でも秋が深まったように感じます。また、幕末から明治にかけて倒幕、新政府になった事は変えられない歴史です。例大祭を機に近代の歴史をひも解いてみましょう。
安倍政権の経済対策は項を為しています。それ以前に必要な経済対策を打たず放置したことが、長引く不況の原因になっています。10~20年先の近い将来も見えない社会では、安心して消費もできません。
命を賭して、今の日本を作り上げた戦没者のためにも、将来のために今、何を為すべきか一寸立ち止まり、考えてみる時です。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月18日「東京、浅草観音 菊供養」■
111012_24.jpg聖観音宗総本山「浅草寺:せんそうじ」の本尊は聖観音、山号は金龍山浅草寺(あさくさでら)と呼ばれ親しまれ、江戸時代には徳川家康が幕府の祈願所に指定し、下町文化の中心的存在になりました。江戸三十三箇所観音霊場の札所1番。

大化元年(645)勝海上人という僧が寺を整備し、夢告により本尊を秘仏と定めたといわれます。さらに平安時代初期の天安元年(857)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が「お前立ち」の観音像を造ったと伝わります。観音像は、高さ一寸八分(約5.5cm)の金色の像であると言われますが、公開されることのない秘仏のためその実体は不明です。

121013_26.jpg菊供養」は、信徒の持参した献菊と、献菊されていたもの(下供菊)とを交換して供養するものです。供華会(くうげえ)ともいいます。

始まりは明治30年(1897)10月11日(旧暦9月9日:重陽)。謡曲「菊慈童」には「此の妙文を(観音経八句の偈の中四句)菊の葉に、置く滴りや露の身の、不労不死の薬となって、900歳を送りぬを、汲む人も汲まざるも、延ぶるや千年(ちせ)なるらん」とあります。これは「重陽の宴」や「菊の被綿(きせわた)」の行事となっています。

浅草寺では菊の出廻る頃、10月18日の観音薩捶の縁日を期して「菊供養」を行います。

浅草寺
◇東京都台東区浅草二丁目3番1号
◇東京メトロ・都営地下鉄「浅草駅」徒歩5分
◇浅草観音HP
http://www.senso-ji.jp/
菊供養会
http://www.senso-ji.jp/annual_event/kikukyoue.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
旧暦での重陽の節句近くは、ちょうど菊の開花時期です。菊人形の披露など菊に関する催しやイベントが各地で開かれます。10月は秋祭りのピークで、菊供養、重陽の節句など収穫を祝うものが多いようです。
朝晩が冷え込みます。ひと雨がごとに冬の気配が濃くなります。お風邪などお召しにならないようにお体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月18日「統計の日」です。■
181014_10.jpg「統計の日:とうけいのひ」は、昭和48年7月3日の政府の閣議了解によって10月18日に制定されました。謂れは日本最初の近代的生産統計である「府県物産表」に関する太政官布告が公布された明治3年9月24日を、現在の太陽暦グレゴリオ暦1870年10月18日)に換算して、10月18日を「統計の日」にしたのです。

世界各国では独自の日に記念されている統計の記念日があります。一例としてインドでは、同国の統計学者プラサンタ・チャンドラ・マハラノビスの誕生日である6月29日を統計の日としています。国連統計局 (UNSD) は、103ヶ国の「統計の日」をリストアップしています。

181014_11.jpg「統計の日」は、国民の皆さまに、統計の重要性に対する関心と理解を深めて、各種の統計調査に対してより一層の協力をいただくことを目的として閣議了解によって定められました。総務省を始めとする各府省や地方公共団体では、この「統計の日」に合わせて、「統計の日」ポスターの作成・掲示などを通じた広報活動を行うほか、講演会・展示会の開催、統計功労者の表彰等の諸行事を実施しています。

統計に対する国民の関心と理解を深め、統計調査に対する国民のより一層の協力を推進するため「統計の日」を中心として、「全国統計大会」「統計データ・グラフフェア」を開催するとともに、「地方統計大会」「統計グラフ全国コンクール」等の行事を後援するほか、 広く国民一般に対して統計知識の普及、広報を行っています。


181014_22.jpg◆◆◆編集後記◆◆◆
総務省が統計の重要さをわかりやすく表しています。
≪統計がない国は大騒ぎ≫
ようこそ。なるほど統計学園の演劇会へ。今日は演劇を通じて、みなさんに統計がどんなふうに役に立っているのか考えてもらいたいと思います。それは裏返してみると、統計がなかったらどんな困ったことになるのかを考えるのと同じことです。

登場人物はすべてこの学園の先生と生徒が演じています。お話はたくさんありますが、ひとつひとつは別々の劇ですから、おもしろそうなところだけ見てもらってもかまいませんよ。さあ、それでは始めましょう。

生徒
むかしむかし、そう昔でもないあるところに、ノンスタット王国とボンスタット王国という二つの国がありました。二つの国は、100年ほど前に一つの国から分かれました。ですから、名前が一文字しか違いませんし、人口もほとんど同じです。産業、文化、政治の仕組みなどもとてもよく似ています。
ところが、たった一つだけ決定的に違うことがあります。ノンスタット王国では、代々の王様が算数嫌いで、もう100年もの間、統計を作ったり、使ったりすることを禁止しているのです。数字を見ると寒気がするという国王は、二言目には「この国では統計は禁止じゃ」と言って、家来や国民をしかり飛ばしています。
ボンスタット王国では反対です。数字が大好きな女王は、家来にも国民にも統計を広め、できるだけデータを使ってものごとを決めるように先頭に立って励ましています。女王の口ぐせは「これからも、その頭と統計をよく使ってちょうだい」なのです。
・・・はてさて、二つの王国で今日はどんなことが起こっているのでしょうか。

続きは:http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3story.html

■10月17日「貯蓄の日」です。■
121013_30.jpg10月15~25日、伊勢神宮では神嘗祭を行ます。「神嘗祭:かんなめさい)とは、天照大神に新穀を供え収穫を感謝する式典で、昔は神嘗祭が来るまではその年の新米は誰も口にしないという風習がありました。
 
農耕民族にとってはとても重要な区切りの日であるということから、昭和27年(1952)「日本銀行貯蓄増強中央委員会」(現在の金融広報中央委員会)が、神嘗祭で内宮の奉幣が行われる17日を「貯蓄の日」と定めました。
 
現在、多くの国民は労働の対価として金銭を貰うようになっていますので給料がいわば収穫。収穫したお金は大切に使おうという趣旨から国民に貯蓄を奨励する運動を行っています。

■10月17日「伊勢神宮 神嘗祭」です。■
111012_21.jpg伊勢神宮:いせじんぐう」とは、伊勢の宇治の五十鈴川に御鎮座の「内宮」と、伊勢の山田の原に御鎮座の「外宮」の他に、別宮、摂社、末社の125社神社の総称です。正式には「神宮:じんぐう」といいます。
 
内宮「皇大神宮」は、皇室の御祖先の神「天照大神」を祀り、外宮「豊受大神宮」は「豊受大御神」を祀ります。豊受大御神は天照大神の召し上がる大御饌(おおみけ)の守護神です。
 
神宮の参拝順路は、外宮からというのが古来よりのならわしとなっています。
 
神嘗祭」は、その年の初穂を神々に捧げるの意。神宮と宮中の祭礼です。皇室の大祭で、その年に獲れた新穀を天照大御神に奉る儀式を行います。かつては旧暦9月11日に、勅使に御酒と神饌を授け、9月17日に奉納していました。
明治5年の改暦以降、新暦9月17日に実施するようになりましたが、この時期だと新穀が間に合わず、明治12年(1879)以降、神嘗祭は月遅れの新暦10月17日に行われるようになりました。
 
この祭典は、年間行事の中で最重要の祭りで「神々の正月は神嘗祭」とも言われ、御装束や祭器具などを新調して儀式を執り行います。


伊勢神宮
◇公式HP:公式HP
http://www.isejingu.or.jp/
内宮◇近鉄「宇治山田駅」バス15分
   ◇伊勢自動車道「伊勢西IC」5分
 
外宮◇JR・近鉄「伊勢市駅」徒歩5分
   ◇県道伊勢市駅前右折1分


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
蓄の日の由来が収穫に感謝する「新嘗祭」から発祥しているとは意外な感じがして、パッと
結びつきません。農作業の対価の収穫と、勤労の対価の賃金もことは同じということのようです。平成25年は伊勢神宮の遷宮年で、内宮、外宮の順に遷宮が行われます。一説によるとこれからの20年は経済上昇の遷宮だそうです。

