二十四節気は1年を24の節に分け、節気ごとに命名して気候の変化、推移を知り、社会や生活の中で季節感を役立てるものです。

11月のお便り

■11月28日「税関記念日」です。■ 141112_16.jpg
税関の歴史は日本の交易の歴史と共にあります。
江戸時代は長崎が唯一の国際港だったので、元禄11年(1698)に「長崎会所」が設置され、貿易に関する一切の管理をするようになりました。

日米和親条約
幕末の安政元年(1854)に結ばれた日米和親条約を皮切りに、我が国は諸外国に対し次々に港を開き外国船が入港できるようにしました。
安政6年(1859)、長崎、神奈川及び箱館(函館)の港「運上所」が設けられました。今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになりました。
これが現在の税関の前身です。

「運上所」を「税関」に
明治5年(1872)11月28日、それまでの「運上所」を「税関」と改称することが決まりました。これを記念して11月28日は税関記念日になっています。1952年に大蔵省(当時)が制定しました。 
税関はこういう歴史的な背景があるため、大きな貿易港に合わせて本関が設置されています。 

函館税関(安政6年(1859)設置-箱館運上所)北海道・北東北3県を管理。戦前は樺太も管理していた。
現在の支署は稚内・留萌・札幌・小樽・根室・釧路・苫小牧・室蘭・青森・八戸・秋田船川・宮古・大船渡※秋田船川支署は以前は新潟税関の支署でした。 

横浜税関(安政6年(1859)設置―神奈川運上所)神奈川県から宮城県までの太平洋岸を管理
現在の支署は
塩釜・仙台・小名浜・鹿島・千葉・川崎・横須賀 

東京税関(昭和28年(1953)独立)昭和28年に横浜税関から独立し、昭和30年に新潟税関およびその酒田支署を合併しました。
現在の支署は
新潟・酒田・成田で、東京・埼玉・群馬・山梨・新潟・山形の6都県を管轄しています。
千葉県は基本的には横浜税関の管轄なのですが、成田空港関連施設だけは東京税関の担当になっています。
※慶応3年(1867)に幕府が東京運上所を設置していますが、ここは後消滅しています。 

大阪税関(慶応3年(1867)設置-川口運上所)大阪・京都・和歌山および北陸3県を管轄しています。
現在の支署は
和歌山・関西空港・堺・京都・舞鶴・敦賀・金沢・伏木 

名古屋税関(昭和12年(1937)独立)1907年に大阪税関名古屋支署として発足。昭和12年(1937)に独立。東海地区を管轄
現在の支署は、
清水・豊橋・四日市・中部空港豊橋支署はトヨタのためにあるような税関です。 

神戸税関(慶応4年(1868)設置―兵庫運上所)横浜と並ぶ大国際港・神戸と共に発展した税関で、兵庫県だけでなく、中国地方の大部分と四国地方を管轄しています。
現在の支署は
姫路・尼崎・境・浜田・宇野・水島・福山・広島・呉・小松島・坂出・新居浜・今治・松山・高知、異様に支署の多い区域です。 

長崎税関(元禄11年(1698)設置)江戸時代初期からある日本最古の税関。九州全域から山口県までを管轄していましたが、昭和28年(1953)に門司税関を分離しました。
現在の担当地域は
九州西部4県で、支署は佐世保・三池・八代・鹿児島です。 
141112_17.jpg長崎税関の建物:左から明治40年頃、昭和2年築、現在のもの

門司税関(昭和28年(1953)独立)門司港・福岡港の取扱量が多いため、昭和23年(1953)に長崎税関から独立し、九州の東部3県と山口県を管轄しています。
現在の支署は
岩国・徳山・宇部・下関・戸畑・博多・福岡空港・伊万里・厳原・細島・大分 

沖縄地区税関(昭和26年(1951)設置―琉球税関)明治19年(1886)に長崎税関の西表支署が設置され、明治27年(1894)には那覇支署も開設されていました。戦後アメリカにより、昭和26年(1951)琉球税関と名瀬支署が設置されますが、名瀬は奄美の日本復帰に伴い長崎税関の管轄に移行。沖縄本土復帰後の昭和47年(1972)に沖縄地区税関が設置されました。
現在の支署は
沖縄・那覇空港・石垣ここで沖縄支署というのは紛らわしいのですが、沖縄市にある支署です。 

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▼税関の主な役割は、そこを通過する物品の検査と必要に応じて税金(関税)を徴収することです。税関の歴史は江戸時代に遡ります。一貫して継続されている機関に税関があ、長崎税関は創設350年を数えます。
私たちが個人輸入したような場合、多くは国内の配送を担当する会社が税関で関税を代行払いしてくれて、品物を受け取る時に一緒に払うことが多いです。
主な港および空港には、税関と入国管理局などが設置されています。 

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆ 
輸入された物を扱う税関で管轄は当然「財務省」です。
人間の方の出入国の検査は「法務省」の入国管理局が行っています。よく間違えるのが税関と入国管理局は外務省管轄ではないのかと勘違いする人が多いようです。
ここにも縦割り行政が存在していて、貨物コンテナに密航者がいた場合には入国管理局か税関かと迷いますが、所轄警察の管轄で身柄は入国管理局になるんだそうです。 
うすぐ12月師走です。平成28年がすぐそこです。 
寒い日が続きます。皆様、お体ご自愛専一の程 
筆者敬白

■11月28日「東京品川、千体荒神大祭」です。■
111125_11.jpg江戸三十三箇所観音札所番外、本尊に十一面観世音菩薩を祀る曹洞宗「海雲寺:かいうんじ」は、建長3年(1251)僧不山によって開基。

はじめは「庵瑞林」といい、海晏寺境内にあって臨済宗でしたが、慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になりました。火と水を守る台所の神様として信仰されています。
 
▼千体荒神大祭
江戸時代から続く春秋の例大祭のことで、毎年3月と11月の27、28日に千体荒神王がご開帳となります。
本尊の十一面観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、一帯の
「鮫洲」という地名の由来ともなっています。

千体荒神大祭では家内安全、火災消除を祈願して大護摩修行が勤行され、三宝荒神を祀れば心願成就、開運出世諸災消除、台所で一番大切な火と水を守る竃の神様のご利益により、一切の災難を除き、衣食住に不自由しないとされています。

境内や門前の東海道には、縁起物のお釜の形をした名物「窯オコシ」や、荒神松、くず餅などが売られる他、多くの露店が立並び参拝者で賑わいます。

春は3月27~28日、秋は11月27~28日開催。

海雲寺
◇東京都品川区南品川3-5-21
◇京浜急行線「青物横丁駅」徒歩5分
◇参考ブログ:
http://blog.goo.ne.jp/hkanda_1933/e/f8364473424c96c44223b72fa282f615
◇参考ブログhttp://tencoo.fc2web.com/jinja/xtsg-kaiun.htm


■11月25日「憂国忌」です。■
111114_23.jpg「憂国忌:ゆうこくき」は、三島由紀夫の忌日です。「三島由紀夫:みしまゆきお」は、東京生まれの小説家、劇作家。また右翼思想家。本名は、平岡公威(ひらおかきみたけ)

大正14年(1925)1月14日、東京市四谷区永住町(現在の東京都新宿区四谷)に、平岡梓と倭文重の間に長男として生まれました。「公威:きみたけ」の名は、祖父・定太郎の命名。

代表作は、小説に「仮面の告白」「禁色」「潮騒」「金閣寺」「豊饒の海」四部作など。戯曲に「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」「近代能楽集」など。美に最高の価値を認める唯美的な作風が特徴です。

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昭和45年(1970)11月25日、「楯の会」の会長として陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を、森田必勝ら楯の会メンバー4名と共に訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をするも失敗し、後に割腹自殺(三島事件)を遂げました。45歳没。

筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来。決起当日の朝、担当編集者の手に渡った「豊饒の海」第四部「天人五衰」最終話、日付は11月25日と記載され、これが最後の作品となりました。

戒名「彰武院文鑑公威居士」。忌日は「憂国忌」と呼ばれ、三島由紀夫研究会などにより偲ぶ集いが行われます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
三島由紀夫研究会
http://mishima.xii.jp/contents/index.html
研究会の中に「憂国忌 趣意書」があります。ご興味のある方は必見です。
筆者敬白

■11月27日「不成就日(ふじょうじゅび)」■
110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

しかし、文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたらしい。現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
現代では、不成就日はあまり重要視されません。何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。正確な謂れは今のところ定かではありません。現代社会では当たり前の月~日曜の7曜制が定着前には、不成就日を休業や休みの日にしたようです。
ひと月に3~4回あります。
筆者敬白

■11月26日「防府天満宮 御神幸祭、裸坊祭」です。■
121120_26.jpg「防府天満宮:ほうふてんまんぐう」は、学問の神様・菅原道真を祀ります。道真が亡くなった翌年の延喜2年(904)に出来た日本でも古い天満宮です。

かつては「松崎天満宮」「宮市天満宮」と称しました。明治6年(1873)近代社格制度のもとで県社に列格し「松崎神社」と改称。昭和28年(1953)に「防府天満宮」と再び改称しました。

京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び「三天神」と言われますが、これは道真が宮中での権力争いで失墜し、九州の太宰府に流されていく道筋での宿泊地であると伝わります。

防府天神祭御神幸祭「裸坊祭」は、菅公が立寄りの際、送迎をなしたるに起因してその儀式を今に伝えるものです。御旅所はその際の遺跡で、浜殿奉行と云う役が当時の饗応になぞらえ、供膳の儀を奉仕します。

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一条天皇寛弘元年(1004)10月に初めて北野の菅廟に行幸され、同月15日に防府へ勅使を遣えた際、大・小行司が神幸の供奉に列し、それより常典となり伝わります。

裸坊の供奉は、江戸時代中期より特に崇敬の念篤い信徒達が、身心の穢れを清め真に清浄潔白になる意味から寒中水垢離をとり裸体となり、僅かに白木綿を身にまとって供奉する者が逐年増加し、勇壮な祭典として広く全国に知られるようになりました。近年は裸坊は白シャツ等を用いて白装します。

防府天神祭御神幸祭では、様々な神事が執り行われます。

防府天満宮
◇山口県防府市松崎町14-1 
◇JR「防府駅」より
◇山陽自動車道「防府東IC」「防府西IC」車10分
◇HP
http://www.hofutenmangu.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
平成27年で裸防祭は1012回を数えるそうです。
菅原道真を現代風に談じると、出世争いに負けて地方左遷の憂き目に遭った際、崇敬する志のある人に乞われて逗留し文化の基礎を伝授した功績を残す為天満宮が作られた。
といったところでしょうか。
今も昔も組織の理屈は変わっていないようです。
それにしても今の世に伝わる天満宮、歴史を感じます。
筆者敬白

■11月23日「二の酉」です。■
111028_2.jpg酉の市」は、11月の酉の日に行われる鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼に立つ市を指します。正式には酉の市と書いて「とりのまち」と読み、酉の祭(とりのまち)、大酉祭とも。「おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

最初の酉の日を「一の酉」次の酉の日を「二の酉」その次を「三の酉」といいます。平成28年は三の酉がない年です。

「一の酉」は、11月11日(金)
「二の酉」は、11月23日(水)
「三の酉」はありません。


長い歴史を持つ神祭「酉の市」は、春を迎える神事祭礼で、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りするお祭です。開催時間は午前0時~午後24時まで。午前0時の一番太鼓と共に市が始まり、丸一日間執り行われます。

鷲は獲物を「ワシヅカミ」にします。その爪を模したものが「熊手:くまで」とか。「福徳をかき集める」「福をとり(酉)こむ」「かきこむ」「はきこむ」という招福の縁起物として、農具の熊手、おかめ、入り船などが売られます。

境内は「縁起熊手」「かっこめ」を求める人で賑わいます。熊手商と「買った負けた」とのやり取りを楽しんだあと、商談が成立すると威勢よく江戸締めによる「手締め」が打たれます。

気に入った熊手を見付け、その金額をまけさせ、その分を店側に「ご祝儀」として渡すのが粋な買い方。手締めはこのご祝儀に対して行われます。結局のところ定額を支払っていることになるわけですが・・・・。

始めは小さなものを求め、年々大きくしてゆきます。

酉の市は東京都台東区「鷲神社」、新宿区「花園神社」など、関東地方各地の社寺で行われます。

酉の市(二の酉)
◇鷲神社
http://www.otorisama.or.jp/
◇花園神社http://www.hanazono-jinja.or.jp/mt/top/
◇酉の市http://www.torinoichi.jp/

 

■11月25日「神道修成派 教霊大祭」です。■
「神道修成派:しんとうしゅうせいは」は、教派神道で、神道十三派に代表される神道系新宗教教団の一つです。

「天之御中主神:あめのみなかぬしのかみ」、「高皇産霊神:たかみむすびのかみ」、「神皇産霊神:かみむすびのかみ」、「伊邪那岐大神:いざなぎのおおかみ」、「天照大御神:あまてらすおおみかみ」、天神地祇八百万神を総称した「修成大神:しゅうせいおおかみ」を祀ります。

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教霊殿には、教祖・新田邦光第二代管長・新田邦貞、第三代管長・新田邦達をお祀ります。教義は儒教の影響を受けており、信者数は約4万人といわれます。

教祖「新田邦光:にったくにてる」は、徳島県美馬郡脇町拝原で誕生。幼名・竹沢寛三郎。幼少より文武両道を研鑽し、脇屋義助(新田義貞の弟)の子孫であるという自覚の元、19歳頃より諸国を巡遊し、勤王の志士として粟田宮・岩倉具視・梅田雲浜・橋本左内らと交遊しました。

嘉永元年(1848)20歳の時に布教伝道の志を立て、安政年間には京都聖護院村で門人の教化を開始。明治維新に際しては濃飛鎮撫の大命を拝し、門人を率いて王政復古の主旨を説き、戦わずして鎮撫。飛州高山取締となりましたが、年貢半減問題などの政治の渦中に巻き込まれ武州忍城に幽閉されました。

その幽閉中、大病に罹るなど困難もありましたが、神の加護によって生死の境を越え、宗教的回心に達しました。赦免後、修成道の教法によって教導に専念。明治2年(1869)古事記・日本書紀の神道聖典に源由した哲理神道神学の神髄「修理固成光華明彩(しゅうりこせいこうかめいさい)」の教法により開教。

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明治6年(1873)8月「修成講社」創立が教部省より許可され、明治9年(1876)10月23日に教派神道13派の中で最初に一派特立が許可されました。昭和28年(1953)4月、本部教会「大元祠:だいげんし」を静岡県磐田郡豊岡村に遷座し、昭和51年(1976)に御神殿、開教120年にあたる平成元年(1989)大拝殿が大元祠山上祠に造営され、平成11年(1999)に開教130年を迎えました。

「教祖教霊祭」は、教祖と信者の御霊を祭るお祭りです。毎年11月24、25日に行なわれます。

◇◇神道について◇◇
「神道:しんとう」とは、今では多信教の宗教に属します。祖霊崇拝自然現象を神として崇拝する性質が強く、古いものほど尊ばれています。鎌倉時代に伊勢神宮の神官による学問的研究が始まり、江戸時代には「お伊勢参り」が確立され、一般庶民の支持をも得ました。

明治13年(1880)東京日比谷の神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい論争が起こりました。翌年、明治天皇の裁決により「伊勢派」が勝利し、「天照大神」が最高神格を得ました。敗北した「出雲派」「大国主大神」は、2番手となりました。

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◇◇神社本庁設立◇◇
昭和20年(1945)
終戦後、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督ならびに公布の廃止という「神道指令」により、神社は国家から分離することになりました。翌年、神社本庁を設立し、宗教法人として神社神道が再出発されました。

現在の神道は、延喜式(神名帳)により統制されています。神道に属する神々を祭神とする社を「神社」と言い、全国の神社の殆どは神社本庁が統括しています。政教分離の性質上、今上天皇が神道に触れることは正式にはありません。天皇家と神道は歴史上密接な関わりを持っています。

神道十三派出雲大社教・御嶽教・黒住教・金光教・實行教・神習教・神道修正派・神道大教・神理教・扶桑教・契教・大成教・天理教の13派 

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■11月25日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。

江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。


・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■11月24日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。


120125_15.jpg一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。
但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。
・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日

※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。
吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、多い割には見過ごされやすい歴注です。手習い、開店、事始めには最適の日です。もう11月、季節は冬に向かっています。体調を崩しやすい時期です。皆様。時節柄お体ご自愛専一の程

筆者敬白

■11月23日「二の酉」です。■
131026_26.jpg酉の市は、11月の酉の日に行われる「鷲神社:おおとりじんじゃ」に祀られる開運招福の守り本尊鷲妙見大菩薩:わしみょうけんだいぼさつです。正式には酉の市と書いて「とりのまち」と読み、酉の祭(とりのまち)、大酉祭とも。「おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

最初の酉の日を「一の酉」次の酉の日を「二の酉」その次を「三の酉」といいます。平成28年は三の酉がない年です。

「一の酉」は、11月11日(金)
「二の酉」は、11月23日(水)
「三の酉」はありません。


鷲神社:おおとりじんじゃ」に祀られる開運招福の守り本尊「鷲妙見大菩薩:わしみょうけんだいぼさつ」は、「鷲大明神:おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

121118_27.jpg鎌倉時代の文永2年(1265)宗祖・日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす=千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山・鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ「にわかに明星(金星)が動き出して、不思議な力をもってして現れ出でた」と伝わります。

それは、11月酉の日のこと。七曜の冠を戴き、宝剣をかざして、鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」「おとりさま」と呼ばれてきました。

浅草酉の市は、酉の寺「長國寺」の「妙見大菩薩」ご開帳の法要で始まります。今年の二の酉は「21日の午後11時55分」半鐘が打ち鳴らされ本堂へ入堂。本堂前には参詣者が集まります。「27日の午前0時」一番太鼓を合図にご開帳の読経が始まり「鷲妙見大菩薩のご開帳」です。

住職が宝剣を振り、本堂内を浄めた後、本堂前に集まった参詣者に宝剣を振り、祭りに関わる一切の難を祓って安全を祈念します。

白装束の僧侶「祈祷師」による大迫力の「開運招福の祈祷」の後、熊手商の音頭で参詣者全員が威勢のよい開運手締めを打ちます。多いときには千人を越す人が集まります。

111101_20.jpg鷲妙見大菩薩ご開帳の間、特別祈願の祈祷を終日行っています。特に酉の市が始まる深夜午前0時ご開帳法要直後の「一番祈祷」には多くの祈願者が集まります。祈祷のあと「開運のお札」を受け、客殿で赤飯と煮〆の軽い「お斎:おとき」を頂きます。

午後24時「ご開帳の法要」が執り行われます。終日、多くの参詣者と縁を結んだ「鷲妙見大菩薩」が安置される厨子の扉を静かに閉じて、酉の市の終了です。

酉の市(参考:二の酉)
◇東京都台東区千束3-19-6
◇法華宗鷲在山長國寺境内
◇東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」徒歩9分
◇東京メトロ日比谷線「入谷駅」徒歩7分
◇酉の市
http://www.torinoichi.jp/

■11月23日「熊本、八代妙見祭」です。■
141112_25.jpg「八代神社:やつしろじんじゃ」の祭神は「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)妙見菩薩」です。

後鳥羽天皇の勅願により文治2年(1186)八代平野に「妙見宮」が創建されました。「妙見縁起」には、むかし漢土の白木山神が目深・手長・足早となり、明州の津より亀蛇(きだ)に駕して天武朝の白鳳九年に来朝し、八代郡土北郷白木山八千把村の竹原の津に着岸、三年仮座、次いで益城郡小熊野郷千代松ヵ峰に移り、そして八代郡横嶽(上宮)に鎮座したとあります。

明治4年に「八代神社」に改称。現在の建物は、元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に改築されたもので、社殿は県指定の重文。入母屋造りの屋根の正面には千鳥破風が設けられ、これらの妻飾りには数多くの彫刻が使用され、江戸時代中期から後期にかけての社寺建築の特徴をよくあらわしています。

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「妙見信仰」とは、北極星あるいは北斗七星を崇拝する信仰で、妙見信仰を持つ文化集団が、中国大陸から永住の地を求めて八代に上陸したと歴史書に記されています。「北極星」あるいは「北斗七星」は、天の中心の星であり「天帝の星」とも。四神の一つ「玄武」は北の守護神で、北は水を意味し、北斗七星も柄杓の形をした司水の神さまでもあります。

11月中旬に行われる祭礼「妙見祭」は、九州三大祭りの1つに数えられています。神輿渡御式の際に約5mの亀蛇が首を振りながら道を清めて歩くことで有名です。神幸行列には、奴・神輿・笠鉾・獅子舞などを伴って行列し、最後に飾り馬・神馬が駆けます。獅子舞は中国色の強い珍しいもの。神事の神幸行列は、県の無形民族文化財に指定されています。

八代神社
◇熊本県八代市妙見町405
◇JR「八代駅」バス10分
◇九州自動車道「八代IC」5分
◇八代妙見祭
http://www.myouken.com/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
妙見信仰は一種独特の信仰で仏教にも日本神道にも数多く影響を与えているようです。修験道や山岳信仰、役行者、密教、日蓮宗などに影響を残しているようです。
「四神相応図」によると北は玄武の守護で色は黒、水を司るとされています。九星では水気(一白水星)の人の守護です。
発祥はともかく九州三大祭りに数えられています。祭礼の行列は中国のイメージが強く文化伝来の経路を現しているようです。
日が沈むとめっきり寒くなります。お出掛けの際には、お風邪など引かないように一枚余分にお召し下さい。
時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月23日「笠間稲荷、献穀献繭祭」です。■
111114_15.jpg「笠間稲荷神社:かさまいなりじんじゃ」は、第36代孝徳天皇の白雉2年(651)創建。旧社格は村社。現在は神社本庁の別表神社。別称「胡桃下稲荷:くるみがしたいなり」、別には「紋三郎稲荷」、1350余年の歴史を有します。


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奈良時代、和銅6年(713)に、元明天皇の詔によって編纂が命じられた「常陸国風土記」には、「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記され、その頃には笠間のこの地で「古事記」「日本書紀」に描かれる「宇迦之御魂神:うかのみたまのかみ」への信仰が深く根ざし、食物の神、農業の神として崇敬されていたことがわかります。

近世になると、農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名に至るまで分霊され、屋敷神、家庭神、地域神として祀られるようになりました。江戸時代には、歴代笠間藩主の崇敬篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神の分霊を祀り、今の王子山稲荷となっています。

「イナリ」の語源は「イネナリ・稲成、稲生り」で、稲が育つさまを表しているという説、「イネカリ・稲刈」「刈」「荷」に誤られたといった説、「イナニ・稲荷」「イナリ」に転訛したとも説かれています。

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神名「宇迦之御魂神:うかのみたまのかみ」「ウカ」とは「貴い食物」の意。つまり宇迦之御魂神とは「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまといわれます。
宇迦之御魂神は、須佐之男神(すさのお)と神大市比売神(かむおおいちひめ)との間に生まれた神さまです。

新嘗祭(にいなめさい)はその年の新穀を神々に供え収獲を感謝する祭儀ですが、笠間稲荷では「献穀献繭祭:けんこくけんけんさい」と称して、明治41年に始められ、初穂米(神様に奉納する新米)の奉納と、神社の御神饌田にて栽培した種籾の頒布を受けた人々の謝恩奉納、更に養蚕業発展を目的とした献繭祭、また、献穀品評会・献繭品評会が開催されます。

穀類約2000点・繭類約300点が出品され、農林水産省他に審査を依頼。11月23日には御神前において優秀者の表彰が行われ、境内には出品物の展示も行われます。

笠間稲荷神社
◇茨城県笠間市笠間1番地
◇JR水戸線「笠間駅」徒歩約20分またはタクシーで約5分
◇北関東自動車道「友部IC」国道355号経由約15分
◇常磐自動車道「水戸IC」国道50号線経由約20分
◇高速バス:東京八重洲南口から1日6往復運行
◇笠間稲荷HP
http://www.kasama.or.jp/

■11月23日「勤労感謝の日」です■
141104_20.jpg勤労感謝の日は、「国民の祝日に関する法律」簡便称呼で「祝日法」(昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としています。昭和23年(1948)に公布・施行された祝日法によって制定されました。

 大東亜戦争前、農業国だった日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習がありました。また、その年の収穫物は国家としても1年を養う大切な蓄えとなることから、農産物・海産物など収穫物に感謝する大事な行事として、飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった「新嘗祭:にいなめさい、しんじょうさい」の日があります。

141104_21.jpg大東亜戦争後のGHQの占領政策によって皇室の祭祀、国事神道行事から切り離される形で「勤労感謝の日」に改められました。 このような歴史的経緯で「新嘗祭」だった祝日が新たに「勤労感謝の日」として制定されたのです。

 祝日法の趣旨の中の「勤労をたつとび」とは、「収穫をもたらした1年の勤労を尊ぶ」の意なのでしょう。この日を中心に各地で「農業祭」が行われます。農林水産物展示会・資材展・技術研究発表会などが催され、優秀参加出品には天皇杯や農林水産大臣賞が授与されます。

■11月「2回目の卯の日」が旧新嘗祭です。■

大東亜戦争前の「新嘗祭」は明治4年(1872)迄、旧暦11月の2回目の「卯の日」に行なわれていました。
天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、自らも新穀を食して、その年の収穫に感謝するという皇室の祭祀でした。
現在でも農業関係者による祭典という色彩が濃いのもこの頃の神事からの影響です。

 新嘗祭は、飛鳥時代、皇極天皇の御代に始められたと伝わります。一時中断されていましたが、元禄時代、東山天皇の御代に復活しました。
新嘗祭自体は、伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて「大御饌:おおみけ=神が召し上がる食事」を供える形式となりました。

141104_23.jpg▼11月23日という日付の由来

戦前の新嘗祭の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改たものです。
新嘗祭は旧暦11月の「2回目の卯の日」に行われていました。
明治3年(1873)に太陽暦が導入され、旧暦のままでは新嘗祭が翌年1月になってしまうので、新暦になっても11月の「2回目の卯の日」に行うこととしました。
 この時の日時が「11月23日」だったことから、以降この日付に固定されたました。

◆◆◆◆ 編集後記 ◆◆◆◆

勤労感謝の日も新嘗祭も収穫のよろこびを現した日です。汗水流して働き、得るものに感謝の気持ちを忘れなければ、必ず大きな喜びがくるものです。
11月に入り気温が今年最低だったと報道が目に付きます。通勤にコート姿の方を良く見かけるようになりました。寒さが日に日に厳しくなります。
お風邪などお召しにならないようにお体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月23日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
11月節の「一粒万倍日」です。暦の上では、立冬を過ぎ、冬の便りが届きます。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

◆二十四節気◆平成28年11月22日「小雪(しょうせつ)」です。◆
141120_22.jpg11月22日6時22分「小雪」です。旧暦10月、亥(い)の月の中気で、立冬後15日目。天文学的には太陽が黄経240度の点を通過するときをいいます。

小雪(しょうせつ)とは、寒さいまだ深まらず、雪いまだ大ならざるなりの候、小雪は字の如く「雪はさほど多くない」という意味です。暦便覧では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説いています。

降っても雪は多くはないものの、遠い山嶺の頂きを眺めると白銀の雪が望めます。みかんが黄ばみはじめ、収穫の頃です。 紅葉は終りを告げ、寒さは徐々に厳しくなります。朝夕の木枯らしは、冬の到来が近いと感じる頃です。

立冬から小雪にかけて日光輪王寺、彦根城、姫路城など、名勝旧跡で松ノ木に「こも巻き」をしたり、兼六園、浜離宮では「唐崎松」を最初に「雪吊り」をして冬の備えの便りが届きます。

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****小春日和****
小雪の候「小春日和」は風のない陽気のいい日和のことで旧暦の10月頃です。寒いけど麗(うら)やかな空を「小春空」、寒い日々の中でも暖かな日和の日を「小春日和」、ちなみに湖畔や海の波のおだやか状態を「小春凪(なぎ)」と呼びます。