伊勢神宮では神嘗祭が最も重要な年中行事になっているとのこと。今も昔も収穫は最大の喜びです。
数年来デフレで不況のときに東日本大震災が発生しました。今年の新嘗祭は特別な意味が含まれることでしょう。
ひと雨ごとに寒くなります。季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白
 

■10月17日「日光東照宮 秋祭」です。■
121013_24.jpg日光東照宮:にっこうとうしょうぐう」は、元和3年(1617)「徳川家康公」を奉祀し、創建された神社です。
 
二代将軍・秀忠公により造営された創建当初の社殿は、20年後の寛永13年(1636)三代将軍・家光公により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となりました。
 
国指定文化財の建造物(国宝、重文)は、本殿や陽明門など35棟を中心に、大名の奉納による五重塔や石鳥居など55棟。これらの建造物は、何れも江戸初期寛永文化の優れた絵師、名工達、技術集団によって生み出された我が国を代表する「宗教建築」です。平成11年(1999)世界遺産に登録されました。
 
10月16~17日「秋季大祭」が行われます。流鏑馬神事は、およそ900年前、朝廷の護衛にあたった武人等によって行われていました。鎌倉時代に源頼朝公が鶴岡八幡宮の神前に奉納したことで盛んとなり、八代将軍吉宗公が復興に努められました。
 
111012_22.jpg現在、奉納されている流鏑馬は、鎌倉時代の古儀に正しく習うものです。馬場は2町(220m)表参道(大手通り)、的の1辺は1尺8寸(55cm)正方形の杉の柾目板を用います。
 
17日には「百物揃千人行列」が行われます。徳川家康公の神霊を、駿府久能山から日光へ改葬した当時の行列を再現した豪壮な渡御祭で、江戸時代には4月17日(命日)に行われ、京都から例幣使がつかわされていました。春と秋の2回行われます。春は千人を超える行列となり、二荒山神社境内から出発します。
 
三神(家康公、秀吉公、頼朝卿)輿は御旅所神殿に祀られ、拝殿には「三品立七十五膳」と呼ばれる山海の幸が神職の手で供えられ、祭典を済ませた後、日光二荒山神社巫女による舞、日光東照宮神職による舞が奉納され、三神輿は日光東照宮に向かい神輿舎に安置されます。還御祭が行われ御霊は御本社に遷霊します。

日光東照宮
◇栃木県日光市山内2301
◇JR「日光駅」バス「神橋」徒歩8分
◇公式HP
http://www.toshogu.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
秋祭りには17日には「百物揃千人行列」が行われます。みごとな時代絵巻です。是非お出かけください。
東照宮は標高の高い日光にあります。行ってみるとややすこし寒く感じることがありますから、一枚余分におお召しください。
季節の変わり目です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月17日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
10月節に入っての「一粒万倍日」です。暦の上では、寒露を過ぎ、秋の気配が本格化してきました。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

10月17日(旧9月9日)「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

181004_22.jpg

文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

110510_21.jpg

■10月1日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。


江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■10月16~18日「愛媛、新居浜太鼓祭」です。■
181010_10.jpg愛媛県新居浜市を代表する秋祭り「新居浜太鼓まつり」の起源は、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)の頃と伝わります。毎年10月16~18日の3日間を中心に行なわれます。
 
山車(だし)は、もともと神社祭礼のときに神輿のお供をするもので「神輿太鼓」と書かれましたが、時代を経て山車が祭りの中心的存在となり、金糸銀糸に彩られた絢爛豪華な「太鼓台たいこだい」あるいは「太鼓たいこ」と呼ばれる山車になっていきました。
 
太鼓祭りの見どころ「かきくらべ」は、約3トンもの太鼓台を150人程で担ぎ上げ、その美しさや担ぎ上げている時間の長さなどを競うものです。太鼓台同士をぶつけ合う喧嘩(鉢合わせ)「日本三大喧嘩祭り」にも数えられています。喧嘩は突発的に発生するもの、盛り上げを目的としたもの、従前からの因縁対決など様々です。
 
121013_22.jpg過去には、太鼓台が破壊されて多数のけが人を出していますが、その後も鉢合わせ行為は毎年のように行われ、多くのけが人が出ています。今では「鉢合わせ」は禁止されていますが、勇壮な祭りの本質を楽しむと

いう点ではまったく無益とはいえません。
 
現在では、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿の豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもつ魅力ある祭りとして、全国的にも知られます。
 
111012_20.jpg新居浜太鼓祭りは「四国三大祭り」にも数えられ、毎年10数万人の観客で賑わいます。また、この祭りは各地の祭りやイベントにも参加し、国内外を問わず太鼓台の派遣を行っています。
 
※お問い合わせ※
愛媛県新居浜市運輸観光課:0897-65-1261
新居浜市観光協会:0897-65-1261
 

■10月13日~10月19日「小犯土(こづち)」です。
120502_60.jpg明日から小犯土です。小犯土は大犯土の7日間に8日目の間日を経たあと9~15日目の7日間を指します。この期間を犯土として前半を大犯土、後半を小犯土としました。

◇期間中慎む作業◇
「犯土」の期間は大地に感謝して、五行説の地(土)の力を養う日とされています。おのずと「土を犯してはならない」とされ、穴掘り井戸掘り、築堤、築墓などの土木工事、種蒔き、下刈り、伐採など土木作業の一切を慎む日とされます。
特に屋敷内の土木作業は災いを招くとされ、家主が災を被ります。

110311_15.jpg◇木々の低調な時期◇
野山の木々にも活発な時期と低調な時期があります。大犯土・小犯土期間中は、木にとって低調な時期にあたり、この時期に伐採すると材木に、虫が入りやすく早く腐りやすいとされています。 除伐、下草刈りなども避けたほうがよく、新築では竣工を急ぐとせっかくの材木が早く腐ってしまいます。科学的な根拠の有無は別にして、経験的に林業の方や大工の方は犯土を尊重するそうです。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
暦には科学的な根拠の少ないものも数多く残っています。迷信とは別に経験的なデータとしての暦に従って、トラブルや不慮の事故を防ぎましょう。大自然の法則はまだまだ解明されていない自然現象も数多くあるのです。
もうすぐ土用、季節は冬に入ります。この頃の良い気候から秋の長雨の時期に入って、体調を崩す方をお見受けします。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月15~16日「新宮、熊野速玉大社祭」です。■
121013_20.jpg熊野速玉大社:くまのはやたまたいしゃ」は、熊野三山の一つで、熊野新宮とも称される熊野神社の総本宮です。

熊野速玉大神」と「熊野夫須美大神」を主祭神として十二柱の神々を祀り、「新宮十二社大権現」として全国から崇敬を集めています。平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されました。

熊野権現御垂迹縁起
によれば、唐の天台山より飛行、日本国鎮西の日子山(英彦山)の八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南に位置する神倉山に天降ったとされます。

熊野速玉大神
は「伊邪那岐神:いざなぎ」、熊野夫須美大神は「伊邪那美神:いざなみ」とされますが、もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれます。神倉山の旧宮に対し、現在の社殿を新宮とも呼びます。

111011_19.jpg「権現」とは「仮に現われる」の意。神様は御殿の中の最も清浄な奥処に鎮まり、そのお姿を直接見ることが出来ません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透します。


奈良朝末期に至り、熊野速玉大神は衆生の苦しみや病気を癒す「薬師如来」として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける「千手観音菩薩」、家津美御子大神は来世浄土へ導く「阿弥陀如来」として位置付けられ、山伏や熊野比丘尼によって「熊野権現信仰」は飛躍的な拡がりを見せました。

更に中世熊野信仰の興隆に伴い、皇室・公卿・武士中心から庶民信仰へと発展。過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。

15~16日に行われる例大祭では、速玉大神が神馬に奉安され、御旅所「杉のお仮宮」に渡御し、松明の灯りの中、おみたまと呼ばれる特殊な神饌などが供えられ、古儀な神事が行われます。16日午後には、神輿で熊野川原まで渡御した後、朱塗りの神幸船に乗って御船島を目指し、先導の9隻の早船競漕が行われます。(下記※本年度御船祭について※参照