****木枯らし****
また小雪の頃、日ごろから木枯らしが吹きます。地域の季節風にはそれぞれ呼び名があり、西日本の「乾風(あなじ)」東海道の「べっとう」など主に「颪(おろし)」と呼ばれています。関東の赤城颪・筑波颪・関西の甲颪富士颪など山から平地に吹き抜ける空っ風のことで、この季節から冬にかけて吹く木枯らしです。

おだやかな「小春日和」もあれば、木枯らしのもあります。これからの厳しい冬を予感しているようです。

101117_4.jpg◆◆「七十二候」◆◆
初候◆「虹蔵不見」(にじ かくれて みえず)
   虹を見かけなくなる時節。

次候◆「朔風払葉」(さくふう はを はらふ)
   北風が木の葉を払いのける時節。朔風(さくふう)=北から吹いてくる風。北風。朔吹とも。

末候◆「橘始黄」(たちばな はじめて きなり)
   ◇ようやく橘の葉が黄葉し始める時節。 黄ばむ=黄葉する。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
暦の上では冬に入って初めての二十四節気「小雪」です。紅葉前線も南下して九州でも紅葉している報道です。11月も下旬に入り世間ではクリスマスや、年末・年始の準備といった雰囲気になってきました。
残すところ1ヶ月少しで平成29年になります。
読者の皆様、雪の降る地域では、樹木も越冬に備えて冬支度です。
日没になると急に冷え込むこの頃です。
薄着でお風邪などお召しにならないよう、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月22日「豊川稲荷、秋季大祭」です。■
121118_25.jpg豊川稲荷:とよかわいなり」は、伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社と並ぶ日本三大稲荷の1つで、商売繁盛の善神として有名。曹洞宗の寺院で、正式寺号は「円福山豊川閣妙厳寺:みょうごんじ」

稲荷は鎮守として祀られる「荼吉尼天:だきにてん」のことで、本尊は千手観音です。「荼吉尼天」が稲穂を荷い、白い狐にまたがっている姿から「豊川稲荷」が通称として広まりました。

鎌倉時代、東海義易禅師の師・寒厳義尹禅師(かんがんぎいんぜんじ)が「宋」にわたった折、荼吉尼天の加護を受け、後に鎮守として祀られるようになりました。

今川義元、織田信長、豊臣秀吉、大岡越前守忠相、渡辺崋山などの武人、文人達の篤い信仰を受け、庶民の間では商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。年間数百万人の参拝者が訪れます。

121118_26.jpg稲荷神社」としては京都の「伏見稲荷大社」を総本山としていますが、「豊川稲荷」は神社ではなく寺院です。信仰対象は稲荷にあるものの、伏見稲荷とは同一ではありません。また俗説に「平八狐」を祀っているとした説もあります。

豊川稲荷といえば「稲荷寿司発祥の地」です。豊川稲荷周辺の蕎麦屋など飲食店が稲荷詣での参詣者にと工夫したと伝わります。近年公開された「平成狸合戦ぽんぽこ」(スタジオジブリ)に出てくる「平八狐」(鈴木平八郎の化身)を祀っているとしても有名になりました。徳川吉宗が将軍になる前のお家騒動「狐の戦い」に出てくるのが平八狐との説もあります。

「秋季大祭」は、豊年感謝祭で、神輿渡御や稚児行列が賑やかに行われます。境内にある高さ10m、直径5mの一対の大提灯が掲げられるため「大提灯まつり」とも呼ばれます。

豊川稲荷
◇愛知県豊川市豊川町1
◇JR飯田線「豊川駅」徒歩5分
◇名鉄豊川線「豊川稲荷駅」徒歩5分
◇東名高速「豊川IC」から国道151号
◇公式HP:http://toyokawainari.jp/inariframe1.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
豊川稲荷は寺院で伏見稲荷は神社です。なかなか区別は付きづらいものです。豊川稲荷には、たぬき、きつねにまつわる物語が数多く残っています。当時の人たちの自然に対する畏怖の念が、信仰になったのでしょう。
選挙で大勝した小池百合子東京都知事に変わってから、早くも3カ月がたちました。オリンピックにかかる費用の軽減、築地から豊洲への移転問題と懸案が山積しています。乗り越えられるのでしょうか。
読者の皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月21~28日「東本願寺報恩講」「親鸞聖人忌」です。■

111125_10.jpg「親鸞聖人:しんらしょうにん」は、平安の政治が終わりを告げ、源氏と平家が相争う武士の時代を迎えた頃、承安3年(1173)京都の藤原(日野)有範の長男として生まれました。
 
9歳の時、京都の東山・青蓮院で得度された後、比叡山に登って勉学に励みました。しかし、20年に及ぶ学びにもかかわらず、苦しみや悩みを乗り越える道を見付けることが出来ません。そこで出家修行に終止符を打ち、東山吉水の法然上人を訪ね、そこで「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに出会います。
 
承元元年(1207)「専修念仏禁止」の弾圧によって、師・法然は土佐へ、親鸞は越後国府へ流罪となります。親鸞35歳。藤井善信という俗名を名乗り「僧に非ず俗に非ず」という生活を送ります。赦免までの5年、後の2年間の越後で生活し、この間に恵信尼と結婚、信蓮房が生まれます。
 
赦免後は「愚禿釈親鸞:ぐどくしゃくしんらん」と自称。愚禿(ぐとく=頭を剃った愚か者の意)。京都へは戻らず、家族を伴って関東の地に向かいます。そして約20年間、多くの人々に念仏の教えを語り伝えました。
 
121118_28.jpg聖人は60歳を過ぎてから京都へ戻ります。この頃、「顕浄土真実教行証文類」が完成。弘長2年(1262)11月28日、90年の生涯を閉じ、京都の大谷の地に埋葬されました。ここに廟堂が建てられましたが、これが現在の真宗本廟(東本願寺)です。この日、親羅聖人忌法要が行われます。
 
※親鸞「愚禿鈔」より
愚禿(ぐとく)が心(しん)、内(ない)は愚にして外(げ)は賢なり
自らの内面にはさまざまな問題を抱えていながら、それを無視したり、外見でごまかして、本当ではない自分自身を演じて生きていこうとすること。
親鸞が「愚禿」という名のったは、自らに真正面に向き合い、偽らずに生きていこうとした親鸞自身の決意です。親鸞の、このような決意は、私たち一人ひとりに、「あなたは今どのように生きているのか」と問いかけいる。

浄土真宗大谷派「東本願寺」 
◇京都市下京区烏丸通七条上ル
◇JR・近鉄「京都駅」 徒歩7分
◇京都市バス「烏丸七条バス停」1分
◇東本願寺HPhttp://higashihonganji.or.jp/
◇親鸞聖人750回御遠忌http://www.honganji.or.jp/goenki/

■11月21日「近松忌」です。■
121118_21.jpg近松門左衛門:ちかまつもんざえもん」は、江戸時代前期の元禄期に活躍した歌舞伎・人形浄瑠璃の劇作家で、本名は杉森信盛。松平昌親に仕える越前藩士・杉森信義と医者の家系の岡本為竹法眼の娘・喜里の間に誕生。幼名は次郎吉。諱は信盛。


浄瑠璃では竹本義太夫、歌舞伎では坂田藤十郎と組んで活躍しました。100作以上の浄瑠璃を書きましたが、そのうち約20曲が世話物、残りは時代物です。

世話物」とは、町人社会の義理や人情をテーマとした作品で、それまでにない浄瑠璃の新しい分野として爆発的な人気を呼びました。世話物は近松作品の大きな特徴と言われます。「虚実皮膜論」という芸術論を持ち「芸の面白さは虚と実との皮膜にある」と唱えました。


121118_22.jpg曽根崎心中などの心中物は庶民の共感を呼び、人気を博しましたが、作品の真似をして心中する者が続出するようになったため、享保8年(1724)幕府は「心中物」の上演の一切を禁止。このため作家たちは心中物の脚本を書くことを断念せざるを得ませんでした。翌年の享保9年(1725)近松は72歳没。


忌日の11月22日(一説には21日とも)は、近松忌・巣林子忌・巣林忌と呼ばれ、冬の季語になっています。「久々の下り役者や近松忌」(中村吉右衛門)

墓所は日蓮宗「広済寺」。天徳1年(957)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建。後、正徳4年(1714)日昌が堂宇を建立と伝わります。俗称・近松寺

広済寺
◇兵庫県尼崎市久々知1丁目3-27
◇JR東海道線・東西線・宝塚線「尼崎駅」バス「近松公園前」下車。

■11月19日「一茶忌」です。■
111114_13.jpg小林一茶:こばやしいっさ」は、江戸時代を代表する俳諧師の一人で、本名は小林弥太郎。信濃の北部(長野県)の貧農の長男として生まれ、3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎えます。その継母に馴染めず江戸へ奉公に出され、奉公先を転々としながら25歳の時「二六庵小林竹阿」に師事し俳諧を学びます。

29歳で故郷に帰り「寛政三年紀行」を書きます。翌年から俳諧の修行の為、近畿・四国・九州を歴遊。様々な俳人と交流し、句集「たびしうゐ」「さらば笠」を出版。39歳の時、再び帰省し病気の父を看病しますが、1ヶ月後に死去。以後、遺産相続で継母と12年間も争うことに...。一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めながら遺産相続権の主張を続けました。

50歳で再度故郷に帰り、翌年にようやく遺産相続が和解。翌々年28歳のキクを妻に迎え、3男1女をもうけますが、何れも幼くして亡くしています。
 
121112_25.jpg妻キクも痛風がもとで37歳の若さで生涯を閉じます。2番目の妻を迎えますが2ヶ月で離婚。3番目の妻・ヤオとの間に1女・ヤタをもうけますが、一茶の死後に産まれ、明治まで生きて一茶の血脈を後世に伝えました。因みに、真田幸村研究の第一人者として知られる小林計一郎は一茶の子孫です。

文政10年(1827)6月1日、大火に遭い母屋を失います。焼け残った土蔵で生活をする一茶は、その年の11月19日その土蔵の中で65歳の生涯を閉じました。家庭的に恵まれない一茶でしたが、北信濃の門人を訪ねて俳句指導や出版活動を行い、俗語・方言を交えながら屈折した感情に基づく独自の作風を示しました。

句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」など、2万句にもおよぶ俳句を残しています。一茶記念館では、この日一茶を偲んで、法要・俳句大会・そば会などが行われます。

一茶記念館
◇長野県上水内郡信濃町柏原2437-2
◇JR「長野駅」から信越線「黒姫駅」徒歩5分
◇上信越自動車道「信濃町IC」3分
◇記念館HPhttp://park3.wakwak.com/~issakinenkan/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
皆さん一度は一茶の句を耳にしたことがあるでしょう。200年近い歳月が流れていますがいまだに色あせない俳句は時代を超えて伝わっています。一部作品は英訳されて海外にも伝わっています。
震災に節電と、せちがない世相ですが、変わらぬものを味わってみることも心のゆとりです。
とはいえ、日に日に朝夕が冷え込むようになってきました。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆写敬白

■11月19日(旧10月20日)旧「えびす講」■

111016_4.jpgえびす講:えびすこう」は、商家が商売繁盛を祝って、福徳の神である「恵比寿様」を祀ることです。大国主命事代主命(ことしろぬしのみこと)、あるいは蛭子(ひるこ)を祭り、商売繁盛の神として広く信仰されています。「戎講」「夷講」「恵比寿講」

旧暦10月は「神無月」で、日本中の神様が出雲大社に出掛けいます。その留守を預かる留守神「恵比寿」を気の毒に思い、特別なお祭りによって慰めようということから始まったのだと伝わっています。地方によって、旧暦10月20日、11月20日、正月20日と異なります。

昔から関東の商家では10月10日を七福神の一つ「恵比寿神」を祀る日として祝い、恵比寿様に参詣して福運を祈る風習がありました。家運隆盛、商売繁盛を願い、親類知人を招いて大いに祝いました。

関東では10月20日の20をとって「二十日えびす」といい、関西では正月10日にこれを行なうことから「十日えびす」といいます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
えびす神は兵庫県西宮市にある「西宮神社」が有名で、10月えびすよりも正月9~11日のえびす講のが一般的です。えびす祭やえべっさんとも言われています。

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11月19日(旧10月20日)旧「誓文払い」■
121018_20.jpg誓文払い:せいもんばらい」とは10月20日の恵比寿祭を中心に行われる商家の蔵ざらえのことです。京都の商家や水商売の人たちは、四条寺町の誓文返しの神「冠者殿:かじゃでん」にお参りします。日頃の商売上やむを得ず人を騙したり、嘘をついたりした罪を祓い神罰が当たらないように祈願していました。

誓文とは、神に誓う誓詞・起請文のこと。嘘偽りの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いです。もともと恵比寿祭とは別のものでしたが、同じ日に行われる為いつしか混同したものです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
この日は商売上の嘘偽りや、人を騙したりした方便による、穢れ(けがれ)を祓う日(はらうひ)とされています。不動産業は千に3つのホントで「千三つ:せんみつ」と言うんだそうです。それが当たり前になってしまうと、単なる虚言癖のある人になってします。しっかりと誓文払いをしないといけませんね。

体調を崩しやすい時期です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月19日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。
日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。
ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。それとも経験的な暦の法則なのでしょう。
筆者敬白

■11月17日「奈良、談山神社例祭」です。■
121112_22.jpg「談山神社:たんざんじんじゃ」の祭神は「藤原鎌足」(=談山大明神・談山権現)。鎌足の長男・定慧が、鎌足を弔うために建立した妙楽寺にはじまると伝わります。神仏分離以前は、「多武峯寺:とうのみね」という名称の寺院でした。

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷入鹿親子の勢力は極まり、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で、蹴鞠会(けまりえ)が行われたとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(天智天皇)に見舞えることができました。

大化元年(645)5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って「大化改新」の談合を行ったといいます。後にこの山を「談い山:かたらいやま」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなっています。鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。

111114_10.jpg天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重い事を知った天智天皇は、自ら病床を見舞い、「大織冠:たいしょくかん」を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。藤原の姓はここに始まります。

鎌足公の死後、長男の定慧(僧)は天武天皇7年(678)留学中の唐から帰国。摂津安威の地から多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。