神代の時代絵巻を今に伝える御船祭。緒手船神事の中で9隻の船が競漕する船渡御は、全国に類のない伝統ある神事で県指定の無形民俗文化財となっています。

熊野速玉大社
◇和歌山県新宮市新宮1
◇JRきのくに線「新宮駅」徒歩5分
◇公式HP
http://kumanokaido.com/hayatama/

■10月15日「天理、石上神宮 例祭」です。■
111011_20.jpg石上神宮:いそのかみじんぐう」は、飛鳥から奈良へと続く日本最古の道「山の辺の道」の中間に位置し、飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神として、また日本最古の神社として有名です。
 
物部氏は「饒速日命:にぎはやひのみこと=天孫瓊瓊杵尊の兄」の後裔で、代々軍事や警察、石上神宮の祭祀を職務としていました。
 
饒速日命は天降った際に天神御祖から「十種神宝」を授かり、その子である「宇摩志麻治命」がこの十種神宝を天皇に献上し、天皇はこれを斎奉って石上神宮と名付けたと伝えられます。
 
141015_21.jpg御祭神の「布都御魂大神」は「甕布都神:みかふつのかみ」、「佐士布都神:さじふつのかみ」ともいわれ、神武天皇東征の折、熊野の地で「武甕槌神:たけみかずちのかみ・建御雷神」が、「天照大神」の命によって高倉下(たかくらじ)から天皇に奉ったのが「平国之剣」であると称されています。
 
例祭は「ふるまつり」と呼ばれる900年の伝統ある祭りです。壮麗な神輿を中心に、甲冑武者、猿田彦、花鉾、奉幣、衣冠姿の稚児の騎馬など、約4kmの盛大な「お渡り」が行われます。
 
石上神宮
◇奈良県天理市布留町384 
◇JR・近鉄「天理駅」バス「石上神宮前」下車
◇名阪「天理東IC」南下
◇参考:http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/isonokami.htm

■10月14~15日「姫路 喧嘩祭」です。■
171011_13.jpg松原八幡神社:まつばらはちまんじんじゃ」は、天平宝字7年癸卯4月11日(763)豊前国宇佐神宮より松原村へ奉迎され、天皇の御祈願所として創建されたと伝わります。
 
御祭神は、中殿に「品陀和気命:ほんだわけのみこと:応神天皇」、左殿に「息長足姫命:おきながたらしひめのみこと:神功皇后」、右殿に「比咩大神:ひめおおかみ:比咩三神」を祀ります。
 
秋季例祭「灘まつり」は、「灘のけんか祭り」「妻鹿のけんか祭り」とも呼ばれ、一の丸、二の丸、三の丸からなる三基の神輿をぶつけ合う「練り合わせ」といわれる特殊な神事と、旧7ヶ村の絢爛豪華な屋台が激しく練り競う屋台練りが行われる天下の奇祭ともいわれる祭りです。
 
全国に数ある「けんか祭り」の中でも最大規模の祭りで、戦前から播磨を代表する祭りとして知られます。
 
111011_18.jpg勇壮豪華な屋台練りは人気を呼
び、国内はもとより海外にまでその名を知られるようになりました。「松原八幡神社秋季例祭風流」として、姫路市と兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されています。

 
例祭は毎年10月14~15日に行われます。宵宮(夜宮)と本宮(昼宮)に分かれ、前夜祭に当たる14日の宵宮で幕を開け、各村の氏子たちがそれぞれの村の屋台を担ぎ上げて松原八幡神社に赴きます。祭り本番の翌15日は、祭礼の主要行事である御旅神社への神事渡行を氏子たちが執行し、日暮れ時に神輿は松原八幡神社へ還御、屋台はそれぞれの村に帰着して祭行事の幕を閉じます。
 
松原八幡神社
◇兵庫県姫路市白浜町甲399番地
◇山陽電鉄本線「白浜の宮駅」下車
◇参考http://www.nadamatsuri.jp/hachiman/index.html
◇灘のけんかまつりhttp://www.nadamatsuri.jp/index.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
天下の奇祭、日本最大規模のけんか祭りです。神輿のぶつかり合い、屋台の練り競いなどけんか祭りそのものです。最近は安全にばかり気配りして、年寄り神輿の祭りばかりになったと祭り好きのコメントです。
めっきり秋めいてきたこの頃です。天下の奇祭にお出かけ下さい。

時節柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月14日「鉄道の日」です。■
111011_17.jpg「鉄道の日」とは、鉄道の開通を記念する日本の記念日。明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現在の根岸線桜木町駅)が開通しました。
 
大正11年(1922)鉄道記念日と制定。昭和24年(1949)日本国有鉄道の記念日になり、一部民営化された後もJRグループの記念日として祝っていましたが、平成6年(1994)運輸省の提案で「鉄道の日」と改称され、JRをはじめ民鉄等の鉄道事業者が鉄道の発展を祝う全国的な記念日となりました。
 
141015_20.jpgこれを記念して、JRや私鉄などで記念乗車券の発売やカードの発行など、鉄道関連のイベントが行われます。東京千代田区の日比谷公園では「鉄道フェスティバル」が行われ、一部の鉄道会社では特別臨時列車を走らせたり、車両基地などの一般公開が行われます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
近年は「鉄ちゃん」と総称される。鉄道マニアが敷地内に入って通過列車の撮影をしたり、発車寸前の車両がマニアの心無い行動で延発になったりと、一般乗客には迷惑な行動が目に付きます。マニアの暴走には困ったものです。また、一部が全部のように報道するメディアにもまた困ったものです。
最近では「鉄子」「鉄男」「乗り鉄」「ママ鉄」「撮り鉄」など造語も増えてきて、辞書に載る時代です。ストライキをしていた国鉄時代とは、JRになってから大きく変化したと感じています。

筆者敬白

■10月13日「和歌山、竈山神社祭」です。■
111011_15.jpg竈山神社:かまやまじんじゃ」は、神武天皇の長兄である「彦五瀬命:ひこいつせのみこと」を祀る神社です。「五瀬」は「厳稲」の意とし、穀物や食料の神の意と古事記伝では解しています。
 
式内社で、旧社格は官幣大社。釜山神社と表記されることも。本殿裏に彦五瀬命の墓があります。神仏霊場巡拝の道第8番(和歌山第8番)。
 
神武天皇ら弟たちとともに東征に向かった彦五瀬命は、難波の白肩津で登美能那賀須泥毘古に敗れ負傷。「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず云々」として南下しましたが、紀国の男之水門に着いたところ、その傷が元で亡くなってしまいます。
 
古事記には、紀伊国竈山に墓が作られたとあります。「紀伊続風土記」によれば、ここが竈山の地であり、墓が作られてすぐに、神社が作られたとあります。
 
121008_27.jpg天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州根来衆攻めにより社宝・古文書等を焼失。社領も奪われて荒廃。慶長5年(1600)紀伊国に入国した浅野幸長が小祠を再建。寛文9年(1669)徳川頼宣が社殿を再建。
 
明治に入り、宮内省管轄の「彦五瀬命墓」と、竈山神社は正式に区分されました。明治14年(1881)村社に列格しましたが、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885)官幣中社に、大正4年(1915)には官幣大社に異例の昇格を果たし、現在は神社本庁の別表神社となっています。
 
竈山神社
◇和歌山県和歌山市和田438
◇和歌山電鐵貴志川線「竈山駅」徒歩10分
◇参考ブログhttp://www.genbu.net/data/kii/kamayama_title.htm

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
彦五瀬命は神武天皇の長兄で、墓所がこの地にあります。歴史研究が進んで重要な土地と判明しました。
皆さんの土地も何らかの由緒があるかもしれません。風土史を調べてみるのも、お住まいの土地に馴染むことなのでしょう。

そんな折、10月初旬の新聞には「九州邪馬台国説の論争復活」とありました。近畿邪馬台国で落ち着いている現在、これからの論争がどこに落ち着くか楽しみです。
読者の皆様、時節柄お身体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月13日「嵐雪忌」です。■
121008_29.jpg服部嵐雪:はっとりらんせつ」は、江戸時代前期の俳諧師で松尾芭蕉の門弟。淡路出身の武家の長男に生まれ、下級武士として常陸笠間藩主の井上正利に仕えました。


寛文12年(1673)松尾芭蕉に入門。不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が2句入集したのが作品の初見。貞享5年(1688)に「若水」を刊行して宗匠となり、2年後には「其机:そのふくろ」を刊行して俳名を高めます。


元禄7年(1694)「露払」の斤に絡んで深川蕉門との対立を生じ、代えて「或時集」を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集「若菜集」を刊行しました。


121008_30.jpg芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、3月3日桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えましたが、嵐雪は芭蕉の奥州行脚にも送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生し風波は激しかったようです。


江戸で芭蕉の訃報を聞いた嵐雪は、その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いています。そして桃隣と一緒に芭蕉が葬られた義仲寺に向かいます。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は「この下にかくねむるらん雪仏」互いに師弟の強い信頼関係があったのも事実です。


宝永4年(1707)10月13日没。享年54歳。辞世句「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」。追善集に百里斤「風の上」などがあります。


10月13日「日蓮聖人忌」です。■
111011_16.jpg日蓮:にちれん」聖人は鎌倉時代の仏教の僧で、法華経の宗祖。貞応元年(1222)2月16日、安房国長狭郡(安房郡天津小湊町)に生まれ、幼名「善日麿」と伝わります。
 
天福元年(1233)清澄寺の道善房を師とし入門。暦仁元年(1238)に出家し、是生房蓮長の名を与えられ、仁治元年(1240)比叡山へ遊学。高野山へも勉学に努め、仏経典を研鑽した結果「法華経」こそ釈迦の本懐であるという結論に至りました。
 
建長5年(1253)清澄寺に帰り、4月28日朝、昇る太陽に向かい「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて立宗宣言。持仏堂にて仏教教義を広めました。
 
建長6年(1254)鎌倉に出て弘教(ぐきょう=弘めること)を開始。この頃日蓮と名のります。
 
文応元年(1260)立証安国論を執筆。これには法華経を信じなければ自界叛逆難(じかいほんぎゃく:国内の争い)、他国侵逼難(たこくしんぴつ:他国が攻め入り、侵略しようと襲ってくる)などの災いが起こると説き、これを時の幕府最高実力者・北条時頼に送ります。他の信仰を批判してた日蓮は、他宗の僧らにより襲撃され、幕府により濡れ衣を着させられ流罪にされたりしました。
 
121008_28.jpg文永5年(1268)蒙古から国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となります。文永8年、幕府や諸宗を批判したと捕らえられ、龍の口刑場にて処刑中に刀が折れるという怪異が起こり、処刑は中止されました。その後、佐渡へ流刑にされます。
 
佐渡へ流罪中に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、末法における「法華曼荼羅」を完成させました。
 
文永11年(1274)春、御赦免となった日蓮は幕府に三度目の諌暁(かんぎょう=いさめ、さとすこと)を試みましたが、幕府は一向に聞き入れませんでした。その後、日興聖人の弟子で身延の波木井実長の領地に入山して、身延山久遠寺を建立しました。この年に蒙古が襲来。
 
弘安2年(1279)10月「本門戒壇の大御本尊」図を顕しました。
 
弘安5年(1282)10月、弟子の中から後継者を定めました。後継者6人は六老僧と呼ばれます。この年、病気療養のため常陸へ湯治に向かう途中、武蔵国池上の郷主・池上宗仲邸にて亡くなりました。

没後、「日蓮大菩薩」(後光厳天皇・1358)「立正大師」(大正天皇・1922)から諡号が贈られます。
 
この日、全国各地でお会式(おえしき=御会式)と呼ばれる法要が営まれます。
 

◆◆「秋の七草」◆◆
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり)かき数うれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花(をはな)葛花(くずはな) 撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花」 
(山上憶良/万葉集)

111008_13.jpg

★萩(はぎ)=豆科はぎ属。花は豆のような蝶形花。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料。葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に。根を煎じて眩暈やのぼせの薬にするなど人々の生活にも溶け込んでいました。
 
★薄(すすき)=稲科すすき属。収穫した物を悪霊から守る力があるとされます。屋根材の他に炭俵、家畜の餌などに利用されます。別名:尾花(おばな)。
 
★桔梗(ききょう)=ききょう科ききょう属、紫または白の美しい花。漢方では太い根を干して咳や咽喉の薬に。薬用成分のサポニンを含有し、昆虫にとっては有毒なため昆虫からの食害から自らを守っています。
 
昔から武士に好まれたようで、家紋に取り入れられました。「桔梗の間」「桔梗門」など。万葉集に出てくる「朝顔」は、この桔梗のことであるといわれます。
 
★撫子(なでしこ)=なでしこ科なでしこ属、ピンク色の可憐な花。我が子を撫でるように可愛いことから、この名前が付きました。この花は「ピンク」という色の語源になっています。
 
中国から平安時代に渡来した「唐撫子」(からなでしこ)に対して、在来種を「大和撫子」(やまとなでしこ)と呼び、日本女性の美称に使われます。
 
★葛(くず)=豆科くず属、周囲の木をツルで覆ってしまう程の生命力。大和の国(奈良県)の国栖(くず)が葛粉の産地であったことから。「葛」は漢名。ツルの部分は「葛布」の原料。
 
根は多量の澱粉を含んでいて、漢方薬で使われる「葛根」(かっこん:解熱作用)の原料です。葛粉、葛餅など。
 
★藤袴(ふじばかま)=菊科ふじばかま属。花の色は藤色で、花弁の形が袴の形をしている。桜餅のような香り。平安時代の女性は、干した藤袴の茎や葉を水につけて髪を洗いました。また、防虫剤や芳香剤、お茶などにも利用していました。
 
★女郎花(おみなえし)=おみなえし科おみなえし属。山野に生える黄色い清楚な花。「おみな」は「女」の意。「えし」は古語「へし(圧)」のことで、美女を圧倒する美しさから。
 
餅米で炊く御飯「おこわ」を「男飯」と言ったのに対し「粟(あわ)御飯」のことを「女飯」と言っていましたが、花が粟粒のように黄色く粒々していることから「女飯」を「おみなめし」「おみなえし」と言うようになったという説もあります。
 
「女郎花」と書くようになったのは平安時代の中頃。因みに「男郎花」という花もあります。
 
◆1月7日、春の七草「七種菜羹:しちしゅさいのかん」を食べ無病を祈る風習で「食」に関するものですが、秋の七草は「花を楽しむ」ことに所以しています。

■10月12日「横浜鶴見、総持寺御征忌会」です。■
121008_25.jpg總持寺:そうじじ」は、福井県永平寺と並ぶ曹洞宗大本山の一つ。釈迦の教えを日本に伝え、永平寺を開いた「道元禅師」(高祖)、總持寺を開いて教えを全国に広めた「瑩山禅師」(太祖)を「両祖」と呼び、釈迦と併せて「一仏両祖」として祀られます。
 
はじめ、石川県の「諸嶽寺」を元亨元年(1321)太祖・瑩山禅師が「諸嶽山總持寺」と改めました。明治の焼失を機に横浜市に移転。開かれた禅苑として国際的な「禅の根本道場」となっています。
 
道元禅師の教えを受け継いだ四代目「瑩山禅師:けいざんぜんじ」は、文永5年(1268)現在の福井県武生市に誕生。父は土地の豪族・瓜生氏、両親ともに信仰深く、母が観音様に祈願を込め、その霊験によって生まれたのが禅師といわれています。
 
111008_18.jpg8歳にして永平寺に登り、三代徹通禅師に弟子入り。永平寺での修行は厳しくも鍛えられ、13歳の春に、二代目懐弉禅師について得度を受けます。18歳で諸国行脚修行の旅に出ます。
 
21歳の秋、永平寺の「徹通禅師」の元に戻った禅師は、その翌年に徹通禅師のお供として永平寺に別れを告げ、金沢の大乗寺へ移ります。
 
修行7年の後、27歳にして平常心是道も公案を開き教えを体得、翌28歳の正月徹通禅師の教えを継ぎました。徹通禅師を助けて布教活動に専念するうち35歳で大乗寺2世となり、45歳で能登に永光寺を開きます。
 
54歳の春、羽咋市の近くの諸嶽寺の定賢律師の願いを受け入れ、その寺に入って「総持寺」と改めます。翌年、後醍醐天皇より「曹洞宗出世道場」という額と紫衣を賜り大本山となりました。
 
121008_26.jpg正中2年(1325)夏、病床に倒れた瑩山禅師は、9月29日、58歳の生涯を閉じます。「御征忌会:ごしょうきえ」では、御開山瑩山禅師、二祖峨山禅師の御遺徳を偲び報恩修行が行われます。
 
總持寺
◇神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1
◇JR「鶴見駅」徒歩5分
◇総持寺HP:
http://www.sojiji.jp/