天武天皇9年(680)講堂(神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称し、後に「談山護国寺妙楽寺」と称しました。大宝元年(701)には、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立されました。

平安時代には藤原高光が出家後に入山。増賀上人を招聘するなどして、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げました。鎌倉時代には、曹洞宗総本山「永平寺」の二世・孤雲懐奘(大和尚)が参学しました。

鎌足公の命日にあたる11月17日、例大祭が行われます。本殿石の間では、南都楽所(なんとがくそ)による舞楽が奉納されます。

談山神社
◇奈良県桜井市多武峰319
◇JR「桜井駅」バス25分
◇西名阪道「天理IC」国道169南下45分
◇公式HP
http://www.tanzan.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
例祭中は「紅葉まつり」の最中です。
例祭
前後の日にはライトアップされる日もあり、見事な紅葉にライトアップされた幻想的な景色の中にとけ込めます。

参内される方はお風邪などお召しにならないようにお体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月17日「将棋の日」です。■
111114_19.jpg江戸時代、歴代将軍の中で家康と並ぶ将棋好きの徳川吉宗が、11月17日(旧暦)を「お城将棋の日」として毎年御前対局を実施していました。昭和50年(1975)日本将棋連盟は、11月17日(新暦)を「将棋の日」と定めました。

将棋の起源はインドです。将棋のルーツ「チャトランガ」が生まれ、後に西方では「チェス」、東方では中国の「象棋」(シャンチー)、日本の「将棋」などに変化してきました。

平安時代、囲碁・双六・将棋を「三盤」といって貴族の嗜みとされていました。江戸時代初期、徳川家康が将棋と囲碁を好み、この2つを保護したことから大いに隆盛しました。双六は保護を受けなかったために埋没し、江戸時代末期にはルールを知る人が少なくなってしまいました。

歴代の将軍は、しばしば「お城碁・将棋」を催しました。当時は「持ち時間」という考え方がないために、対局が時間内に終了しないこともしばしば。そこで事前に半分ほど対局者同士が別の場所で指しておき、お城で続きを指すことが行われるようになりました。ところが、それでも時間内に終了しないケースが続いたため、完全に勝負がつくまで事前に差しておき、それをそのまま再現するだけになってしまいました。

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対局者には、大名を歓待する時並みの料理が用意されました。家元は、血筋とは無関係に優秀な人材を発掘し、最も優秀な弟子に家督を譲りレベルを維持しました。養子縁組も武家の養子縁組同様、厳しい審査を経た手続きを要したとあります。 

極めて卓越した実力を持つ人は「名人」の称号を与えられます。現在では最高位に君臨する人の称号とされ、名人への挑戦は「順位戦」でトップに立った棋士が挑戦する方式になっています。5期名人を務めた棋士は「永世名人」の資格を取得します。

東京の将棋会館道場では、将棋の日を記念して特別イベントが開催されます。

東京将棋会館
◇東京都渋谷区千駄ヶ谷2-39-9
◇日本将棋連盟
http://www.shogi.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
趣の違うものをと思い
掲載しました。囲碁将棋は祖父から孫にと家庭内で受け継がれてきましたが、核家族化と塾通い、ファミコンの普及で若年層の愛好者がめっきり減ったとの事です。
徳川時代同様今こそ囲碁将棋を保護しなければならないかもしれません。・・・とコメントを書いていたら、隣席からファミコンやPCの囲碁将棋は盛んだそうです。
保護どころか仕事中は禁止する「御触書」を出さなければなりません。
筆者敬白

■11月17日(15~18日)「法華経寺、御会式」です。■
121112_23.jpg日蓮宗大本山法華経寺:ほけきょうじ」は、鎌倉時代の高僧・日蓮聖人が最初に開いた寺です。

日蓮聖人の四つの大きな法難の一つ「松葉ヶ谷の焼打の難」の際、大信者である若宮の領主・富木常忍公(日常聖人)と中山の領主・太田乗明公が、この地に聖人を呼び「百日百座の説法御弘通」をお願いしました。聖人は自ら「釈迦牟尼佛」を安置し、開堂入佛の式を挙げ、法華経寺のはじまりとなりました。

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文永元年(1264)日蓮聖人は東条の郷・小松原の地に於て法難に遭い、眉間に疵を負った危急に「鬼子母神」が現れ、その救護によって一命が救われました。

中山に避難の折、疵の養生のかたわら鬼子母神霊験に深く感じ、その尊像を自ら彫刻開眼。中山の鬼子母神は、天下泰平・五穀豊穣・万民快楽・子育守護等の祈願成就の御尊体として広く信仰を集めるに至っています。

日蓮死去の際、大地が震動し桜の花が咲いたと伝わります。御会式の際には、仏前に桜の造花を供えます。

法華経寺
◇千葉県市川市中山2ー10ー1
◇京成本線「京成中山駅」徒歩10分
◇法華経寺
http://www.hokekyoji.com/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4回、四大法難といいます。
◇伊豆伊東の俎岩に置き去りされた伊豆法難。
◇四十三歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された小松原法難。
◇五十歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名です。これを龍口法難といいます。
◇同じ年、佐渡遠流の難にあい、これを佐渡法難といいます。

調べているうち日蓮聖人の法難にたどり着きました。大病に投獄ぐらいではまだまだ甘えていますね。
筆者敬白

 

■11月15日「七五三」です。■
121112_20.jpg七五三:しちごさん」とは、男3歳と5歳、女3歳と7歳の子供の無事な発育を喜び、いっそうの成長を願って晴れ着を着せ、神社氏神様などに詣でる年中行事のことです。

古くは、男女3歳で「髪置きの祝」、男児5歳で「袴着の祝い」、女児7歳で「帯解きの祝い」を行ないました。

もともとこの行事は、日本の農民からごく自然に生まれた風習でしたが、一般的名な七五三の形は、近年なって全国的に行われるようになりました。中世以来、赤ん坊は男女とも頭を青く剃り、3歳の誕生日か11月15日になって初めて髪を伸ばす習慣がありました。これは「もう赤ん坊ではない」の意で、これを「髪置き」といい、白髪をかぶせて頂にオシロイをつけ、櫛で左右にすいて祝いました。

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江戸時代になると、男児5歳の11月15日に初めて袴をはきました。女児7歳は、それまで紐付きの着物を着ていましたが、本仕立ての着物を着て帯を締めます。これを「紐解き」「帯解き」などといい、7歳になって初めて一人前として社会に認められました。

本来は、数え年に行うものですが、現在では満年齢で行われる場合が多くなっています。

七五三という数字は「奇数を縁起の良い数」と考える中国思想の影響からきています。11月15日に祝うことになったのは、この日が二十八宿の「鬼宿日(きしゅく)」にあたり、何事の祝いにも「最良の日」だったからです。

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また、11月は秋の収穫を産土(うぶずな)の神に感謝する月であり、満月の15日が七五三に選ばれるのも、ごく自然の成り行きです。

七五三では「千歳飴:ちとせあめ」を食べて祝います。水飴を練って固くし、引き延ばして飴の中に気泡を入れて白くしながら棒状に加工します。長寿の願いを込めて細く長くなっています。直径は約15mm、長さ1m程度。

千歳飴は縁起が良いとされる「紅白」で着色され、鶴亀や松竹梅などの縁起の良いとされる図案の描かれた飴袋に入れられます。江戸時代、浅草の飴売り・七兵衛が「千年飴」また「寿命飴」として売り歩いたのが始まりと伝わります。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年11月になると土曜日、日曜日の度に七五三祝いの子供達が目に付きます。子供達の健やかな成長を記録しようと、貸衣装と写真館が込み合います。どこの国でも我が子の成長は楽しみなものです。
秋篠宮殿下のご長男悠仁(ひさひと)様が、
平成13年 11月3日「着袴(ちゃっこ)の儀」で、碁盤から飛び降りる姿が、全国放送されました。
七五三儀式の原型です。
11月になると、日没も思いのほか早く、日が沈むと急に冷え込みます。お帰りはお早めに・・・
筆者敬白

■11月12~13日「京都、嵐山紅葉祭」です。■
111113_1.jpg毎年11月の第2日曜日「嵐山紅葉祭」が行われます。これは、天下の名勝嵐山の紅葉を讃え、嵐山一帯を守護する「嵐山蔵王権現」に感謝する神事です。嵐山渡月橋上流一帯に浮かんだ船上舞台では、由緒ある史蹟や文化、この地にゆかりの深い芸能が披露されます。
 
嵐山」は、北は嵯峨野南は桂と、名所旧跡の多い観光の中心地です。四季折々の表情を見せる渡月橋周辺は、桜と紅葉の名所として多くの観光客を集めます。

  嵐山を象徴する「渡月橋:とげつきょう」は、嵐橋とも呼ばれ、古く平安時代はじめの承和3年(836)空海の弟子・道昌が大堰川を修築したおりに架橋されたものと伝わります。

141101_27.jpg亀山上皇が曇りない夜空に月がさながら橋を渡るようなさまを見て「くまなき月の渡るに似る」と述べたことから名付けらたそう。渡月橋を境に、上流の「大堰川」から「桂川」と名を変えて流れる川は、平安京の貴族たちが舟遊びや紅葉狩りを楽しみました。
 
開催場所
◇京都府京都市右京区嵐山渡月橋一帯
◇参考ブログ
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/maturi/maturi_arashiyama.html

■11月13日「京都、空也堂開山忌」です。■
121112_26.jpg空也堂:くうやどう」とは、空也堂開山忌と号する天台宗の寺で、「空也」を本尊とするため空也堂と呼ばれます。天慶2年(939)空也上人の開創と伝わり、当初は、三条櫛笥にあったので「櫛笥道場」とも、「市中道場」とも呼ばれました。
 
平安中期の念仏僧「空也」は、鐘を叩き念仏を唱えて全国を行脚し、仏教の庶民層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行いました。空也は「市聖(いちのひじり)阿弥陀聖」とも称され、後の「一遍」をはじめとする布教僧等に大きな影響を与えました。
 
121118_20.jpg市中に疫病が流行したとき、自ら「十一面観音像」(六波羅密寺の本尊・重要文化財)を拝み、それを車に乗せて洛中を引き、薬湯の茶を病人に与えて病人を救ったと伝わります。これが「王服茶笑」の起こり。
 
毎年11月第2日曜日、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれます。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による「歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏」と「六斎(ろくさい)念仏焼香式」が奉修されます。「京都の六斎念仏」は、重要無形民俗文化財に指定されています。
 
空也堂
◇京都府京都市中京区蛸薬師通堀川西入る
◇市バス「堀川蛸薬師」停留所・徒歩3分
◇参考
http://everkyoto.web.fc2.com/report241.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
空也といえば、辻説法と踊念仏です。歓喜踊躍念仏踊、六斎念仏踊など有名です。開山忌に参加してみると楽しい雰囲気の踊念仏、焼香式になります。影響を受けた一遍聖人が、各地を回って
説法に道徳的規範を教えながら、橋や道路を作るのに行脚した気持ちがわかります。人が喜ぶことに尽力できることは、尊いことなのでしょう。
季節の変わり目です。お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月9~15日「秋の全国火災予防運動」です。■ 141103_22.jpg
11月9~15日までの7日間秋の火災予防運動が実施されます。

火災が発生しやすくなる冬の季節を迎えるにあたり、火災予防の意識を一層高めるとともに、火災の発生・拡大を防止し、火災から尊い生命と貴重な財産を守ることを目的としています。 

米国における火災予防運動は、明治44年(1911)10月9日合衆国全土にわたってはじめて行われた「火災予防デー」が全国火災予防運動の起源です。
日本もこれにならって行われるようになりました。
 
開始日の11月9日は、119番の日に因んだものです。
この期間に、総務省消防庁から示される全国火災予防運動実施要綱に基づき、各自治体がそれぞれの特殊性を考慮して実施しています。 

 ◆◆平成27年(2015)度 標語 ◆◆
  『無防備な 心に火災が かくれんぼ

11月に入り空気が乾燥し、火災が発生しやすい季節を迎えるます。 ひとり一人が、火災予防に対する意識を持つことにより火災による悲惨な焼死事故や貴重な財産の損失を防ぎ、放火されにくい「火災に強い街づくり」のために、毎年、11月9~15日までの1週間を「秋の全国火災予防運動期間」と定めました。

平成26年度は"無防備な 心に火災が かくれんぼ "を標語に、火災への注意を広く呼びかけています。

141112_20.jpg◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

秋の全国火災予防運動期間が、11月の「火廻要慎、酉の市」の日に近いことを思うと、平成の世も江戸時代も火災に対する用心はこの時期だったのでしょう。
乾燥して風邪をひきやすい時節柄、
お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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■11月13日「三隣亡」(さんりんぼう)■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。


江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」などど言われます。
迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。

 

■11月12日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■

一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

120125_15.jpg一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、多い割には見過ごされやすい歴注です。手習い、開店、事始めには最適の日です。もう11月、季節は冬に向かっています。体調を崩しやすい時期です。皆様。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月11日「一の酉」です。■
111028_2.jpg酉の市」は、11月の酉の日に行われる鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼に立つ市を指します。正式には酉の市と書いて「とりのまち」と読み、酉の祭(とりのまち)、大酉祭とも。「おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

最初の酉の日を「一の酉」次の酉の日を「二の酉」その次を「三の酉」といいます。平成28年は三の酉がありません。

「一の酉」は、11月11日(金)
「二の酉」は、11月23日(水)
「三の酉」はありません。

長い歴史を持つ神祭「酉の市」は、春を迎える神事祭礼で、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りするお祭です。開催時間は午前0時~午後24時まで。午前0時の一番太鼓と共に市が始まり、丸一日間執り行われます。

鷲は獲物を「ワシヅカミ」にします。その爪を模したものが「熊手:くまで」とか。「福徳をかき集める」「福をとり(酉)こむ」「かきこむ」「はきこむ」という招福の縁起物として、農具の熊手、おかめ、入り船などが売られます。

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境内は「縁起熊手」を求める人で賑わいます。熊手商と「買った負けた」とのやり取りを楽しんだあと、商談が成立すると威勢よく「手締め」が打たれます。

気に入った熊手を見付け、その金額をまけさせ、その分を店側に「ご祝儀」として渡すのが粋な買い方。手締めはこのご祝儀に対して行われます。結局のところ定額を支払っていることになるわけですが...。

始めは小さなものを求め、年々大きくしてゆきます。

酉の市は東京都台東区「鷲神社」、新宿区「花園神社」など、関東地方各地の社寺で行われます。

◇鷲神社http://www.otorisama.or.jp/
◇花園神社http://www.hanazono-jinja.or.jp/mt/top/

「鷲神社:おおとりじんじゃ」に祀られる開運招福の守り本尊「鷲妙見大菩薩:わしみょうけんだいぼさつ」は、「鷲大明神:おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

▼法華宗鷲在山長國寺鷲妙見大菩薩
鎌倉時代の文永2年(1265)宗祖・日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす=千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山・鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ「にわかに明星(金星)が動き出して、不思議な力をもってして現れ出でた」と伝わります。

それは、11月酉の日のこと。七曜の冠を戴き、宝剣をかざして、鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」「おとりさま」と呼ばれてきました。

浅草酉の市は、酉の寺「長國寺」の「鷲妙見大菩薩」ご開帳の法要で始まります。本年は「1日の午後11時55分」半鐘が打ち鳴らされ本堂へ入堂。本堂前には参詣者が集まります。「2日の午前0時」一番太鼓を合図にご開帳の読経が始まり「鷲妙見大菩薩のご開帳」です。

住職が宝剣を振り、本堂内を浄めた後、本堂前に集まった参詣者に宝剣を振り、祭りに関わる一切の難を祓って安全を祈念します。

白装束の僧侶「祈祷師」による大迫力の「開運招福の祈祷」の後、熊手商の音頭で参詣者全員が威勢のよい開運手締めを打ちます。多いときには千人を越す人が集まります。

鷲妙見大菩薩ご開帳の間、特別祈願の祈祷を終日行っています。特に、酉の市が始まる深夜午前0時ご開帳法要直後の「一番祈祷」には多くの祈願者が集まります。祈祷のあと「開運のお札」を受け、客殿で赤飯と煮〆の軽い「お斎:おとき」を頂きます。

午後24時「ご閉帳の法要」が執り行われます。終日、多くの参詣者と縁を結んだ「鷲妙見大菩薩」が安置される厨子の扉を静かに閉じて、酉の市の終了です。

酉の市
◇東京都台東区千束3-19-6
鷲神社(おおとりじんじゃ)
◇法華宗鷲在山長國寺境内

◇東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」徒歩9分
◇東京メトロ日比谷線「入谷駅」徒歩7分
◇酉の市
http://www.torinoichi.jp/

■11月11「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
11月の「一粒万倍日」です。暦の上では、立冬を過ぎ、冬の便りが北から届きます。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月11日「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■
110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

141128_29.jpg宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。気のせいでしょうか。それとも経験的な暦の法則でしょうか?
筆者敬白

■11月11日「世界平和記念日」です。■ 141101_28.jpg
大正7年(1918)11月11日パリ郊外コンピエーニュの森に停車中の食堂車2419Dの車内で、マティアス・エルツベルガーを代表とするドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印しました。
開戦から4年余り、毒ガス兵器などの大量破壊兵器が初めて使用された第1次世界大戦がドイツ側の敗北により終結した日です。 

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▼第一次世界大戦の勃発
大正3年(1914) 6月28日 、ボスニアで、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子のフランツ・フェルディナントが暗殺されました。
このサラエボ事件発生により7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告をしたのに始まりです。
戦火は一挙に欧州全土へ拡大していきました。 

▼日英同盟の友誼 
日本は、イギリスが参戦に尻ごみしたにもかかわらず、8月23日ドイツに宣戦を布告、第一次大戦のほぼ開戦と同時に参戦したのです。 
 
日本の参戦理由は日英同盟の友誼(ゆうぎ:友達のよしみ)を理由にしたもので、宣戦の詔勅にも明示されていましたが、日英同盟では日本の参戦を義務づけるものではありませんでした。

◆独逸国ニ対スル宣戦ノ詔書(大正3年8月23日)
 
   http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/st03.htm

141101_30.jpg▼ヴェルサイユ条約調印

大正8年(1919)6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、「ヴェルサイユ条約」により、第一次世界大戦は正式に終了しました。
ヴェルサイユ条約は、その制定に際してアジア・アフリカの解放という大義名分が掲げられていたが、事実上はには、戦勝国の賠償規定です。
第一次世界大戦が過去に類を見ないほど悲惨な損害を生み出した戦争であったため、戦勝国の敗戦国への特にドイツに対する報復的な過酷な賠償条件を含んだ内容となっていました。
これが結果的に過酷な賠償条件が、ドイツ国内でナチスの台頭の原因となり、昭和14(1939)年から始まる第二次世界大戦の遠因ともなってしまったことは、とても不幸な歴史だったと言えます。

▼世界平和記念日

主戦場となったヨーロッパの各国では、第一次世界大戦を終えた「ヴェルサイユ条約」調印前の休戦協定調印日の11月11日「戦うことは もうやめよう」と決め、終戦の祝日として「世界平和記念日」として制定しました。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

日本では大正年間の歴史です。現在審議されている「集団的自衛権」についての議論ととてもよく似ています。第一次世界大戦があっという間にヨーロッパ中に広がった経緯とアジア圏での中国の台頭がよく似ているように思います。歴史から学ぶことはとても多いですね。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月9~16日「島根、出雲大社 神迎祭」です。■
121120_21.jpg八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られる出雲大社の御祭神「大国主大神:おおくにぬしのおおかみ=だいこくさま」は「天の下造らしし大神」と呼ばれます。

旧暦10月、一般では「神無月:かんなづき」ですが、出雲では「神在月:かみありづき」と称します。この時期、全国の村々里々に鎮まる神々が、年に1度、大国主大神のもとに集まり、諸々のご縁についての会議「神議り:かみはかり=話し合い」が行なわれます。

日本の国を国づくりされた大国主大神は、その国土を皇室の御祖先神である天照大御神に「
国譲り」されました。そして、目に見える世界である現世:うつしよ」は天照大御神が、目に見えない世界である幽世:かくりよ=神々の世界・霊魂の界」は大国主大神が治めることになりました。

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大国主大神は幽世にて「幽(かく)れたる神事」を司り、目に見えない様々な「ご縁」を結ばれる大神として、八百萬の神々と共にお話し合いをなさるのです。

大国主大神といえば「縁結びの神さま」ですが、縁結びとは単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するよう、社会が明るく楽しいものであるよう、すべてのものが幸福であるようにと、お互いの生成のためのつながりが結ばれることです。

むすび」の御神徳とは、子供の幸福を願って教導保護する親のように、大国主大神が私たち人間の幸福の縁を結んで下さること。 この神在月にお参りし、命(いのち)を結ばれて生かされる御蔭に感謝の祈りを捧げ、一層の幸縁をお祈りし、幸縁を授かろうと、全国から大勢の参拝者が訪れます。

◇神迎神事・神迎祭・かみむかえさい◇
11月9日午後7時
◇出雲大社西方1キロ「稲佐の浜」に於いて「神迎神事」が執り行われます。

神事の後、到着された神々は御使神「龍蛇神」を先導として出雲大社まで神幸されます。神楽殿にて奉迎の「神迎祭」が行なわれます。

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◇神在祭・かみありさい◇
11月10日午前9時/14日午前11時(縁結大祭1日目)・16日午前10時
(縁結大祭2日目)
◇御仮殿において「神在祭」が斎行されます。

大國主大神は、集った神々の大会議「神議」の主宰をつとめます。八百萬の神々が集う中、国家の安泰と皇室の弥栄、人々の更なる幸縁を祈願します。

また、神在の期間中、神々のお使い神として先導役をする海蛇の神さま龍蛇神:りゅうじゃじん」の奇しき「おかげ」に結んでいただく奉拝が斎行されます。(11月22日午前11時)

◇神等去出祭・からさでさい◇
11月16日午後4時
◇全国より集った神々に謝恩の祈りを捧げ、出雲大社からの御出立をお送りする「神等去出祭」が斎行されます。

神々は宿処の東西の十九社より仮拝殿に遷座され、祭りが行なわます。神職の「お立ち~!」の高声とともに出雲大社をお立ちになられます。

◇神在祭・夜神楽祈祷◇
11月10日~11月15日午後7時より
◇期間中、神楽殿に於いて「しあわせ」の御縁を結ぶ様々な御祈願のおまつりの「夜神楽祈祷」が行なわれます。

出雲大社
◇島根県出雲市大社町杵築東195
◇一畑電鉄「出雲大社前駅」徒歩7分
◇JR「出雲市駅」→一畑電鉄「出雲大社前駅」徒歩7分
◇「出雲空港」~連絡バス
◇山陰道「宍道IC」~40分
◇公式HP
http://www.izumooyashiro.or.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
説明するまでもない「神在月」の出雲大社の神迎祭です。
世知辛い昨今では、カレンダーの記載など注意をする方も少なく、月の謂れなど興味も示されなくなりました。
暦に隠された、日本誕生秘話の片鱗を知ることも、心のゆとりを持つ一つです。

筆者敬白

■11月9日「とおかんや」(十日夜)です。■
121120_25.jpgとおかんや」とは、旧暦10月10日の夜に行なわれる行事のことです。主に東日本で、稲刈りが終わった旧暦10月10日、田の神が山へ帰っていくのを送り、秋の収穫を祝う風習が残っています。

また、「十日夜:とおかんや」には月見する習慣がありました。旧暦8月15日「十五夜」、旧暦9月13日「十三夜」、とともに「三月見」ともいわれ、3夜とも晴れると良い事があると伝わります。

この月見の風習が行われていたのは、埼玉・群馬・栃木などの東日本地域。十日夜には里芋の茎を芯にして稲藁を束ねた「藁づと」と呼ぶ槌を子供たちが持ち「とーかんや、とーかんや。宵飯食って、ぶったたけ」と囃子文句を唄いながら、藁づとで地面を叩いて集落の各戸を廻ります。

地面を叩くのは、地面を盛り上げて作物を荒らすモグラを追い払うためです。一年の収穫を終え、気が衰えた大地、土地の神様を励ますの意もあるようです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
元々お月見の日だったのを、子供達も参加できる風習として伝わったようです。こんな時期に選挙などしていないで、この時期のんびり月見になどしたいものです。世間ではこれからがクリスマス商戦!これからが世知辛い11月下旬です。
時節柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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■11月9日「太陽暦採用記念日」です。■
太陽暦」とは、地球が太陽の周囲を一回りする時間を1年と定めた暦で、「陽暦」あるいは「新暦」ともいいます。太陽の黄道上の運行、季節の交代する周期をもとに作られた暦法で、一太陽年(一回帰年)の長さに基づき暦年を設定し、月の運行(満ち欠け)による周期は考慮しません。

明治5年(1872)11月9日、それまでの太陰暦(旧暦※月の運行を基準とする)を廃止して太陽暦(新暦)を採用するという詔書を布告し、西暦を基準にすることになりました。

そのため、明治5年12月2日でその年が終わりになり、本来なら12月3日になる翌日が突然、明治6年1月1日になったのです。

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準備期間がほとんどなかったので国内は混乱しましたが、福沢諭吉などの学者合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著したりしました。

因みに、改暦せずに翌年を迎えた場合、旧暦でいう閏月のある年でした。閏月があると1年は13ヶ月になります。当時、財政難だった明治政府は、公務員の年13回の給料支払いを回避したかったのが本音かもしれません。

太陽暦に改暦の結果、公務員2か月分の給料を節約できた計算になります。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
いつの時代も政府は、目先の都合ばかりに目を奪われがちです。平成の世の中のTPPや年金給付の年限延長、赤字国債に復興債ばど明治の改暦も、見方によっては場渡り的な感じをぬぐえません。
太陰暦から太陽暦に替わっても、春夏秋冬の訪れに変化はありません。いつの世になっても、四季を楽しみ日々の生活にメリハリを持たせましょう。
季節の変わり目です。お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月9日「119番の日」です。■
111104_11.jpg119番の日」とは、消防に対する正しい理解と認識を深め、防火防災意識の高揚、地域ぐるみの防災体制の確立を目的として、昭和62年(1987)自治体消防発足40周年を機に、消防庁によって、11月9日は119番の日として制定されました。

119番」は、日本国内において消防機関に提供される「緊急通報用電話番号」で、「火災報知専用電話」とも呼ばれます。

火事の時の緊急呼び出しを電話局が始めたのは大正6年(1917)のこと。その当時は、交換業務をやっている人に「火事!」と言えば消防署につないでくれる仕組みでした。

消防署につなぐ番号が決まったのは昭和元年(1926)。番号は「112番」でしたが、掛け間違う人が多く、翌年に「119番」に変更になりました。この時は消防業務を警察機関が行なっていました。

119番は当初火事だけの対応でしたが、昭和9年(1934)に横浜市と名古屋市消防署が救急業務を始め、次第に全国に普及し、昭和38年(1963)救急業務が法令で消防署の業務として定められました。

消火活動や救急救助活動は1分1秒を争う時間との勝負です。消防では「119番通報」によって、最も近い消防署から消防車や救急車など、最も適切な車両を直ちに出動させています。正しい119番通報が、迅速かつ的確な消防活動に繋がります。いざというときに備え、電話機のそばに自宅の場所の説明の仕方や電話番号などの必要事項を書いたメモを貼っておくなど、普段から落ち着いて正確な通報ができるよう心がけておきたいものです。
 
14110125.jpg「119番の正しいかけ方」
■消防署:119番、消防署です。 火事ですか?救急ですか?
■通報者:火事です。
■消防署:あなたのお名前と住所を言ってください。
■通報者:名前は、消防太郎です。 住所は○○町1丁目2番3号です。
■消防署:近くに、何か目標がありますか?
■通報者:公立図書館の隣です。
■消防署:いまお使いの電話番号を言ってください。
■通報者:123の4567です。
■消防署:わかりました。何が燃えていますか?
■通報者:図書館の隣の私の家が燃えています。
■消防署:わかりました。 直ちにそちらへ向かいます。 あなたは大丈夫ですか? 早く外に出てください。
■通報者:はい、わかりました。
           (消防庁資料より)