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
「形見とて何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」
良寛和尚が、遺言として残された和歌です。良寛さんは、自然に逆らわない、ありのままの生き方を生涯貫きました。
身近にある一見何の変哲もない自然の、そのありのままの尊さ、そして、その尊さを知る心こそ、後世に残すべき『本当の宝』であると言い残されたのでしょう。
筆者敬白

■10月12日「芭蕉忌、時雨忌」です。■
111007_20.jpg松尾芭蕉:まつおばしょう」は、江戸時代前期の俳諧師で、俳諧を革新し「蕉風」を樹立。俳諧に偉大な足跡を残し、明治時代に成立した俳句の源流を作りました。
 
古池や蛙飛込む水のをと」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「荒海や佐渡に横たふ天の河」「夏草や兵共(つはものども)が夢の跡」などがとても有名です。
 
伊賀国の松尾与左衛門と妻・梅の次男として誕生。松尾家は農家でしたが、松尾の苗字を持つお家柄。若くして、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠に仕え、京に出て北村季吟に師事して俳諧の道に入りました。
 
171005_11.jpg寛文12年(1672)処女句集「貝おほひ」を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。3年後、江戸に移って宗匠となります。


延宝8年(1680)深川に草庵を結び、門人の李下から贈られた芭蕉の木を一株植えると大いに茂ったのを見て「芭蕉庵」と名付けます。
 
天和2年(1682)庵を焼失し、甲斐国谷村藩の国家老高山伝右衝門に招かれて移り住み、しばしば旅に出ては「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」などの紀行文を残しました。
 
元禄2年(1689)弟子の河合曾良を伴い、江戸を立って東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで「奥の細道」の旅に出ます。2年後に江戸に帰っています。
 
敬慕した西行・宗祇・李白・杜甫のように旅に生きた芭蕉もまた旅の途中、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死します。これが辞世句に。
 
171005_12.jpg秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句です。辞世の句「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」享年51歳。遺言「木曽殿の隣に」により、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曽義仲(ぎそよしなか)の墓の隣に葬られました。
 
芭蕉が好んで詠んだ句材「時雨」は、旧暦10月の異称です。忌日10月12日は、俳号に因んで桃青忌、時雨忌、翁忌などと呼ばれます。
 
「義仲寺」
◇滋賀県大津市馬場1-5-12
◇JR「膳所駅」京阪電鉄「膳所駅」
◇義仲寺参考ブログ:
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=410


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句とありました。筆者も大病して病床に就いたことがあります。隣人が気になった感覚は、共通するものがあります。
俳人の多くが旅先で名句を詠みます。李白・杜甫など土地は違えど、頷ける漢詩に出会うと、悠久の時を共有したような感覚になります。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月11日「東京、池上本門寺 御会式」です。■
121008_24.jpg日蓮宗大本山「池上本門寺:いけがみほんもんじ」は、弘安5年(1282)10月13日辰の刻、日蓮聖人61歳で入滅された霊跡です。
 
日蓮宗の十四霊蹟寺院の一つ。七大本山の一(他の6本山=清澄清澄寺、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺)本尊は釈迦如来
 
弘安5年9月8日、病気療養のため身延山を降り、常陸の湯(ひちちのゆ:水戸市加倉井町)へ向かいます。途中、武蔵国池上(大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館でくなりました。

もともと「長栄山大国院本門寺」と呼ばれる寺でしたが、それは「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたもの。
 
日蓮入滅の後、法華経69,384字に合わせて約7万坪の寺域を寄進した池上宗仲公の力で寺の礎が築かれたので、以来「池上本門寺」と改称されました。
 
111008_14.jpg大堂に安置される宗祖御尊像の左手の御持物「妙法蓮華経」は日蓮宗第一の参拝対象です。紺紙を用い、金字を金界の罫線内に1行17字あてで書写されたもので、旧国宝に指定され、現在は霊宝殿に格護されています。
 
旧大堂は、第14世・日詔聖人代の慶長11年(1606)熱心な法華信者・加藤清正公が、慈母の七回忌追善供養の為に建立されたもの。間口25間の大建築で、清正公が兜をかぶったまま縁の下を通ることが出来たと伝わります。その壮観さを江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して「上野(寛永寺)は中堂」「芝(増上寺)は小堂」と呼ばれました。
 
旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆。惜しくも宝永7年(1710)に焼失。24世日等聖人代の享保8年(1723)徳川8代将軍・吉宗公の用材寄進で、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されました。また吉宗公は、大岡越前守を普請奉行に、釈迦堂・大客殿・大書院なども建立寄進しています。旧祖師堂以下すべて戦災で焼失しました。
 
現在の大堂は、後の「日定聖人」が全国を行脚し、檀信徒並びに関係寺院からの浄財寄進を得て、昭和39年に再建されたものです。内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に「日蓮聖人の御尊像」を奉安し、左に第2世「日朗聖人像」を、右に第3世「日輪聖人像」を安置しています。
 
外陣の天井画は、大田区在住の「川端龍子画伯」に委嘱。画伯は、その龍図の完成を見ることなく逝去されましたが、「奥村土牛画伯」が眼を点じて開眼供養を遂げました。未完成の龍図ですが画伯の遺作として今も多くの人が訪れます。

◇御会式◇ 
11日・歴代先師聖人並びに池上ご護山会先師報恩法要、納経十種供養式法要。
 
12日・宗祖御更衣法要。聖人の御衣を夏物から冬物に改めます。午後からは宗祖報恩御逮夜法要が営まれます。夜には池上徳持会館から本門寺までの約2kmにわたり総勢約3千人の万燈行列が行われます。
 
お逮夜に当たるこの夜、一晩で30万人を超える参詣者で賑わい、僧侶が叩く大太鼓と信者達の唱題の声でお堂が震動するほど。
 
13日・臨滅度時法要が営まれます。午前8時、入滅を告げる鐘を日昭聖人が打ち鳴らされたように「臨滅度時の鐘」を鳴らして遺徳を偲び、法華経を広め伝える誓いを新たにします。御会式中の参篭も可能。
 
池上本門寺
◇東京都大田区池上1-1-1 
◇東急池上線「池上駅」徒歩10分
◇JR京浜東北線「大森駅」バス20分
◇首都高速目黒線「戸越出口」15分
◇公式HP
http://honmonji.jp/

■10月11日「神戸、海神社祭」です。■
111008_12.jpg海神社:わたつみじんじゃ」は、神功皇后の御代3~5世紀ごろの創建。「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれます。古くは、あまじんじゃ、たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。
 
式内社(名神大社)で旧社格は官幣中社。延喜式神名帳に「播磨国明石郡・海神社三座」と記載されます。
 
神功皇后の三韓征伐からの帰途、海上で暴風雨が起こり船が進めなくなったので、「綿津見三神」を祀ると暴風雨が治まったと伝わります。そしてこの地に社殿を建てたのが始まりと伝わり、古くから海上鎮護の神として崇敬されます。
 
121008_23.jpg海神三座」として「上津綿津見神:うわつわたつみのかみ=海上=航海の神」「中津綿津見神:なかつわたつみのかみ=海中=魚(漁業)の神」「底津綿津見神:そこつわたつみのかみ=海底=海藻、塩の神」を祀り、「大日孁貴尊:おおひるめのむちのかみ=天照大神」を配祀しています。
 
例祭は毎年10月10~12日、神輿を乗せた20数隻の船が海上をめぐる「海上渡御祭:かいじょうとぎょ」は12日に行われます。
 
海神社
◇兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1
◇JR「垂水駅」・山陽電鉄「垂水駅」すぐ
◇第二神明道路「高丸IC」10分
◇HP
http://kaijinjya.main.jp/

■10月10日「香川、金比羅宮祭」です。■
121008_21.jpg香川県琴平山の中腹に鎮まる「金比羅宮」は「讃岐のこんぴらさん」と呼ばれ親しまれています。
 
神仏分離・廃仏毀釈が実施される前は「真言宗の象頭山松尾寺金光院」でした。
 
神仏習合で「象頭山金毘羅大権現:ぞうずさん こんぴらだいごんげん」と呼ばれるようになりましたが、明治元年の神仏混淆の廃止で、もとの神社にかえり、同年7月に宮号を仰せられ「金比羅宮:こんぴらぐう」と改称し現在に至っています。
 
現在は、神社本庁包括に属する別表神社で、宗教法人金刀比羅本教の総本部となっています。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮です。
 
現在の御祭神は「大物主神:おおものぬしのかみ」、相殿に「崇徳天皇」。大
物主神は天照大御神の弟である「建速素盞嗚命:たけはやすさのおのみこと」の子です。大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸などの神徳を持つ神様として全国から広く信仰を集めています。

 
111008_10.jpg大祭は、毎年10月9日~11日の3日間にわたって行なわれる金刀比羅宮

で一番大きな祭事です。夜間に執り行われる「神幸行:おみゆき」は、少年少女の頭人(とうにん)がその列に加わることから「おとうにんさま」とも呼ばれます。
 
金刀比羅宮の大祭中、琴平町では様々な奉祝イベントが催されます。JR琴平駅から奥社までを往復する「こんぴら石段マラソン」、奉納野球、奉納ゲートボール郷土芸能の発表会など、門前町は賑やかになります。
 
因みに、江戸時代の庶民は旅行を禁止されてましたが、神仏への参拝は許されていました。庶民にとって、「お伊勢参り」は一生に一度の夢でした。並んで、讃岐の金毘羅大権現(今の金刀比羅宮)と、京都六条の東西本願寺への参拝の旅も、人生の一大イベント!
 
121008_22.jpg◇代 参◇
当時の参拝の旅は大変なことです。旅慣れた人が代理で参拝に行くこともあり、これを「代参」と言いました。旅を途中で諦めなければならない人が、道中で知り合った旅人に、旅費と初穂料(お賽銭)を託して代参してもらうこともありました。
 
◇こんぴら狗◇
また、「金毘羅参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代参をすることもあったそうです。袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っており、犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、目的地に辿り着きました。「こんぴら狗」と呼ばれます。
 
金毘羅大権現への代参で有名なのが「森石松」。清水次郎長の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝わります。

◇参詣者秘談◇
参道の石段は、奥社まで1368段もあります。資生堂パーラー「神椿」のレストランを利用すれば、駅からタクシーを利用して500段ぐらいまで上へ行けますよ。(秘話)

金毘羅宮
◇香川県仲多度郡琴平町892-1
◇JR土讃本線「琴平駅」徒歩20分
◇琴平電鉄琴電「琴平駅」徒歩15分
◇「高松空港」車50分
◇HP:
http://www.konpira.or.jp/   

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
※香川県の民謡「金毘羅船々」
金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ まわれば四国は讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん)一度まわれば...
金毘羅 み山の青葉のかげからキララララ 金の御幣(ごへい)の 光がチョイさしゃ海山雲霧(うみやまくもきり) 晴れわたる一度まわれば...
一度聞くと耳に残る節回しです。こんな時世だからこそ「金毘羅船々・・・」で乗り切りたいものです。
筆者敬白

■10月10日(10月亥の日)「亥の子餅」です。■
131003_23.jpg亥の子:いのこ」は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事のこと。「亥の子の祝い」、「玄猪:げんちょ」、「亥の子祭り」とも。


猪(いのしし)の多産にあやかり、亥の月の初めの、亥の日の、亥の刻(午後9~11時)に、新穀でついた「亥の子餅」を食べ、無病と子孫繁栄を祈ります。また「亥の子節供は夕節供」の通り、子供達の行事もすべて夜に行なわれます。


もともと中国から伝わったもので、古代中国では旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習。日本では平安時代頃に始まり、宮中では亥の形をした餅を献上する儀式がありました。次第に貴族や武士にも広がり、民間でも行なわれるようになりました。


室町時代には「白・赤・黄・胡麻・栗」の五色の餅でしたが、近世になって小豆の入った薄赤色の餅となり、やがて牡丹餅となりました。


季節的には米の収穫が終わる時期にあたり、稲刈りが無事に終了したことを田の神さまに感謝する収穫祭(刈り上げ祝い)の行事として、特に西日本で盛んに行なわれました。


121002_21.jpg中国地方などでは、2月の始めの亥の日に「春亥の子」として祝う風習もあります。亥の子の神は2月亥の日に田に降りて稲を守り、秋の刈入れ後の10月亥の日に帰ると考えられていました。


この日、子供達が新ワラを縄などで巻いて棒状にした物を手に持って、村々の家を回り地面を叩きます。これを「亥の子突き」といいます。この時「亥の子餅をつかん者は鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を生め」などと唱え、道すがら餅やお菓子、お小遣いなどを貰って歩きます。餅などを貰うと「繁盛せえ、繁盛せえ」と唱え、何も貰えないと「貧乏せえ、貧乏せえ」と悪たれを言います。


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「亥の子餅」は子供の成長を願っての暦注です。詳しい云われは不明ですが、秋の収穫を感謝する祭礼の一環だったようです。10月8日には10月節「寒露」で、季節も秋本番を迎えます。今年の紅葉は綺麗な色づきになりでしょうか。台風の通過、朝晩の寒さはこれからの季節を予感します。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月9~11日「久留米、高良大社例祭 高良山くんち」です。■
121008_20.jpg筑後国一之宮「高良大社:こうらたいしゃ」は、今から1600年前に創建された旧国幣大社で「九州総社」とも呼ばれます。社殿は神社建築としては九州最大を誇っています。
 
正殿に高良玉垂命、左殿に八幡大神、右殿に住吉大神の三柱の祭神を祀る式内社で、古くは「高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)」と呼ばれました。歴代皇室のご尊崇篤く、芸能・延命長寿・厄除けの神として信仰され親しまれています。
 
現在の社殿は、万治3年(1660)久留米藩第3代藩主:有馬頼利の寄進によるものです。
 
111003_8.jpg高良大社例祭」は「高良山くんち」(くんち=御九日)のこと。百々手式と呼ばれる弓馬術や弓道会、獅子舞、神楽、古武道などが奉納され、表千家不白流の方々によるお茶の接待などが行われます。
 
おくんちの日のご馳走は、旬の魚を使った「かます寿司」です。古くから特別料理として各家庭で作られ、今に伝わります。
 
11日の観月会では、箏曲、琵琶、吟詠、舞囃子、久遠太鼓、獅子舞、柳川日吉太鼓、雅楽などが行われ、嵯峨流生花展が開かれます。
 
高良大社
◇福岡県久留米市御井町1
◇JR久大本線「久留米大学前駅」タクシー10分
◇高良大社公式HP
http://www.kourataisya.or.jp/

 

■10月9日「国際文通週間」です。■
141103_20.jpg国際文通週間(International Letter Writing Week)の理念とは、文通によって相互理解を深めることで、世界の平和に貢献しよう。を理念にしています。
国際文通週間は国際的に共通した週間で、万国郵便連合(UPU)結成日とほぼ同じ時期10月9日を含む1週間に設定されている国が一般的です。
日本やタイでは国際文通週間記念切手が発売さます。

昭和32年(1957)にカナダのオタワで開催
された、第14回万国郵便連合大会議『世界の人々が文通によって文化の交流に努め、世界平和に貢献しよう』という趣旨のキャンペーン設置が決議されました。
世界的に見れば「国際文通週間」をテーマに毎年記念切手を発行している国には日本とタイ王国があります。
日本は1958年から毎年記念切手が発行されています。
日本の国際文通週間切手は、当初は手紙をテーマとした切手を単発で発行される予定でしたが、歌川広重の東海道五十三次「京師」が採用されたことから好評を博し、以来毎年発行されている恒例のシリーズ切手となりました。

141103_21.jpg▼日本の国際文通週間切手

このように「世界の人々と文通する」キャンペーンなので、発行される切手の額面は国際郵便料金に対応しています。
また切手には"International Letter Writing Week"の英文が入っているほか、発行した年号が西暦で入れられています。
尚、日本切手には元号法が制定された1979年以降は切手発行年を西暦と元号とが併記されています。
現在も国際文通週間記念切手は西暦のみで表記されているのですが、シートの余白には発行年月日が元号で表記されています。

▼国際文通週間のテーマ

1958年―1962年:東海道五十三次
1963年―1969年:葛飾北斎・冨嶽三十六景
1970年―1972年:明治文明開化期の錦絵
1973年―1981年:鳥を描く大和絵
1982年―1987年:日本人形 
1988年:歌舞伎の役者絵 
1989年―1993年:絵巻物 
1994年―1995年:屏風絵 
1996年―1999年:花鳥画と浮世絵 
2000年―2009年:東海道五十三次
2006年は国際連合加盟50周年記念 オリジナルデザイン切手採用 
2010年~日本画の美女作品