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
11月9日が「119番の日」、前日11月8日が「伏見稲荷火焚祭、ふいご祭」です。火に感謝する「ふいご祭」と、119番火災予防!、五行説では金気と火気、火剋金。火を使い金属を剋する(克する:コントロールする)とあります。

ともあれ皆さん、いつまでもあると思うな「親」と「金」、ないと思うな「運」と「災難」です。
災難にはいろいろありますが、昔「火廻要慎」、今「火の用心」、今も昔もお出掛け前の火の始末!
筆者敬白

■11月8日「京都、伏見稲荷 火焚祭」「ふいご祭」です。■
121103_20.jpg伏見稲荷大社:ふしみいなりたいしゃ」は、主祭神に「宇迦之御魂大神:うかのみたまのおおかみ」を祀る神社で、全国4万社ある稲荷神社の総本宮です。「佐田彦大神」「大宮能売大神」「田中大神」「四大神」を配祀。式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で旧社格は官幣大社。

創建は和銅4年(711)渡来人の秦氏が農耕神として祀ったのがはじまりと伝わります。現在では商売繁昌の神様として崇められ、初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集め、年中多くの参詣者が訪れます。

秀吉の寄進と伝わる楼門、稲荷造りと呼ばれる華麗な彫刻が見られる本殿は大変に美しく、奥社までの「千本鳥居」と呼ばれる鳥居のトンネルが有名です。

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秋の収穫後、五穀の豊饒を感謝する祭り「火焚祭」は、万物を育てたもう稲荷大神のご神恩に感謝する祭典で、古来より伝統ある行事として広く知られます。

伏見稲荷火焚祭」は、俗に「鞴(ふいご)祭り」と呼ばれ、各地で行われる火焚の中でも特に有名です。稲荷神社は鍛冶の守護神とされ、鍛冶屋・鋳物屋など火を使う職業の人々の信仰をも集めます。

もともと御火焚(おひたき)は江戸時代から京都を中心に行われてきた神事で「ほたけ」「おほたけ」ともいいます。平素の罪や穢れを祓い、心身を清めるため、参拝者は火焚串を奉納します。

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本殿で神事が執り行われたのち、神苑斎場にて全国崇敬者から奉納された数十万本の「火焚串」を焚きあげます。火の持つ霊力によって願いが叶うといわれます。宮司以下神職をはじめ参列者一同、大祓詞を奉唱して、罪障消滅万福招来を祈ります。

伏見稲荷大社
◇京都市伏見区深草藪之内町68
◇JR奈良線「稲荷駅」すぐ
公式HP
http://inari.jp/

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
毎年11月8日になると、火造り場の火を落として、しめ縄を張り、ふいごの横にお神酒や鯛や野菜やみかん、そして炎の形の焼印を押した紅白まんじゅうをお供えしました。お赤飯を炊いて、紅白まんじゅうとみかんを添えて工場周辺のご近所に配りす。ふいご祭りを「おひたきさん」と呼んでいました。
御火焚(おひたき)祭は、鋳物師や鍛冶屋にとっては、ふいご祭と同化していたのです。とくに京都では、稲荷信仰と重なりあって、火造り場には火の神さまである愛宕神社のお札と、お稲荷さんの神棚が並んで祀られました。
炎の力を利用した鍛冶職人が炎に感謝して長い間、お祭りしていたようです。最近では、仕事に感謝の祈りができる方が減ってきています。社会に役立つ仕事に誇りを持ちましょう。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆写敬白


■11月8日「世界都市計画の日」です。■ 141101_23.jpg
アルゼンチンの都市計画家・都市計画学者・カルロス・パオレーラが、世界都市計画機構設立の理想を掲げて昭和24年(1949)に提唱しました。
日本では都市計画協会が、昭和40年(1965)から11月8日に公演や集会を開いています。 

都市計画(としけいかく: urban planning, city planning)
とは、「都市の健全な発展と秩序ある整備を図る」、
「劣悪な居住環境からくる国民の健康問題を守る」、
「都市景観を良くし、守る」
などの必要から、土地利用のあり方、都市施設(道路・公園等)の整備、市街地開発について計画を策定し、その実現を図ることです。
 日本では古来から
、条坊制や都城制の都市に関する歴史があり、行政計画都市「国府」を始め、『平城京』、『平安京』、『長岡京』、『藤原京』、『恭仁京』などの計画都市が古くから存在しました。 

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▼平城京の都市計画 
平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、更に左京の傾斜地に外京(げきょう)が設けられています。
東西軸には一条から九条大路南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画です。 
各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、更にその中を、東西・南北に3つの道で区切って町としました。
平京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートルに及ぶ大きさを誇っています。 

▼ルネサンスの理想都市 
オスマンによって計画されたパリのシャンゼリゼ通りに代表されるように、前近代におけるヨーロッパの都市は城壁都市でした。ルネサンス期のイタリアでは、城壁を円形・正方形・星形など明快な幾何学的形態とし、放射状あるいはグリッド状に街路を築き、広場や記念的な建造物を配する都市が理想と考えられるようになりました。
これにはウィトルウィウスの建築書に見られる正八角形の都市案が影響を与えています。
軍事上の機能とともに幾何学的な美しさを目指して実際に建設された例です。
また、古代ローマの広場(フォルム)に倣い、広場を回廊で囲む手法がしばしば用いられ、ヴェネツィアのサンマルコ広場などが代表例です。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

現代の都市計画は、交通手段や、災害対策、天災の際の避難所など公共施設が必要です。
ヨーロッパのような守るための「城壁」といった考え方が、日本では水路を利用した「掘」として外堀、内堀といった発展したのはヨーロッパとは正反対でした。
ゴミの問題や通学路の確保など日本の都市計画は問題が多いようです。
季節の変わり目です。お体ご自愛専一の程

◆二十四節気◆平成28年11月7日「立冬(りっとう)」です。◆
11月7日8時48分「立冬」です。

141101_22.jpg右から、富士山・八甲田山・大雪山
旧暦10月、亥(い)の月の正節で、天文学的には太陽が黄経225度の点を通過するときをいいます。

四季の中で「」に入る始まりの二十四節気で、太陽の光もいちだんと柔らかく感じ、日足も目立って短くなります。大雪山や八甲田山からは初冠雪の便りが届き、冬の気配が伺えるようになります。

夕ぐれの訪れが早く感じ、枯らしが吹きます。また、山では綿雲(積乱雲)が発生し、時雨がしとしと降ります。雲の流れが速く、見事な虹が出てはまた雨が降る時雨虹が望めます。これに出会うと空が語りかけているようです。

季節の花、さざんか(山茶花)が可憐に咲き始めます。北国では大地が凍り始めます。

暦便覧では「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説いていて、「立冬」は、「冬立つ」「冬来る」などとともに冬の代表的な季語になっています。

◆◆「七十二侯」◆◆
初候「山茶始開:さんちゃ はじめて ひらく」
山茶花(さざんか)の花が咲き始める時節。山茶(さんちゃ)=「つばき」と読みます。山茶は「つばき」の漢名。※諸説の中で、日本では時雨忌があることから「さざんか」をさすという説が有力です。
次候「地始凍:ち はじめて こおる」
大地が凍り始める。大地が凍り始める時節。
◆末候「金盞香:きんせん こうばし」
水仙の花も咲き出す時節。「金盞:きんせん」=水仙の異名。正しくは「きんさん」と読みます。金盞銀台(きんさんきんだい)とは、水仙の花の咲く様をいったもの。金盞は「黄金の杯」のこと。

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◆◆「11月の花」◆◆
「山茶花」さざんか つばき科つばき(カメリア)属
開花時期☆10月10日~翌2月10日頃。晩秋から初冬にかけて咲き出します。原産地は日本。江戸時代に長崎からヨーロッパへ持ち出され、西欧で広まりました。学名・英名ともに「サザンカ」です。

椿(つばき)の漢名(中国名)で、山茶花(さんさか)が茶山花(ささんか)、そして「さざんか」と変化し、間違ったまま定着してしまいました。

花は良い香りで、花びらは一枚ずつ散ります。寒椿と開花時期がほとんど一緒で、葉も花も同じようでなかなか見分けが付きませんが、山茶花は背丈が高く、花びらの数は5~10枚程度で少なめです。花びらはシワになります。寒椿は背丈が高くならず、花びらの数は14枚以上でシワになりません。寒椿は公害に強いので道路の植え込みなどに植えられます。花言葉は「ひたむき」「困難に打ち勝つ」など。
「山茶花を 雀のこぼす 日和かな」(正岡子規)

「金盞花」きんせんか 
菊科 カレンデュラ属
Calendula(カレンデュラ)の語源は、ラテン語のCalendae(毎月の第1日)。どの月の初めにも咲いているほど花期が長いことからそう呼ばれます。「カレンダー」の語源でもあります。

原産は地中海沿岸。江戸時代に中国から渡来。ハーブの一種で、古くから食用や薬用に使われてきました。薬用には虫刺されの薬として利用されます。また、サフランの代用で着色料や髪染めにも使用されました。

花は黄金色で「盞:さかずき」のような形をしていることから金盞花といいます。また、隋国の統一前、梁の国の魚弘という人が、賭けすごろくに勝った時に金銭より「珍しい花」をもらいたいといい、この花をもらったので、この花を「金銭花」と呼んだそうです。その後「金銭花」が「金盞花」に変化しました。

花言葉は「慈愛」「悲しみ」「静かな思い」など。

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◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
暦の上では立冬から本格的な冬に入ります。『四神相応図』では冬の色は黒で守護は玄武、方位は北です。やがて来る春に備えて力を蓄える時期です。
例年この時期から、インフルエンザ、風邪が流行します。早めに予防接種、日ごろから手洗い・うがいに心がけましょう。
油断からお風邪などお召しにならないよう、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月7日~11月22日「天一天上(てんいちてんじょう)」です。■
天一天上:てんいちてんじょう」とは、陰陽道の歴注で癸巳~戊申の16日間をいいます。 今回は11月7日~11月22
にあたります。

 
110404_20.jpg天一神:てんいちじん」という方角神が天上界に出かけてしまい、期間中は佳日とされています。天一天上の間は天一神の祟りがなく方角の禁忌(悪い方位)はなくなるので、どこに出掛けるにも良しとされました。このことが、縁起を担ぐ相場師に利用されたと伝わります。

かわりに期間中は日遊神が地上に降りて家の中に留まります。屋内の汚れた人家には祟りをするといわれていますから、自宅は清潔にしておかなければなりません。 

130306_25.jpg天一神は方角神のひとつで、中神(なかがみ)ともいい、地星の霊荒神です。天と地の間を規則正しく往復し、四方八方を巡り、人の吉凶禍福を司ります。
 
天一神のいる方角を犯すと祟りがあるとされ、神の滞在する方角を「塞がり」といってこの方角を犯すことを忌み、このことを「物忌み」といいます。その方角に真っ直ぐ向かうことは禁物で、どうしてもその方角に行かなければならない時は「方違え」をします。
 
「天一神の遊行日」
■乙卯から5日間...卯(東)
■庚申から6日間...巽(南東)
■丙寅から5日間...午(南)
■辛未から6日間...坤(南西)
■丁丑から5日間...酉(西)
■壬午から6日間...乾(北西)
■戊子から5日間...子(北)
■己酉から6日間...艮(北東)
 
この期間この方角に、天一神が天上から降りてきて下界八方を巡って過ごしますから、この方角を忌み、この方角に向かっての出産、争い事、殺生、弓を射ることなどを忌み嫌うのです。
 
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
天一天上は大自然を怖れ敬って、自然と共に生きている時代に、経験的に感じ取った歴注です。
今となっては迷信や神話の域だと見過ごされしまう暦です。
その昔、
情報処理が発達していなかった頃、日遊神の祟りからのがれるために部屋を掃除するところから転じて、株や相場師にとって、天一天上は相場を見直す頃とされていました。
師走前の天一天上で、もうすぐ12月の喧噪を感じる頃です。北の方から紅葉と初冠雪の便りが舞いまいこみます。
朝夕冷え込むようになりました。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白


■11月5日「京都、松尾大社 上卯大祭」です。■
121028_26.jpg松尾大社:まつおたいしゃ」は、平安遷都により皇城鎮護の神として崇敬され「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称されました。延喜式では名神大社に列し、のちに二十二社の一社となりました。旧称は松尾神社、旧社格は官幣大社。賀茂大社と並び賀茂の厳神、松尾の猛神です。

社の背後「松尾山(223m)」には松尾社の古社地があり、山頂に近い大杉谷には磐座とされる巨石があります。5世紀の頃の渡来人「秦」が山城国一帯に居住し、松尾山の神「大山咋神:おおやまぐいのかみ」を氏神としました。大山咋神は「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と伝わります。

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秦氏は酒造の技術も伝えたことから、松尾神は酒造の神としても篤く信仰されるようになりました。天平5年(733)に、社殿背後より泉が湧き出た際「この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する」との松尾の神の御宣託があったことに由来します。境内「亀の井」の水を酒の造り水に混ぜて使うこともあるそうです。酒造家だけでなく、醤油・味噌・酢等の製造販売業者から尊崇されています。

主祭神に大山昨神・中津嶋姫命(市杵島姫命)を祀ります。本殿(重文)は「松尾造り」と呼ばれる珍しい建築様式で、天文11年(1542)に改築されたものです。宝物として等身大の木造男神坐像ニ体、木造女神坐像一体(ともに重文)は、我が国最古の神像のひとつとされています。

上卯祭:じょううさい」は、毎年11月「上の卯の日」に執り行われる醸造の安全祈願のお祭りです。卯(う)の字は甘酒、酉(とり)の字は酒壺を意味し、古来より酒造りは卯の日に始め、酉の日に完了する慣わしがあります。

上卯祭当日は、全国の和洋酒、味噌、醤油、酢等の醸造業はもとより、卸小売の人々も参集して盛大に醸造安全を祈願し、大木札(だいもくさつ)を受け、それを持ち帰って各々の蔵に奉斎する慣わしがあります。また、神前には数々の銘酒・醤油等の御供えがされます。4月「中の酉の日」には、醸造完了を感謝する「中酉祭:ちゅうゆうさい」が執り行われます。