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

10月に入り平成30年の「国際文通週間」は、二十四節気のあと寒露の
次の日です。秋の気配が本格化します。 
季節の変わり目で、急に冷え込んで一日中寒い日もあり、体調を崩し易い季節です。
お風邪などお召しにならないようお体ご自愛専一の程

筆者敬白

■10月9日(旧9月朔日)「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

181004_22.jpg

文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則が体に合っているのでしょうか?
筆者敬白

■10月8~10日「阿寒まりも祭」です。■
121002_27.jpg北海道にある阿寒湖の「まりも」は、明治30年(1897)札幌農学校(現・北海道大学)「川上農学博士」により発見され「毬藻:まりも」と名付けられました。

大正13年(1924)天然記念物に、昭和27年(1952)特別天然記念物に指定されています。
 

緑藻植物・シオグサ科に属すまりもは、無数の糸くず状のものが集まって出来ている集合体です。この糸状態は絡み合ったまま成長し、大きいものになると直径30cmに達するものがあります。

繁殖や成長の過程は未だ多くの謎に包まれたままですが、直径6cmのもので推定年齢150歳だとか。世界の植物学会でも貴重な植物とされています。
 
阿寒湖でのまりも祭りでは、まりもが絶えないよう、まりもを護る儀式、まりもを送る儀式が執り行われます。
 
◇開催は10月8・9・10です。
 
主催◇釧路市・阿寒観光協会・阿寒湖アイヌ協会 他
北海道釧路市阿寒湖町阿寒湖温泉2-6-20
問い合わせ ℡:0154-67-3200
 
◇JR釧路本線「摩周駅」バス1時間
◇JR根室本線「釧路駅」バス2時間
◇「釧路空港」バス1時間

181004_12.jpg

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「まりも祭り」を書いていると、アイヌの文化に深く関係していることがわかります。
そこでアイヌに伝わる口伝の「ユーカラ」を紹介します。
ユーカラは、アイヌ民族に伝わる聖典で口伝えの叙事詩で、英雄神話伝説です。舞台化されたものは音や衣装も案外煌びやかです。ユーカラやサコロベ(道東ではサコロベ)に伝わる世界感は、金銀財宝に囲まれた主人公が登場し、思いのほか派手な描写が多いです。
一方では、勧善懲悪的(善を勧め、悪を懲しめる)なところや、主人公が姉に養育されるなど、先祖伝来のユーカラ(道東では、サコロベ)を忠実に舞台化されています。
北海道は冬支度で、大雪山では初冠雪の便りです。つい先日まで残暑だといっていたのに、北から冬はすぐそこまで来ています。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白


◆二十四節気◆平成28年10月8日「寒露(かんろ)」です。◆
161002_20.jpg10月8日17
時15分「寒露」です。旧暦9月、戌(いぬ)の月の正節で、秋分から15日目にあたります。天文学的には太陽が黄経195度の点を通過するときをいいます。

寒露とは、野草に宿る冷たい露のこと。この頃になると秋も一段と深まり、朝晩は寒気を感じ始めます。山野には晩秋の色どりが濃くなり、櫨(はぜ)の木の紅葉が美しい頃。雁などの冬鳥が渡って来て、菊が咲き始め、コオロギが鳴きやみます。

暦便覧では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明しています。

「ひと雨一度:ひとあめいちど」:
この時期秋の長雨やにわか雨がよく降ります。読んで字の如く、この季節の雨のたびに気温が下がって秋の気配が深まる例えです。

「観天望気:かんてんぼうき」:風や雲の動きや形で、これからの天気を予測することです。天気の諺では「朝焼けは雨の予兆・夕焼けの翌日は晴れ」といったものが有名、「秋の夕焼け鎌を砥げ」秋の夕焼けの翌日は、天気がいいから収穫が出来るように鎌を研いで用意しようといった意です。 寒露の頃は、五穀の収穫も最盛期に入り農家では繁忙を極めます。

141002_23.jpg先人は天気とともに生活をしていました。積乱雲でもすじ雲・イワシ雲・ヒツジ雲など天気の下り坂を予期したものです。

※「櫨:はぜ」は、うるし科うるし属。6月頃に円錐状の黄緑色の小花を咲かせます。雄株には灰色の小果が実り、これから蝋(ろう)が取れます。山漆(やまうるし)によく似ていて触るとカブレるので注意。
天正年間(1570年頃)に中国から種子で伝わり、蝋燭の原料として筑前で栽培され九州一円に広まりました。櫨の紅葉は、赤色がモミジより美しく鮮やか
131003_22.jpg◆◆「七十二侯」◆◆
◆初候「鴻雁来:こうがんきたる」雁が飛来し始める。
◇雁が飛来し始める時節。鴻雁=秋に飛来する渡り鳥のがん。鴻鴈とも。「鴻」はがんの大型で「雁」はがんの小型のものをいいます。また、鴻雁は大きながんを指すとも。
 
◆次候「菊花開:きくかひらく」:菊の花が咲く。
◇菊の花が咲き始める時節。
 
◆末候「蟋蟀在戸:しつそくこにあり」:蟋蟀が戸の辺りで鳴く。
◇蟋蟀(きりぎりす)が戸にあって鳴く時節。蟋蟀(しっしゅう)=きりぎりす。促織(しつそつ)とも。こおろぎ、いどとの異名とも。
100928_4.jpg 
◆◆「10月の花」◆◆
「菊」 きく科きく属 学名:クリサンセマム ギリシャ語のchrysos(黄金色)+ anthemon(花)が語源。
 
開花時期は10月20日~12月20日頃。平安時代に中国から渡来しました。その後、改良が重ねられ多くの品種が出来上がりました。
 
「きく」は「菊を音読み」したもので、菊の字は「散らばった米を一箇所に集める」の意。菊の花弁を米に見立てたもの。「菊」は究極・最終を意味し、1年の終わりに咲くことからそう名付けられました。
 
菊花展で見かける大輪の菊は「厚物」(あつもの=大輪もの)、「管物」(くだもの=細い花びらのもの)に分けられます。
 
中国では「菊」は不老長寿の薬効があると信じられ、陰暦9月9日「重陽の節句」には菊酒を酌み交わし、長寿を願いました。これが日本に伝わり「重陽の宴」が催されるようになりました。後に菊は「皇室の紋章」となり、日本の国花になりました。
 
花言葉は「思慮深い」「真実、元気」「いつも愉快」「私はあなたを愛する」など。
 
121002_26.jpg◆◆「秋の七草」◆◆
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり)かき数うれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」 
(山上憶良/万葉集)

★萩(はぎ)=豆科はぎ属。花は豆のような蝶形花。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料。葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に。根を煎じて眩暈やのぼせの薬にするなど人々の生活にも溶け込んでいました。
 
★薄(すすき)=稲科すすき属。収穫した物を悪霊から守る力があるとされます。屋根材の他に炭俵、家畜の餌などに利用されます。別名:尾花(おばな)。
 
★桔梗(ききょう)=ききょう科ききょう属、紫または白の美しい花。漢方では太い根を干して咳や咽喉の薬に。薬用成分のサポニンを含有し、昆虫にとっては有毒なため昆虫からの食害から自らを守っています。
 
昔から武士に好まれたようで、家紋に取り入れられました。「桔梗の間」「桔梗門」など。万葉集に出てくる「朝顔」は、この桔梗のことであるといわれます。
 
★撫子(なでしこ)=なでしこ科なでしこ属、ピンク色の可憐な花。我が子を撫でるように可愛いことから、この名前が付きました。この花は「ピンク」という色の語源になっています。
 
中国から平安時代に渡来した「唐撫子」(からなでしこ)に対して、在来種を「大和撫子」(やまとなでしこ)と呼び、日本女性の美称に使われます。
 
★葛(くず)=豆科くず属、周囲の木をツルで覆ってしまう程の生命力。大和の国(奈良県)の国栖(くず)が葛粉の産地であったことから。「葛」は漢名。ツルの部分は「葛布」の原料。
 
根は多量の澱粉を含んでいて、漢方薬で使われる「葛根」(かっこん:解熱作用)の原料です。葛粉、葛餅など。
 
★藤袴(ふじばかま)=菊科ふじばかま属。花の色は藤色で、花弁の形が袴の形をしている。桜餅のような香り。平安時代の女性は、干した藤袴の茎や葉を水につけて髪を洗いました。また、防虫剤や芳香剤、お茶などにも利用していました。
 
★女郎花(おみなえし)=おみなえし科おみなえし属。山野に生える黄色い清楚な花。「おみな」は「女」の意。「えし」は古語「へし(圧)」のことで、美女を圧倒する美しさから。
 
餅米で炊く御飯「おこわ」を「男飯」と言ったのに対し「粟(あわ)御飯」のことを「女飯」と言っていましたが、花が粟粒のように黄色く粒々していることから「女飯」を「おみなめし」「おみなえし」と言うようになったという説もあります。
 
「女郎花」と書くようになったのは平安時代の中頃。因みに「男郎花」という花もあります。
 
◆1月7日、春の七草「七種菜羹:しちしゅさいのかん」を食べ無病を祈る風習で「食」に関するものですが、秋の七草は「花を楽しむ」ことに所以しています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
秋の天気は「女心と秋の空」、移り変わりが激しい例えは一般的です。秋は台風来襲、上陸して被害を出すことがあります。
天気予報が正確になった今日でも、台風の被害は減りません。台風が通り過ぎるのを待って台風一過、秋の青空を眺めたいものです。これも「女心と秋の空」でしょうか!

朝夕、冷え込みがきつくなってきました。読者の皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月8日(月)「体育の日」です。■ 141104_24.jpg
昭和39年(1964)に10月10日に開催された「東京オリンピック開会式」での輝かしい成果と感動を記念し、昭和41年(1966)国民の祝日に関する法律によって「国民がスポーツに親しみ、健康な心身を培う日」を趣旨とし、国民の祝日に制定されました。 

昭和39年東京オリンピックの開会日が夏季オリンピック開催日としては異例に遅い10月10日となりました。それは、秋雨前線が去った後の東京地方の「晴れの特異日」だった事による、と言われていますが、昭和34年当時10月10日は特異日ではありません。

171005_10.jpg
昭和34年発効の「気象学ハンドブック」によれば、10月の晴れの特異日は14日とされています。 「特異日」とはその前後の日に比して特定の天気が集中する日のことで日本の観測史上、晴れる確率が最も高い日が「10月10日」で、この特異はいまでも継続中です。 

昭和36年(1961)に制定された「スポーツ振興法」では10月第1土曜日を「スポーツの日」としていましたが、この日は祝日ではありませんでした。その後、昭和39年に日本で初めて五輪大会「東京オリンピック」の開会式が開催されたため、それを記念して昭和41年(1966)から東京オリンピックの開会式のあった10月10日を「体育の日」として祝日に定めました。

平成12年(2000)からは「ハッピーマンデー法」の制定により、10月第2月曜日が「体育の日」となりました。 体育の日はスポーツ施設の使用料を割り引きや無料にしたり、様々な催し物を開催する所もあります。
モータースポーツの最高峰フォーミュラ1の日本グランプリもこの時期に行われることが多いです。
島根県出雲市では三大大学駅伝の開幕戦・出雲全日本大学選抜駅伝が行われます。

141104_26.jpg国民の祝日に関する法律
 
昭和23年法律 178号。国民が祝い、感謝し、記念すべき日を休日として定めた法律です。
元日 (1月1日)、成人の日(1月第2月曜日)、建国記念の日(2月11日<政令で定める日>)、春分の日 (春分日)、昭和の日(4月 29日)、憲法記念日 (5月3日)、みどりの日(5月4日)、こどもの日(5月5日) 、海の日(7月第3月曜日)、山の日(8月11日)、敬老の日(9月第3月曜日)、秋分の日 (秋分日)、体育の日(10月第2月曜日) 、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月 23日)、天皇誕生日(12月 23日) がそれです。 

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

体育の日の前後に運動会を開催する学校・団体は多いようです。
日頃スポーツに親しむことの少ない現代人は、運動会ではりきりすぎて病院にお世話になる事が絶えないと言います。
特に、運動会では「元陸上部」だったというパパが登場し、学生時代の自分の体と、現実の自分の体とのギャップがあることを忘れて走り、次の日に筋肉痛に襲われるなど、どちらにしても大変です。
やはり運動会を楽しむためには、体育の日のみならず日頃からスポーツに親しむという努力が大切です。
季節の変わり目です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月8日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
二十四節気では「寒露」です。まだまだ暑い日が続きますが暦の上では秋です。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■10月7~9日「長崎くんち」です。■
「長崎くんち」とは、長崎市民の氏神である鎮西大社「諏訪神社」の秋の例大祭のことで、日本三大祭と称される長崎最大のイベントです。昭和54年、国の重要無形民俗文化財に指定。博多おくんち(福岡県福岡市・櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市・唐津神社)と並んで「日本三大くんち」と呼ばれます。
181004_10.jpg「おくんち」とは「御九日・おくにち」のことで、旧暦9月9日、重陽の節句のこと、又は例祭のことを言います。御供日、御宮日とも書き、これが訛った言い方です。
 
「長崎くんち」は寛永11年(1634)諏訪神社前で、丸山町と寄合両町の二人の遊女が、謡曲「小舞」を奉納したのが祭の始まりであると伝わります。キリシタン弾圧政策として幕府がこの祭を利用したため、年々盛大なものになっていきました。
 
初日、諏訪神社本社で遷座式が執り行われ、三基の神輿を拝殿に奉安したのち、踊町による踊りが奉納されます。踊りを奉納するのは氏子の町民で、江戸時代の長崎の市街地77ヶ町を7分割し、1ヶ町が7年に1度踊りを奉納することになっています。
 
踊りの当番町を「踊町」と称し、後の町の再編成などで町名や町数

は変わっても7年一巡制は今日も踏襲され、毎年5~7ヶ町が踊町となって奉納踊を披露しています。色々な奉納踊りがありますが、特に蛇踊り、傘鉾、川船などが有名です。
午後になると「渡御式:おくだりしき」が行われ、三基の神輿が二百段の石段を一気に駆け下り、大波止の御旅所に渡されます。神輿は翌々日の朝、市中を練ったあと、諏訪の長坂を一気に駆け上がり本社に「還幸」(おのぼり)します。
181004_11.jpg鎮西大社「諏訪神社」の御祭神は、諏訪大神・森崎大神・住吉大神の三社で、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されています。

かつて戦国時代の長崎はキリスト教の領土となり、神社も寺も焼き払われてしまいました。寛永2年(1625)初代宮司・青木賢清は、諏訪・森崎・住吉の3社を西山郷丸山に再興、長崎の産土神としました。
 
慶安元年(1648)幕府より朱印地を得て、鎮西無比の荘厳な社殿が造営されました。安政4年(1857)不慮の火災に遭い社殿の殆んど焼失しましたが、孝明天皇の思召しにより再建がなされ、明治2年(1869)約10年の歳月をかけて、以前に勝る社殿が完成しました。
 
昭和59年の御鎮座360年祭、平成6年の370年祭にあわせて二度の記念造営を行い、現在の社殿が造営されました。
 
諏訪神社
◇長崎市上西山町18番15号
◇路面電車「諏訪神社前」下車
◇長崎芒塚・出島ICより約10分
◇公式HP
http://www.osuwasan.jp/index.html
◇長崎くんちhttp://www.osuwasan.jp/reisai/index.html


◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
あまり知られてはいませんが、キリスト教の布教によって寺社仏閣が焼き払われた歴史を持つ長崎です。「おくんち」は幕府がキリスト教弾圧に、神社の祭礼を利用したとあります。
各地の祭礼や忌日などの発祥を調べていると、土地に根付く歴史があることがわかります。「季節のお便り」はそれを紐解き歴史を知る楽しさがあります。
読者の皆様、朝晩はめっきり涼しくなりました。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

八木宏之プロフィール
セントラル総合研究所・八木宏之
株式会社セントラル総合研究所
代表取締役社長

連帯保証人制度見直し協議会発起人。NPO法人自殺対策支援センターLIFE LINK賛同者。
平成8年、経営者への財務アドバイスなどの経験を活かし、事業再生専門コンサルティング会社を設立。以来14年間、中小企業の「事業再生と敗者復活」を掲げ、9000件近い相談に応えてきました。
事業再生に関わる著書も多く出版。平成22年5月『たかが赤字でくよくよするな!』(大和書房)など多く出版。平成14年、『借りたカネは返すな!』(アスコム)はシリーズ55万部を記録しました。
著書の紹介はこちらから。

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