松尾大社
◇京都府京都市西京区嵐山宮町3
◇JR「京都駅」バス40分
◇阪急嵐山線「松尾駅」徒歩5分
◇参考ブログ
http://www.y-morimoto.com/jinja22/matsuo.html  

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
もともとよい水と、お酒の神様として有名な松尾大社です。上卯祭には、全国から杜氏の一族が集まるそうです。科学万能の現代でも、魂を込めることで、一層のおいしさを引き出してもらいたいものです。
11月は立冬です。京都にある神社の例祭、大祭が目立ちます。京都の紅葉がきれいな時期です。京都詣でで秋を満喫なさってください。すぐそこに冬の足音が聞こえます。
読者の皆様、時節柄お身体ご自愛専一の程
筆者敬白

土用といえば「土用の丑の日」、鰻の蒲焼を思い浮かべます。

110719_18.jpg蒲焼が普及したのは江戸時代のことです。江戸時代後期に、あの平賀源内が鰻屋に頼まれて「土用の丑の日に鰻を食べると暑さ負けせず夏バテしない」と江戸中に宣伝したところ大変流行しました。

また、万葉集にも鰻が登場しますが、この頃は蒲焼きではなく単にに焼いて食べていたようです。

今回の土用の丑の日は10月22日(土)で二の丑は11月3日(木)です。

「鰻:うなぎ」の語源は「胸黄:むなぎ」から。鰻の調理方法は、東京では「切腹」をイメージするというので腹を切るのを嫌い、背剥きにします。大阪では腹剥きです。また、焼き方も異なっています。

大阪では鰻のことを「う」といいます。そして鰻丼のことを「まむし」といいます。これは、ご飯とご飯の間に鰻を挟んでマブシて食すからで、蛇のマムシに似ているからという理由ではありません。いつしか「マブシ」が「マムシ」に変化したものです。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
秋から冬にかけての「土用の丑の日」で、明日は「二の丑」です。この季節は滋養に鰻を食して、冬に向けて体力を蓄えましょう。油断から風邪をこじらせて、寝込むことの無いようお体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月3日、「文化の日」、旧明治節です。■ 131026_24.jpg
文化の日は戦前には、明治節(めいじせつ)と呼ばれていました。昭和前期の日本における祝祭日(休日)で、明治天皇の誕生日。四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つです。文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とを趣旨としています。

文化の日は昭和21年に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が公布・施行されたことにちなみ、祝日法で「文化の日」と定められました。日本国憲法は、公布から半年後の昭和22年5月3日に施行されので、
5月3日が憲法記念日として国民の祝日になったのです。 

 明治時代には文化の日は天長節(明治天皇の誕生日)で、明治6年の改暦で新暦に換算した11月3日に定められました。大正時代末期に
明治天皇の誕生日である先帝祭「明治節」の請願運動が起こり、2万人の署名が帝国議会に上げられ、昭和2年「休日ニ関スル件」が改正されて、11月3日が明治節に設定されました。 

敗戦後昭和23年の祝日法によると「文化の日」は、このような背景や経緯と関係なく定められたということになっていますが、当時の国会答弁や、憲法制定スケジュールの変遷から、明治節の日に憲法公布を合わせて記念日にしたとも推察できます。 

131026_25.jpg一方、昭和23年祝日法制定当時、参議院文化委員長の
山本勇造が、政界引退後に著した回顧録「文化の日ができるまで」には、憲法発布は11月1日の予定で、憲法施行日が「メーデー」と重なるという理由で、直前に11月3日に変更されたようです。帝国議会が11月3日を憲法記念日とすることを主張しましたが、当時のGHQが強力に反対し、新憲法施行日の5月3日を憲法記念日とすることに同意したところ、GHQから、「憲法記念日でない記念日とするならいい」と持ち出してきたとあります。

戦後になり議会関係者が明治節の11月3日を残すために腐心したことが窺えます。
 この日、皇居で文化勲章の親授式が行なわれます。文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催されます。また、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名です。

■11月3日「明治神宮 例祭」です。■
121028_28.jpg明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする「明治神宮」は、明治45年7月30日明治天皇崩御、大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御の後、その遺徳を偲ぶ国民から、御神霊をお祀りして御聖徳を永遠に敬い、お慕いしたいとの願いから創建されました。

明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として、大正9年11月1日(1920)御鎮座となりました。

内・外苑一帯にわたって鬱蒼と茂る緑の森は、神宮御鎮座にあたり日本各地や朝鮮半島、台湾などから献木されたおよそ10万本、365種の人工林で面積は70万㎡。全国青年団による勤労奉仕により植樹が行われました。

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昭和20年(1945)空襲の際に、社殿のほとんどが消失したましたが、昭和33年(1958)に再建されました。大東亜戦争後は、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていましたが、平成16年(2004)神社本庁との包括関係を解消して単立神社となっています。

秋の大祭の御社殿前では優雅な雅楽に合わせて舞う「舞楽」、西芝地では馬上から矢を射る「流鏑馬」、正参道沿いでは大輪の菊が咲き競う「菊花展」など、どなたでもご覧になれます。

本殿を中心に厄除・七五三などの祈願を行う神楽殿、明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する宝物殿、御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する至誠館など。

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近頃パワースポットと騒がれている、加藤清正が掘ったと伝わる「清正の井」や、明治天皇のおぼしめしにより昭憲皇太后のために植えられた「美しい花菖蒲」など、多くの見どころがあります。秋の爽やかな一日、ご家族やお知り合い皆さまでお楽しみ下さい。

初詣では、正月三が日に300万人にのぼる日本一の参拝者数を集めています。

11月1日鎮座記念祭から秋の大祭などが行われ、3日には明治神宮で最も重要な祭儀、例祭(勅使参向)が執り行われます。

明治神宮
◇東京都渋谷区代々木神園町1-1
◇JR山手線「原宿駅」地下鉄千代田線「明治神宮駅」徒歩1分
◇東京メトロ千代田線「明治神宮前駅」、他
◇公式HP
http://www.meijijingu.or.jp/

◆◆清正の井◆◆
清正の井周辺が近年、パワースポットとして紹介されてから行列ができています。明治神宮では整理券を配って混乱を防いでいます。
TV番組で紹介される以前は、人影もまばらで、湧水がコンコンと湧き出る風情のある井戸でした。加藤清正公が掘ったとされる「清正の井」は明治神宮公式HPで紹介されています。ご訪問の際にはパワースポットだけに行かず、明治神宮にお参りをしてからお水をいただきたいものです。
清正の井伝説
http://www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html

■11月3日「東京足立、皿沼不動 万灯祭」です。■
111028_6.jpg関東三十六不動霊場第二十五番札所・皿沼山永昌院「皿沼不動尊:さらぬまふどうそん」・天台宗寺門系「皿沼不動」の「不動明王」は、成田山から勧請したもの。「成田山」の揮額が残されています。
 
皿沼(さらぬま)は、東京都足立区西部の地名。江戸時代以前、この辺りは新義真言宗・實蔵寺の墓域にあたり、これを管理する御堂として「阿弥陀如来」を安置し創建されました。
 
江戸に徳川幕府が開かれると、皿沼周辺は幕府直轄の舎人領とされましたが、火災で焼け野原と化し、御堂も焼失してしまいましたが不思議と本尊だけは焼け残ったそうです。
 
寛永二年(1625)上野の東叡山寛永寺が創建されると、幕府は同寺の寺領として皿沼一帯を寄進。これが機縁となって近隣には寺院が次々に創建されました。そして御堂も再建され、御本尊の阿弥陀仏を拝する念仏講が結成され、その活動を中心に寺勢は発展しました。
 
131026_23.jpg江戸を中心に成田不動への信仰が盛んになると、講社を組んで成田山へ詣でるようになり、ついには御前立不動明王の御本尊を勧請しました。
 
万灯:まんどう」とは、多くの灯火のこと。また、多くの灯明をともして、仏・菩薩を供養し、衆人の罪障を懺悔し、滅罪を祈願する法会のことをいいます。万灯祭と称して万灯供養が行なわれます。
 
皿沼不動
◇東京都足立区皿沼1―4―2
◇JR「日暮里駅」バス30分
◇東武伊勢崎線「西新井駅」バス
◇首都高川口線「加賀出口」1㎞
◇永昌院
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~eishoin/

■11月3(旧10月4日)「不成就日(ふじょうじゅび)」です。■

110411_13.jpg文字通り「万事に成就しない日」のことで、事を起こすには良くない日とされます。特に、結婚、開店、命名、移転、契約などによくないとされます。また、この日から諸芸始め、思い立ち、願い事もよくないとされています。

宣明暦時代には、会津暦で採用されていただけで、貞享暦(じょうきょうれき=貞享元年(1684)渋川春海により完成された暦)にも記載されていません。

文政13年(1830)に発行された「選日講訳」に「今世の人官版の御暦を用ひず六曜不成就日など用ゆるは暦乃有無を知らざるが如し」と書いてあることから、幕府の許可なしで出版された略暦などに記載されて、民間でひそかに用いられていたようです。不成就日は現在の運勢暦や開運暦のほとんどに記載されています。

不成就日の日取りは、月の十二支と、日の十二支の、五行の組み合わせを基準に八日間隔で配当されます。節切りではなく、月切り(旧暦の月)です。

※旧暦起算のため、1日ずれることがあります。
正月・7月...3・11・19・27日
2月・8月...2・10・18・26日
3月・9月...朔・9・17・25日
4月・10月...4・12・20・28日
5月・11月...5・13・21・29日
6月・12月...6・14・22・晦日

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
不成就日はあまり重要視されてい
ません。暦の上では何事も成就しない日とされていますが、統計的なデータや科学的な根拠に基づく歴注ではありません。
日~土の7曜定着前には、不成就日を日曜日同様、休日にしたようです。
ひと月に3~4回です。
気のせいかもしれませんが、暦の上の不成就日を休日扱いにすると、とても体調がいい感じがします。それとも経験的な暦の法則なのでしょう。
筆者敬白

■11月2~4日「唐津くんち」です。■
111028_3.jpg唐津神祭」は唐津神社の秋季例大祭で、一般に「唐津くんち」と呼ばれ、16世紀の終わりに始まったと伝わります。「くんち」は「供日」と書くことから、収穫感謝の意。また、九日・宮日と書かれたことから神社の祭礼の日をさす意味もあります。

一之宮「住吉三神:底筒男命・中筒男命・表筒男命」二之宮「神田宗次公」、相殿に「水波能女神(みずはのめのかみ)」を祀る「唐津神社」は、神功皇后が三韓へ渡海に際して道中安全を住吉三神に祈願奉り、帰朝の後に御神徳に感謝して松浦の海浜に宝鏡を縣げて三神の霊を祀ったのが始まりです。創建は天平勝宝7年(755)孝謙天皇の御代と伝わります。

11月2日「宵山」は、いわゆる宵宮で、宵の刻に曳山が万燈を灯して各町より神社に揃います。3日「お旅所神幸:神幸祭」神輿二基に供奉して、御神宝の曳山が従い氏子区内を巡幸します。

曳山(ひきやま)は漆の一閑張りという技法で作られ、笛や太鼓、鉦の囃子にあわせて「エンヤエンヤ・ヨイサヨイサ」の掛け声とともに町内を練り歩きます。勇壮にして華麗な唐津つくんちの一番の見所です。4日「町廻り:翌日祭」では神輿は出ません。曳子と曳山だけの祭日です。

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古く、唐(韓・唐)などの大陸との窓口(津・港)だった「唐津」は、多くの生命を育む豊かな海「玄界灘」を臨み、深く清らかな自然の山々に守られた地。優雅かつ雄厳な自然の神韻と、万葉の風・桃山文化の薫りを感じる歴史浪漫に満ちたところです。

14台の曳山は、獅子や龍、浦島太郎と亀、兜など昔話に登場する馴染み深いもの。江戸末期から明治にかけて町人達によって作られました。高さ約7m、重量2t~5t、赤・青・金など極彩色に美しく化粧された曳山を、揃いの法被姿に身を固めた若者たちが威勢よく市内を曳き回す様はまさに現代の絵巻物です。佐賀県重要有形民族文化財指定。国の重要無形民族文化財指定。期間中は約50万人の人出で賑わいます。

唐津神社
◇佐賀県唐津市南城内3-13
◇JR唐津線・筑肥線「唐津駅」徒歩10分
◇唐津くんち観光協会
http://www.karatsu-kankou.jp/event1.html

 

■11月1日(旧10月2日)「炉開き」です。■

111028_7.jpg茶室では、春から半年間使った風炉を仕舞い、炉を開きます。「」とは、茶室の畳を切って床下に備え付けた茶用の小さな「いろり」のことです。使用されるのは11月から4月までとされています。

炉開きに合わせて、今年5月に摘まれた「新茶」を使い始めます。茶壷の口を切って使い始めるので「口切り」ともいいます。

炉を開いて新しい季節を迎え、新茶の入った壷を開けるこの時期を、お茶の世界では「茶人の正月」として祝います。昔は茶壷を床の間に飾り、お正月と同じように客を茶室に招き、新茶を味わい祝ったそうです。

一般には炉を開いて火を入れることをいい、囲炉裏などを使い始めることを炉開きといいます。

「炉開きや仏間に隣る四畳半」漱石 

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■11月1日(旧10月2日)「旧亥の子餅」です。■

141101_33.jpg亥の子:いのこ」は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事のことです。「亥の子の祝い」、「玄猪:げんちょ」、「亥の子祭り」ともいいます。

猪(いのしし)の多産にあやかり、亥の月の初めの、亥の日の、亥の刻(午後9~11時)に、新穀でついた「亥の子餅」を食べ、無病と子孫繁栄を祈ります。また「亥の子節供は夕節供」の通り、子供達の行事もすべて夜に行なわれます。

中国から伝わったもので、古代中国では旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から。日本では平安時代頃に始まり、宮中では亥の形をした餅を献上する儀式がありました。次第に貴族や武士にも広がり、民間でも行なわれるようになりました。

室町時代には「白・赤・黄・胡麻・栗」の五色の餅でしたが、近世になって小豆の入った薄赤色の餅となり、やがて牡丹餅となりました。季節的には米の収穫が終わる時期にあたり、稲刈りが無事に終了したことを田の神さまに感謝する収穫祭(刈り上げ祝い)の行事として、特に西日本で盛んに行なわれました。

中国地方などでは、2月の始めの亥の日に「春亥の子」として祝う風習もあります。亥の子の神は2月亥の日に田に降りて稲を守り、秋の刈入れ後の10月亥の日に帰ると考えられていました。

この日、子供達が新ワラを縄などで巻いて棒状にした物を手に持って、村々の家を回り地面を叩きます。これを「亥の子突き」といいます。この時「亥の子餅をつかん者は鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を生め」などと唱え、道すがら餅やお菓子、お小遣いなどを貰って歩きます。餅などを貰うと「繁盛せえ、繁盛せえ」と唱え、何も貰えないと「貧乏せえ、貧乏せえ」と悪たれを言います。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
亥の子餅は子供の健やかな成長を願っての暦注です。発祥が古代中国という以外、詳しい云われは不明ですが、秋の収穫を感謝する祭礼のひとつだったようです。
季節も秋本番から冬に入ります。今年は紅葉が短いそうで駆け足の秋から冬の様相です。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白


■11月1日「灯台記念日」です。■
121028_21.jpg「灯台記念日」は、日本最初の西洋式灯台「観音崎灯台」の起工日、新暦11月1日に因み、昭和24年(1949)海上保安庁により制定されました。

「観音崎灯台」は、神奈川県横須賀市三浦半島東端の観音崎に立つ灯台で、白色八角形の中型灯台。東京湾、浦賀水道を照らし、海上交通の安全に寄与しています。

この日、各地の灯台は無料で参観でき、普段公開されていない灯台の内部も特別に公開されます。各地の海上保安部による記念行事が行われます。平成24年は尖閣諸島警備問題でイベントが縮小や中止させることがあります。事前にご確認下さい。


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■11月1日「教育文化週間」です。■
131026_20.jpg「教育文化週間」は、我が国の教育・文化に関して広く国民の理解と関心を深めてもらおうという趣旨で、昭和34年に閣議了解され、文化の日を中心に教育・文化に関する各種行事が全国的に開催されます。

期間中、文化功労者顕彰式や文化庁芸術祭などが開催されるほか、美術館や博物館をはじめとする各地の文化施設では、特別展や施設の無料公開等が催されます。また様々な体験活動や公開講座等の行事が繰り広げられます。


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■11月1日「新米穀年度」です。■
121028_23.jpg「米穀年度:べいこくねんど」とは、日本で米などの穀類の取引に関わる年度のことで、11月1日~翌年10月末日までの1年の期間の収穫を基準に区分しています。

日本の主食である「米」は、日本の行政機関の1つである農林水産省が、食糧管理法に基づいてその生産や流通までを管理してきました。

因みに、市場に流通している自主流通米は「◯○年度産」という表示が行われていても、米の収穫時期には幅があり、米穀年度が実際に収穫された暦日とは一致していないなどの齟齬も生じる恐れがあります。新米・古米という通俗的な区分は、その基準が曖昧なので注意したいところです。


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■11月1日「計量記念日」です。
141027_27.jpg「計量法」とは、日本の法律の一つ。平成15年6月に計量法が改正され、翌年のこの日、改正計量法が施行されたのを記念して制定されました。

計量法では、長さ・質量・角度・面積・体積・速さ・加速度・圧力・熱量などの計量の基準を定め、適正な計量の実施を確保し、経済の発展及び文化の向上に寄与することを目的としています。

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このページよりも下に掲載してある11月の「暦」
平成27年11月(去年)のものです。

平成28年(今年)になってからの、祭礼や行事は
旧暦を採用しいるケースもあり、
去年とは月や日が変わることがあります。

平成28年の「暦」は、
祭礼や行事の2~4日前には
季節お便り」として掲載します。
是非そちらをご覧下さい。

お楽しみに。
筆者敬白

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■10月29日~「十方暮れ入り」です。
110324_12.jpg十方暮れ:じっぽうぐれ・じゅっぽうぐれ」とは、干支を五行に配当したときに「上下互いに尅(こく)する」干支「甲申~癸巳」までの10日間のことをいいます。但し、丙戌と己丑の日は間日(まび)になります。
今回の十方暮れは10月29日~11月7日までです。

10月29日 甲申=金尅木 
10月30日 乙酉=金尅木
10月31日 丙戌=火生土(間日)
11月01日 丁亥=水尅火 
11月02日 戊子=土尅水 
11月03日 己丑=土和土(間日)
11月04日 庚寅=金尅木 
11月05日 辛卯=金尅木 
11月06日 壬辰=土尅水 
11月07日 癸巳=水尅火


120712_64.jpg十方暮れの「十方」とは、「天地八方」を指します。四正(しせい)方位「東西南北」と、四隅(しぐう)方位「南東・南西・北西・北東」の八方位に「天地」を合わせた十方位のことです。または「十方世界」ともいい私たちが右往左往する現実の世界、すべての方角に無限に存在する世界の全部のことを示します。
 
この十方が「四方八方閉ざされた状態」を「十方暮れ」といい、旧暦の解説書には「途方に暮れるの語呂合わせ」と書かれています。または「十方暗」「十方闇」ともいいます。
 
それにしても、やはり「とほうくれ」と読みたくなるほど、うまくいかなく「途方に暮れる」期間なのでしょう。十方が暗い(暮)ので、天気が良くない日が続きます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「十方ぐれ」は発祥は定かではありませんが、五行説では干支の組み合わせから「相性の合わない日」とされています。この時期、雨が降っても大したことなく、降りそうで降らない曇りがちの(すっきりしない)天気
が続きます。転じて暗雲(問題)が立ち込めているが雨(解決)が降らないという中途半端な状態です。
これは、十方(方位八方向に上と下を合わせて十方)の気が塞がっていて、何の相談ごとも解決出来ない期間とされています。

せっかちさから、業を煮やして事を起こしても逆効果です。解決どころか反対に、こじらせて損失を招く恐れがあります。このような時期には、慌てずに「過ぎるを待つ」のが最大の解決方法です。
筆者敬白

■11月30日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

130208_23.jpg宣明暦時代には「万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、見過ごされやすい歴注です。この日から手習い、開店、事始めには最適の日です。
11月月末の「一粒万倍日」です。暦の上では、小雪を過ぎ、師走の準備が始まります。。

体調管理の難しい季節です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

■11月29日「三の酉」です。■
111028_2.jpg酉の市」は、11月の酉の日に行われる鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼に立つ市を指します。正式には酉の市と書いて「とりのまち」と読み、酉の祭(とりのまち)、大酉祭とも。「おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

最初の酉の日を「一の酉」次の酉の日を「二の酉」その次を「三の酉」といいます。平成27年は三の酉まである年です。

「一の酉」は、11月5日(木)
「二の酉」は、11月17日(火)
「三の酉」は、11月29日(日)

長い歴史を持つ神祭「酉の市」は、春を迎える神事祭礼で、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りするお祭です。開催時間は午前0時~午後24時まで。午前0時の一番太鼓と共に市が始まり、丸一日間執り行われます。

鷲は獲物を「ワシヅカミ」にします。その爪を模したものが「熊手:くまで」とか。「福徳をかき集める」「福をとり(酉)こむ」「かきこむ」「はきこむ」という招福の縁起物として、農具の熊手、おかめ、入り船などが売られます。

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境内は「縁起熊手」を求める人で賑わいます。熊手商と「買った負けた」とのやり取りを楽しんだあと、商談が成立すると威勢よく「手締め」が打たれます。

気に入った熊手を見付け、その金額をまけさせ、その分を店側に「ご祝儀」として渡すのが粋な買い方。手締めはこのご祝儀に対して行われます。結局のところ定額を支払っていることになるわけですが...。

始めは小さなものを求め、年々大きくしてゆきます。

酉の市は東京都台東区「鷲神社」、新宿区「花園神社」など、関東地方各地の社寺で行われます。

◇鷲神社http://www.otorisama.or.jp/
◇花園神社http://www.hanazono-jinja.or.jp/mt/top/

「鷲神社:おおとりじんじゃ」に祀られる開運招福の守り本尊「鷲妙見大菩薩:わしみょうけんだいぼさつ」は、「鷲大明神:おとりさま」と呼ばれ親しまれています。

▼法華宗鷲在山長國寺鷲妙見大菩薩
鎌倉時代の文永2年(1265)宗祖・日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす=千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山・鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ「にわかに明星(金星)が動き出して、不思議な力をもってして現れ出でた」と伝わります。

それは、11月酉の日のこと。七曜の冠を戴き、宝剣をかざして、鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」「おとりさま」と呼ばれてきました。

浅草酉の市は、酉の寺「長國寺」の「鷲妙見大菩薩」ご開帳の法要で始まります。本年は「午後11時55分」半鐘が打ち鳴らされ本堂へ入堂。本堂前には参詣者が集まります。「午前0時」一番太鼓を合図にご開帳の読経が始まり「鷲妙見大菩薩のご開帳」です。

住職が宝剣を振り、本堂内を浄めた後、本堂前に集まった参詣者に宝剣を振り、祭りに関わる一切の難を祓って安全を祈念します。

白装束の僧侶「祈祷師」による大迫力の「開運招福の祈祷」の後、熊手商の音頭で参詣者全員が威勢のよい開運手締めを打ちます。多いときには千人を越す人が集まります。

鷲妙見大菩薩ご開帳の間、特別祈願の祈祷を終日行っています。特に、酉の市が始まる深夜午前0時ご開帳法要直後の「一番祈祷」には多くの祈願者が集まります。祈祷のあと「開運のお札」を受け、客殿で赤飯と煮〆の軽い「お斎:おとき」を頂きます。

24時「ご閉帳の法要」が執り行われます。終日、多くの参詣者と縁を結んだ「鷲妙見大菩薩」が安置される厨子の扉を静かに閉じて、酉の市の終了です。

酉の市
◇東京都台東区千束3-19-6
鷲神社(おおとりじんじゃ)
◇法華宗鷲在山長國寺境内

◇東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」徒歩9分
◇東京メトロ日比谷線「入谷駅」徒歩7分
◇酉の市
http://www.torinoichi.jp/

■11月29日「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」です。■
一粒万倍日いちりゅうまんばいび」または「いちりゅうまんばいにち」と読み、単に「万倍」ともいいます。

宣明暦時代には「
万倍」と記載されていました。また、貞享改暦後は暦注から外されていましたが、新暦普及後には民間の暦に記載されるようになりました。

一粒の籾(モミ)が、万倍にも実る稲穂になる」という目出度い日で、よろず事始めには良い日とされます。特に、仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに良い日とされます。

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但し、人に借金したり、物を借りたりすると、後々苦労の種が増えるとされています。借金が万倍では、返済しきれないと考えたのでしょう。

現在の市販暦を見ると、一粒万倍日が以外に多いことがわかります。不成就日に対抗する日であると考えるとわかりやすいかもしれません。

一粒万倍日の日取りは、節切りで決められています。

・正月...丑と午の日  ・2月...酉と寅の日  ・3月...子と卯の日
・4月...卯と辰の日  ・5月...巳と午の日  ・6月...酉と午の日
・7月...子と未の日  ・8月...卯と申の日  ・9月...酉と午の日
・10月...酉と戌の日 ・11月...亥と子の日 ・12月...卯と子の日
※一粒万倍日は、他の暦注と重なる場合があります。吉日(良い日)と重なれば効果が倍増し、凶日(良くない日)と重なれば半減するといわれています。

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
ひと月に数回ある「一粒万倍日」は、多い割には見過ごされやすい歴注です。手習い、開店、事始めには最適の日です。すでに11月中旬で、季節は本格的な冬への変わり目でなのす。
通勤電車の中でマスクをしている方や咳をしている方をお見受けします。体調を崩しやすい時期です。
皆様、時節柄お体ご自愛専一の程

筆者敬白

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■11月19日「三隣亡」(さんりんぼう)です。■
もともと三隣亡は、保呂風日※(ほろぶにち)に代表される「七個の悪日」の一つ。この日に棟上げ、建築を行うと、三軒隣まで焼き滅ぼすといわれる建築に関する凶日とされます。

※保呂風日とは、宣明暦(せんみょうれき=中国暦=貞観4年(862)頃)の時代に、伊勢暦などにあった暦注のこと。

江戸時代の雑書などには「三輪宝」と記され、「屋立てよし、蔵立てよし」と書かれていて、もともと目出度い日でした。これがいつ頃からか「屋立てあし、蔵立てあし」に変わってしまいました。

このように由緒のはっきりしない暦注ではありますが、六曜とともに幕末の庶民の間で流行し、明治時代の「おばけ暦」に記載されていました。現在では、どの暦にも「三隣亡」は記載されています。

三隣亡の日取りは、節切りで決まっています。節切りとは、二十四節気を基にした選日法の一つです。

・正月...亥の日 ・2月...寅の日 ・3月...午の日
・4月...亥の日 ・5月...寅の日 ・6月...午の日
・7月...亥の日 ・8月...寅の日 ・9月...午の日
・10月...亥の日・11月...寅の日・12月...午の日

建築関係者の大凶日とされていますが「高い所へ登ると怪我をする」とか、「引越しは火事になる」とかいわれますので、迷信だと気にしないよりも、注意するに越したことはありません。また、結納や建前は避けた方がいいでしょう。
 

八木宏之プロフィール
セントラル総合研究所・八木宏之
株式会社セントラル総合研究所
代表取締役社長

連帯保証人制度見直し協議会発起人。NPO法人自殺対策支援センターLIFE LINK賛同者。
平成8年、経営者への財務アドバイスなどの経験を活かし、事業再生専門コンサルティング会社を設立。以来14年間、中小企業の「事業再生と敗者復活」を掲げ、9000件近い相談に応えてきました。
事業再生に関わる著書も多く出版。平成22年5月『たかが赤字でくよくよするな!』(大和書房)など多く出版。平成14年、『借りたカネは返すな!』(アスコム)はシリーズ55万部を記録しました。
著書の紹介はこちらから。

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